丹波篠山
 内藤豊昌の故郷 
 東京都
    渡辺 正憲 

 

  篠山の歴史
 豊昌が生涯の大半を過ごした町、丹波篠山は山に囲まれた篠山盆地の中心地として、数千
年の昔から人々が暮らしてきた歴史のある町である。弥生時代(紀元前五世紀から紀元三世
紀頃)の出土品も数多く発見されており、車塚古墳などの存在によって古墳時代(四世紀から
六世紀)には豪族がこの地域に住んでいたことが知られている。また、大化年間(六四五〜六
四九) に建てられた寺やそこに安置されている仏像などにより、奈良時代から仏教を中心と
した文化が栄えたことが分る。江戸時代には城下町として、京都の影響をうけながら、丹波の
中心として発展した。
 丹波篠山は京都、大阪と山陰、山陽を結ぶ要ともいうべき土地であった。このため、徳川家
康は関ヶ原の合戦に勝利を収め、慶長八年(一六〇三)江戸に幕府を開くと、この地に子の松
平康重を送り、江戸幕府最西端の拠点とした。西国大名の監視という役割と、大坂城にある豊
臣秀頼を牽制するという意味合いの強いものであった。家康は正室の築山殿との間に信康が
生まれた後、侍女との間に子供が出来たが、築山殿の目を恐れて隠し子としたのが松平康重
だという。慶長十四年(一六〇九)、松平康重は家康に命じられ篠山に城を築き、初代城主と
して城下町の建設に力を注いだ。 城の普請は、築城の名手といわれた藤堂高虎が縄張奉行
となり、十五カ国二十大名から八万人もの人々が動員され、二百日で完成したといわれてい
る。篠山という地名は、もともと笹の茂った小高い丘があり笹山と呼ばれていたが、康重がそ
こに城を築くことにしたことから、街全体を篠山というようになったという。


  篠山の町
 大阪から福知山線特急に乗り一時間程で篠山口に着くと、この町が山に囲まれた盆地にあ
ることが分る。駅は町の西端にあり、城跡のある中心部まで徒歩で三十分、バスで十分ほど
かかるが、その間は田園風景が広がっている。町の中央に堀に囲まれた篠山城跡がある。明
治になり城の大部分は取り壊されたが、平成十二年三月に大書院が復元された。城跡の西側
には武家屋敷が十数戸残り、中を見学出来る建物もある。
 城跡の北側にある春日神社には、篠山城の第十三代城主青山忠良(ただなが)から寄進さ
れた能楽殿がある。その東には篠山市立歴史美術館があり、内藤豊昌の作品など篠山ゆか
りのものが展示されている。
 城跡の北側と東側の通りや、かつての篠山街道沿いにある河原町には古い造りの商店が並
び風情がある。丹波の産物の一つである猪の肉を売る肉屋の店先には猪の置物が置かれて
いるが、残念ながら豊昌の銘はなく、無銘である。また、猪の肉を野菜や豆腐と一緒に鍋に入
れ、味噌で味をつけて、煮て食べる、ぼたん鍋、又はしし鍋は篠山の名物料理で、店先には猪
の剥製が飾ってある。
 豊昌の根付に猪が多いのは、猪が篠山の名物だからであろう。また、篠山にはその地名の
通り、至る所に竹林がある。竹林は虎を連想させるので、篠山に虎が生息していた訳ではない
が、豊昌が虎の根付を得意としていたのは何らかの関連があるかもしれない。
 篠山城西側の外濠に沿ったところに、お徒士町(おかちまち)通りという通りがある。お徒士
は藩主の警備にあたる武士のことで、この通りにはその武士たちの茅葺き屋根の家が十数戸
残り、江戸時代の雰囲気を残している。その一つである安間家は藩主、青山氏の家臣の屋敷
跡で、現在は史料館として一般に公開され、安同家の文書、食器、家具、武具などを展示して
いる(写真1)
 その近くには、文化年間(一八〇五年頃)に藩主青山忠裕(ただやす)が老女小林千衛のた
めに改築した小林家長屋門がある(写真2)。城の西堀に面して見晴らし窓を設けた物見の間
のある、住宅兼用の長屋門で、当時の姿をそのまま残している。
 
                              
 
  篠山城跡と大書院
小林家長屋門のすぐ前は篠山城の外濠である(写真3)。春には桜の名所となり、城垣一体
に桜が咲き乱れる。大書院は篠山城の完成とほぼ同時期に建てられ、二百六十年間にわた
って新年の祝賀など藩の公式行事に使用された。明治の廃藩置県後も残され、学校や公会堂
として使用されていたが、昭和十九年(一九四四)に火事のため焼失した。平成十二年、地元
の人達の熱意により、寄付や文化庁、兵庫県の援助金を得て、ほぼ昔の姿のまま復元された
(写真4)
 篠山藩の領地は五万石であった。藩主は徳川家康の子、松平康重を初代とし、八代までは
松平家が藩主を務め、九代目以降は徳川譜代大名の青山家が藩主の座を占めた。十二代
の青山忠裕(ただやす)と、十三代の忠良(ただなが)の時代に豊昌が活躍したのである。
 
 
 
  篠山城主、青山忠裕
 忠裕は天明五年(一七八五)に第十二代城主となり、青山家の中興と呼ばれた名君である。
大阪城代から京都所司代となり、その後三十四才で幕府の老中となってから、三十二年間も
勤め上げた手腕の優れた人物であった。
 昭和三十三年発行の奥田楽々斎著「多紀郷土史考」には、青山忠裕の絵が掲載されている
(写真5)。この絵は忠裕の美談を物語るもので、右手に持っている袋には印鑑が入っている。
その袋の紐は一丈(十尺、三メートル)ほどの長さにしてある。忠裕は民百姓をあわれみ、老
中の時も人命を重んじた。そのため、死刑に処すべき者を救うために、なるべく時間を引き伸
ばして、印鑑の入った袋の紐をゆっくりとほどいた。係の者は、死刑の執行をするのには印鑑
を押して貰わなければならないのだが、忠裕は悠然と話しをしながら中々紐をほどかない。そ
の内に、一日の終りを告げる太鼓がドーンと鳴る。すると、忠裕は 「今日は此れ迄」といいな
がら紐をクルクルと巻いて片付け、さっさと下城してしまうのであった。この名君、忠裕の時代
に、豊昌が薄の御用彫物師となった。

                                             

  家斉(いえなり)主催の茶会
 天保六年(一八三五)正月、江戸城西の丸で、徳川十一代将軍主催の茶会が開かれた。
その前年に老中辞任を申し出た青山忠裕に対し、将軍家斉は長年の労をねぎらうため忠裕を
招き、珍しい茶道具を取り揃え、特別の茶会を催したのである。青山家に残るお茶会次第書
付により、御前即ち将軍家斉と、御台所、即ち将軍正室による将軍夫妻主催の茶会であった
ことが分る。御掛物は空海(弘法大師)真筆の「春風」という二文字の書で、細川三斉(忠興)
が箱書をしたもの、そして信長卿御所持と書かれている。御釜は黄金の太閤御物、豊臣秀吉
が北野の大茶会の時に用いた釜とある。その外、水指は利休、茶杓は二代将軍秀忠御好、
茶碗は信長が愛用していた中国の名器七種の一つと書かれており、会席の献立の中でも、茶
碗は本阿弥光悦作など名器中の名器を勢揃いさせて、最高のもてなしをしたのである。家斉
が青山忠裕を高く評価し、引退を惜しんだことが分る。
 十二代将軍家慶は、青山忠裕の功績を称えて一万右を加増し、六万右とした。このことは、
忠裕の後、篠山薄十三代藩主となった青山忠良に出された知行宛行朱印状により確認出来
る。


  春日神社
 篠山城跡の北に春日神社がある。春日神社の絵馬堂には、黒い神馬の図 (写真6)、大森
彦七の図など、二十二面の絵馬がある。春日神社は八七六年に建てられた古い神社で、もと
もとは篠山城の建てられた場所にあったが、城を築くために、現在の場所に移されたのであ
る。
 境内には文久元年(一八六一)藩主、青山忠良により寄進された能楽堂があり、境内に忠良
の功績を称える碑が立てられた。この能舞台では現在も正月一日(翁)、春(篠山春日能)、秋
(丹波夜能)の一年に三回、能と狂言が奉納されている。

 

  内藤仏具店
 豊昌から数えて五代目の内藤英蔵氏が現在篠山で仏具店を営んでおられる。立町にあり、
初代豊昌が藤屋の家号で印判業を営んでいた場所と同じ場所と思われる。仏具店は英蔵氏
の御尊父で、豊昌から四代目の内藤専太郎氏が始められ、次男の英蔵氏が継がれた。専太
郎氏の長男豊昌氏は西宮の小学校校長を務め、引退後も引き続き西宮に住んでおられた
が、一九九九年に亡くなられた。 内藤家の庭に百年以上も置いてあった黒柿がある(写真
7)。豊昌が材料として使用した可能性もありそうである。また、内藤家には大黒の置物が伝わ
(写真8)、底部に「丹波笹山左豊昌作」と墨で書かれている(写真9)。左豊昌の筆跡研究に
貴重な資料である。また、無銘だが豊昌の作として内藤家に伝わる恵比寿像がある。初代豊
昌も二代豊昌も大黒や恵比寿をたくさん作ったそうだが、戦後は子供の玩具になったり、十二
月のお火焚神事の煙となって燃やされたりして、余り残っていないということが、昭和十四年十
二月発行「丹波民芸」第二号に掲載された岩本茂一氏の「篠山の生んだ木彫師内藤豊昌」 
や、県立篠山座高講師、嵐瑞澂氏が昭和四十五年一月の多紀新聞に連載した「篠山の生ん
だ芸能人−内藤豊昌、豊容について」に書かれている。

  

  岸岱(がんたい)作虎図
 内藤家に伝わる絵に猿の図と虎の図がある。猿の図は作者不明だが、左の虎の図(写真
10)は京都の絵師だった岸岱によるものである。豊昌は篠山藩家老吉原三郎左衛門の紹介
状を持ち、天保三年(一八四二)に京都の岸岱に会いに行った。岸岱は岸派の祖、岸駒(がん
く)の長男で、岸駒に絵を学び、その他書や文筆などにも長じていたといわれている。岸岱から
吉原三郎左衛門に宛てた書状によると、豊昌が京都の岸岱を訪問した時に、大江山の置物な
どを土産として差し出したが、そのお返しに虎の絵を所望したとあるので、この虎の絵がその
絵ということになる。
 

  豊昌命名書状
 内藤家に伝わる豊昌命名の書状(写真 11)により、内藤仙助という彫物師が豊昌の名を与
えられたのは文化六年(一八〇九)であったことが確認出来る。これには己巳(つちのとみ)九
月吉日とあり、文化六年は蛇年であった。 豊昌は蛇年生まれだから、自分の干支の年に豊
昌という名前を授かった訳で、縁起が良かったのではないかと思う。この書状は豊昌研究のた
めの第一級資料として貴重なものである。
 豊昌の研究者、市道和豊氏によれば、水性相生(すいせいそうしょう)は陰陽五行に関係し
たものだそうである。水は五行の木、火、土、金、水の一つで、万物組成の元素とされる。木か
ら火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生ずるを相生(そうしょう)という。
 豊昌の下に書かれた 「帰納」 は易学で名乗りの際、吉凶を占うことで、豊昌という名前が
芳しい(かんばしい)、つまり縁起の良い名前であるという意味であろう。
 「中川尚謹考」は、二つの解釈がある。一つは、昭和五十年九月発行の多紀郷友会編「卿
友」に掲載された畑光氏の研究論文にあり、中川尚謹なる人物が考えたという読み方であり、
いま一つの考え方は、中川尚が謹んで考えたという市道氏の見解である。即ち、「中川尚」まで
は字が太く、「謹考」 はやや字が細いように見えるというのである。篠山藩の藩士の名前が出
ている古文書を調べれば、どちらかの名前が見つかるのではないかと思い、筆者が篠山の図
書館などで調べたが、残念ながら今のところ見つからない。
 「内藤仙助雅丈(ないとうせんすけまさたけ?)」 は、「せんすけ」の「せん」が「仙」になってい
るが、別の書状や寺の過去帳では「専」となっている。また、篠山藩御小納戸役河井九郎兵衛
より豊昌に宛てた書状には、「彫物師藤屋仙助」と宛名が書かれている。
「雅丈(まさたけ?)」 は豊呂の名前の一つである可能性もあるが、他の書状や文献には一
切出てこない。「丈」は歌舞伎俳優などの名前の下に敬称として付けることがあり、この雅丈も
敬称かもしれない。

 

  豊昌納品覚書
 内藤家に伝わる豊呂直筆の覚書で、誰にいくらで納品したかを記録しているものがある(写
真12)。これを見ると代金はどれも二百疋と書かれており、豊昌の通常の作品は二百疋が相
場だったようである。一疋は二十五文、二百疋は五千文、即ち五貫であった。
 一両が四分で銭四貫、二百疋は五貫で一両一分になる。当時の下級武士(御家人)の年俸
がサンピン=三両一分であるところから、豊昌の平均的な作品は下級武士の月給四ヶ月分程
度に相当したことになる。但し、青山忠良の弟で美濃部上藩主であった青山大和守幸哉の注
文品に対しては、代金が五両との記録が残っていて、時間をたっぷりとかけた力作について
は、相当の高額であったことが分る。

                                       

  豊昌印判台帳
 内藤家にある資料で、最近貴重なものを発見した。 筆者が平成十三年六月に内藤家を訪
ねた際、こんなものが出てきたと言って、内藤英蔵氏が見せてくれた小さなノートである(写真
13)。表紙に「第六号内藤」と書かれ、裏表紙に「彫物師豊昌」と書かれている。豊昌は若い頃
に曾地から篠山の立町に移り、印判業を営んだといわれているが、印判業でどのようなものを
作ったのか、これまでその事に関する資料がなかったのである。今回発見した資料は、その印
判の見本をノートに記録したものである。笹山、丹州篠山高屋 (よろずや)等、地元の商店な
どのために印判を作ったことが分る(写真14)。松、竹、梅の絵を彫ったもの(写真15)や、寺の
印判もある。また、左下に「篠山御用細工」の印判がある頁もあり、自分で使用したものであろ
う。



  淡島神社
 内藤家の路地を入ったところに、淡島神社という小さなお社(やしろ)がある(写真16)。昔は
ここに左豊昌の彫った御神体がまつられていたそうだが、盗難にあって、今はなくなってしまっ
た。残念なことである。この御神体はおすべらかし女神像といわれるもので、おすべらかしは
女性の下げ髪のことを意味する。
 昭和十四年に岩本茂一氏が季刊誌丹波民芸に書いた「篠山の生んだ木彫師内藤豊昌」に
は、このおすべらかし女神像が淡島神社にあると書かれているが、昭和三十三年出版の「多
紀郷土史考」には、「この淡島さんの御神体を左豊昌というのが黒柿の木で彫刻して祀ってあ
ったのを何時か盗まれてしまったという事である。」と書かれている。従って、盗難があったの
は、昭和十四年以降昭和三十三年以前のことということになる。

 

  観音寺と豊昌の墓
 河原町商家群の近くにある観音寺(写真17)は、中世の頃は京都の醍醐寺に属し、多紀郡
曽地村にあったそうである。曾地は篠山に転居して来て印判業を営むまで、豊昌が住んでい
たところである。観音寺は戦乱で廃寺となっていたものを、慶長十五年(一六一〇)に篠山の
城下町を建設するに当たり、河原町の現在地に移された。内藤家の墓が観音寺の墓地にあ
る。
 豊昌の戒名は「文翁理彩禅定門(ぷんおうりさいぜんじょうもん)」、夫人の戒名は 「文室貞
彩禅定尼(ぶんしつていさいぜんじょうに)」である。
 左豊呂と夫人の墓は豊昌の墓の直ぐ後にあり、「内藤左豊昌、同妻墓」 と書かれている(写
真18)

                            

  篠山市立歴史美術館
 篠山市立歴史美術館は、明治二十四年(一八九一)に篠山地方裁判所として建築され、昭
和五十六年(一九八一)まで使用されていたもの、重要建造物として永久に保存するために、
美術館として改装したものである(写真19)。篠山に伝わる美術品や調度類が展示されてい
る。
 第一展示室中央のガラスケースの中に豊昌の作品を数点見ることが出来る。猪の置物が二
点あり、一点は黄楊をほとんど染めずに仕上げたもので、底部に 「豊昌作」と銘が入ってい
る。 もう一点の猪(写真20)は西洋彫刻風で作風が異なるので、初代豊昌ではないかも知れ
ない。二代豊昌ば明治十六年まで生きていたので、西洋彫刻に接する機会はあったと思うが、
伝統的な様式から離れてこのような作品を作ったかどうか。今後の研究課居である。
 タガヤサンで作られた刀の拵(こしらえ)は、鞘全体を波紋で彫り、柄の裏表に亀が彫られて
いる。これにも「豊昌作」の銘がある。象牙の部分は竹に梅、松笠を組み合わせた松竹梅の図
柄で、光廣熟年期の見事な銘が入っており、裏側にある小柄は地が木で、象牙の鶴がはめら
れている。豊昌と光廣の組み合わせという珍しい作品である。
 別の太刀拵(こしらえ)には「豊昌作」の銘があり、柄、小柄に龍が彫られている。小柄の刀
身には倶梨伽羅龍と玉が刻まれており、黒檀製である。また、「昇天の山芋にうなぎ」と題され
た木刀は珍品といえよう。真に「八十才豊昌作」とあり、薄茶色の、黄楊をほとんど染めずに作
ったものである。更に鯛(たい)を抱える恵比寿の置物がある。「八十才豊昌作」とあるので、初
代豊昌の作と思われる。この恵比寿像には底部に 「嘉永四年(一八五一)辛亥(かのとい)十
一月日園井秀譽」と、買い求めた人物の名が墨書きされている。
 興味深いことに、篠山市立歴史美術館に展示されている豊昌の作品はいずれも根付以外の
作品ばかりで、根付は一点もない。過去に豊昌の根付が一、二点展示されていたことがある
が、それは内藤英蔵氏の所蔵する根付(写真21・22)で、現在は内藤家にある。私達は通常豊
昌を根付師として考え、語ることが多いが、このように豊昌は根付以外の作品も数多く制作し
た。大英博物館には獏の意匠の木刀があり、アラン・デュクロ著「根付と提物」には黒柿製の
竜をかたどった煙管筒が掲載されている。その他にも、豊昌の木刀や虎の置物などを所蔵す
る蒐集家もいる。

 

豊昌の木刀
 筆者の所蔵する豊昌の木刀の写真を二点掲載する。波に亀の木刀(写真23) は豊昌七拾
二歳の作で、市道和豊氏の研究によれば、「作」という字の七面目を右にまわした後、上に跳
ねている(写真24)のが初代豊昌の特徴で、二代豊昌は上に跳ねないそうである。亀の部分の
拡大写真を見ると、木の質感、特徴のある茶と黒の溝淡をつけた染めなど、豊昌らしさが良く
分る。
 もう一点の木刀は雨龍の図(写真25)で、最近コピーが出回っているが、これはそのオリジナ
ルである。春粧庵豊昌という銘が入っている(写真26)。春粧庵は華道遠州流の号だった。 根
付や木刀、置物などの作品で春粧庵と彫られたものは数点しかない。



豊昌の根付
 豊昌の根付には動物の根付が多い。その内でも虎は数が多く、人気も高いが、牛、兎、龍、
蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪と十二支のほとんどすべてを作っている。筆者自身は豊昌による鼠
の根付を見たことがないが、果たして豊昌は作ったのだろうか。地方の売立目録に写真が掲
載されていたとの情報はあるが、現物は残念ながら確認出来ない。
 十二支以外の動物では鹿、狸、狼、霊獣・珍獣では獅子、麒麟、鳳凰、天狗、河童、鳥類で
は鷹、秦、雀、その他の動物では亀、蛙、鍋牛、鯉、河豚、飴、蛸に蛤、蝉、蜂の巣に蜂、人物
では蝦蟇仙人が最も多く、張果老仙人、東方朔仙人、壷公仙人、陳楠仙人、半諾迦尊者、布
袋、福禄寿、龍神、鐘馗、雷電、・金太郎、万歳、俄役者なども彫っている。その他では面寄
せ、ほおずき、兜の図柄が知られている。
 豊昌の作品の中で動物と人物の割合は、約三対一で動物が多い。

 万歳根付 (写真27・28)‥万歳は、年の初めに風折烏帽子を被り、鼓を打ち、その年の繁
栄を願って歌い、舞い、街を回って祝儀を貰った芸人。通常は袴をはいて刀を差した太夫と、
袴をはかず手に鼓を持ち、肩に布袋を背負った道化役の才蔵の二人一組で、都に来る大和
万歳と江戸に来る三河万歳が有名だった。法実や民谷などが二人万歳を根付の意匠にうまく
まとめているが、豊昌は鼓を持つ才蔵一人を根付に図案化した。動きのあるやや大ぶりの根
付で、人物の表情が良い。



 河童に猿根付 (写真29・30)‥河童と猿の組み合わせである。河童は河太郎ともいい、相
撲が好きで、誰彼となく相手を見つけては相撲を取るといわれている。この根付は豊昌八十二
才の銘があり、八十四才で死んだ豊昌の晩年の作品。江戸時代の八十二才は非常な高齢で
あり、このようにしっかりとした根付を作ることが出来たことは驚異的である。

                                   

  豊 容
 最後に初代豊昌の長男についてふれておく。二代豊昌は左ききのため左豊昌と呼ばれ、豊
容という名を持っていた。この「豊容」は、従来「とよやす」と読まれてきたが、市道和豊氏が指
摘しているように、間違いのようである。上田礼吉の「根付の研究」にそう書かれているので、
それ以降の内外の根付に関する書籍にはすべて「とよやす」と書かれるようになったようだが、
「容」という字は「やす」の他いくつかの読み方がある。左豊昌の生まれた文化八年(一八一
一)における篠山藩主は青山忠裕(ただやす)であり、藩主と同じ「やす」を使用することは不忠
と考えられ、まずありえないというのが根拠の一つである。また、地元の郷土史家、嵐瑞激氏
は「容」という字の読み方として、「やす」の他、「おさ」「かた」「ひろ」「まさ」「よし」を列挙し、その
中で「まさ」に丸をつけている。
 更に、多紀郡の郷土誌「郷友」の昭和五十年九月号に畑光氏が書いた「篠山藩御用彫物
師、内藤豊昌」には、「豊容」に「とよまさ」とふりがなを振っている。 市道氏が数年前に豊昌
から数えて五代目にあたる内藤英蔵氏を訪問した時に、左豊昌が根付
の世界で 「とよやす」と呼ばれていたことを驚き、内藤家では代々「とよよう」と呼んでいるとの
ことであった。恐らく、「豊容」は「とよまさ」と読むが、父の初代豊昌と紛らわしいので、内藤家
では 「容」を音読みして「とよよう」と呼んでいるものと思われる。

 このように、過去の文献には間違いもあり、疑問な点もあるので、書かれた内容をそのまま
鵜呑みにせず、一つ一つ事実を確認することも必要であろう。時間もかかり、大変な作業では
あるが、研究者にとっては、文献記載内容の根拠を求め、裏付けを取る過程で新たな発見に
つながるという喜びもある。同好の志が増え、研究の成果が着実にあがることを願うものであ
る。

  参考文献
「豊昌命名書状」中川尚、文化六年九月
「印判帳」内藤豊昌、江戸後期
「豊昌納品覚書」内藤豊昌、江戸後期
「西御丸御茶湯次第」 御数寄屋方高田三郎、天保六年正月
「郷土事典」 篠山尋常高等小学校郷土教育研究会編纂、昭和十一年七月
「篠山の生んだ木彫師内藤豊昌」 岩本茂一、丹波民芸第二号、昭和十四年十二月
「根付の研究」上田令吉、昭和十八年十月
「多紀郡内古文化財目録」 奥田楽々斎、昭和三十年九月
「多紀郷土史考」 上巻・下巻、奥田楽々斎、昭和三十三年十一月
「篠山の生んだ芸能人−1内藤豊昌、豊容について」嵐瑞澂、多紀新聞、昭和四十五年一月
「篠山藩御用彫物師−内藤豊昌」 畑光、郷友(多紀郷友会編)、昭和五十年九月
「丹波篠山城とその周辺 (改訂第五版)」嵐瑞澂、平成四年四月
「内藤豊昌と丹波の根付師達」渡辺正憲、目の限、平成六年六月号
「篠山市の指定文化財」 篠山市教育委員会、平成十二年三月
「豊昌の蛸牛根付 (英文)」 市道和豊、ダルマ(英文日本骨董誌)                
                                     二十九号、平成十二年十二月
「内藤豊昌(英文)」市道和豊、国際根付ソサエティ会報                       
                       平成十二年冬号、平成十三年寄号、平成十三年夏号
「史跡篠山城跡大寺院」篠山市教育委員会・篠山城大寺院編集、平成十三年四月


 根付の雫 Vol.47(2002)



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