この時期、各地の浄土真宗の寺院やご門徒宅で「報恩講」が勤まります。「報恩講」は浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご命日を縁としてお勤めする法要で、長きにわたる浄土真宗の歴史のなかで最も大切にされてきた法要です。
聖人の曾孫であり、本願寺の第三代宗主である覚如上人は、親鸞聖人のご生涯をまとめてくださっていますが、それがいま『御伝鈔』として伝わっています。そこには聖人のご往生の場面を次のように記されています。
聖人(親鸞)弘長二歳[壬戌]仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日[午時]頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。
世俗の只中に生きている限り、私たちの人生には順縁よりもはるかに多い逆縁が容赦なくおとずれます。わずか九歳での出家・得度、自力成仏道への絶望、承元の法難による流罪、息男である慈信房善鸞の義絶、親鸞聖人の九十年のご生涯もまた、眼前におとずれる言葉にならない厳しい現実に、幾度も押し流されそうになりながらも、人生の歩みを進めていかれたものでした。しかしその厳しい逆縁さえも、仏法の真実を味わう機縁として受け止められ、自身におとずれる出来事の一つひとつの意味を、お念仏を通して確認し続けられたのが聖人のご生涯でもありました。『御伝鈔』に記されている聖人のご往生のお姿を思う時、
まことに厳しい人生でした。けれど遇うべきものに遇い、聞くべきものを聞かせていただいたまことに尊い人生でした。如来さまに育てられ続けられた、私にしか歩むことのできないかけがえのない生涯でした。
と自らの人生に合掌されながら、お念仏を称えておられるお姿が脳裏に浮かんできます。
先に引用しました『御伝鈔』に「念仏の息」と記されている言葉は、文章の流れからすれば「念仏の声」でも通じるのもしれません。しかし、今でも「息を引き取る」という言葉があるように、「息」という言葉はその人の「いのち」そのものを表す言葉でもあります。
まさに親鸞聖人のいのちはお念仏に支えられ、お念仏につらぬかれたご生涯であったことを示される為に、覚如上人は「念仏の息」という言葉をあえてここにお使いになられたのだと個人的に味わっています。
親鸞聖人がいのちの支えとされ、私たちにご生涯をかけて勧めてくださったお念仏の教えをわが身に聞かせていただくこと。そしてその道を私が歩ませていただくことこそ、聖人のご恩に報いる道だと受け止めながら、今年の報恩講をお迎えしたいと思います。
(赤井 智顕)
自己中心の色メガネ 龍谷大学非常勤講師/小池秀章
今月の『育心』は、小池秀章先生がご執筆くださいました。
写真に写っている子どもたちが、色メガネをかけながら、楽しそうに遊んでいました。
「わぁー赤色の世界になった?」
「僕は黄色の世界や!」
「青色のメガネと交換してよ」
「次は緑のメガネかけようっと」
かけるメガネの色によって、目の前に広がる世界がずいぶん違って見えるようです。小池先生のお話では、見え方の違いで、二人の男の人が喧嘩になってしまいました。自分の見え方に固執して、友だちの見え方を受け入れなくなると、同じように、途端に楽しい遊びの場が喧嘩になってしまうかもしれません。
おもちゃの色メガネは、かけたり外したりが容易にできますが、気づかぬうちにかけてしまっている「自己中心の色メガネ」は、自己中心の世界に生きる私たちには、容易に外すことができないということですね。
仏さまのお話をしっかりと聞かせていただいて、「私は自己中心の色メガネをかけているんだ」ということを忘れないようにしたいと思いました。
子どもの育ち探しのすすめ 和洋女子大学教授/矢藤誠慈郎
2ページ目は、矢藤誠慈郎先生の「子育ちフォーラム」です。
「うちの子は、ちゃんと出来ていますか?」
「うちの子は、これで大丈夫ですか?」
保護者の方からよくお受けする相談です。
子育ては楽しいことも多くありますが、何かにつけて心配事を行ったり来たりする方が多いのかもしれません。
「保育所保育指針」や「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」は、文字通り私たち保育者の保育の手引きとなるものです。
園では、遊びや生活の中での子どもたちの姿に、指針の内容を照らし合わせながら、遊びの環境を工夫したり、関わりを見直したりしています。
矢藤先生がご提案くださったように、子どものできていない姿を見るのではなく、何が育っているかを見るためのガイドブックとして活用できたら、とても素敵なことだと感じました。
私は音のない世界で手話べり 教念寺副住職/古賀顕乗
『私の雑記帖』は、古賀顕乗さんのお話です。
お話から、「手話べり」(手話でおしゃべり)という言葉を初めて知りました。
古賀さんは、手話だけでなく、難聴の世界が広がっていくよう、様々な活動をされているということです。
「きこえる人、きこえない人、きこえにくい人」が様々なコミュニケーションを認め合い、「しょうがい」が「しょうがい」でなくなる社会が広がると素敵ですね。
2025年の「デフリンピック」が、「ありがとう」の手話べりで溢れますように。
貴重な原稿をありがとうございました。
さつまいもはどこにできる? 文・絵/三浦明利
今月の『お話の時間』は、ワクワク楽しいお芋やピーナツ(?)掘りで、いろんな発見がありました。
まだまだ残暑の厳しい秋ですが、どうぞお元気でお過ごしくださいね。
(鎌田 惠)
令和6年9月15日 ないおん編集室(〜編集室だよりから抜粋〜)