家庭教育誌「ないおん」は、教育・子育ちをテーマに毎月こころのお便りをお届けしています

ないおん寺院版6月号(2020年6月1日発行)は

3月の臨時休園の合間になんとか執り行った卒園式は、ひっそりと、1クラスずつの開催となりました。大人も子どももみなマスクを着けて、距離を開けて並べられた一人一人の席を回りながら、卒園証書を手渡しました。例年はたくさん歌っていた思い出の歌も、今年は1曲だけです。けれど、園歌斉唱の時には、先生たちが薄紙で本物そっくりにつくった花びらを、子どもたちの頭の上からふり撒きました。

天つもろびと 虚空(みそら)より 妙なる花を ふらさなん

と重誓偈の中にあるように、赤い花びらがひらひらと舞って、子どもたちの旅立ちを彩りました。
それから半月後、入園式は前日に中止が決まりました。裏山のヤマツツジがちょうどいい具合に薄紫に色づき、園庭の桜はどれも見ごろ。小さなお友だちのためにと、年長組が植えてくれたチューリップやパンジーも、美しく咲きそろっていました。花御堂もあみださまホールも花々で埋め尽くされ、小さな胸を膨らませている子どもたちの登園を待つばかりでした。

目に見えないものに脅かされる日々が続いています。緊急事態宣言が発出され、幼稚園は臨時休園となりました。保育園でも登園自粛をお願いして、実際に登園する子は3割ほどに減っています。人数は少ないけれど、職員の笑顔は少しずつ固くなっていくように見えます。毎日おそるおそる園を開け、できる限りの感染防止対策をとります。鼻水を拭いてやるのも、給食をいただくのも、綱渡りのように感じる日々。ため息をついて、子どもたちの声がまばらに響く園舎から、裏山を眺めます。
今年、ひときわ美しい春だったような気がするのは、それだけ、よりどころのない心持ちだったということなのかもしれません。「あるべきことが、あるべきようにない」というだけで、生活の足元をすくわれたような感覚に襲われます。けれど、ほんとうはそんなものは錯覚で、いつだってこの足元が堅牢だったことはないのです。不安定なものの上に、目をつぶって安住しようとしていたわたしたちの怠惰を、小さなウイルスに見破られたというだけのこと。もう一度、マスクの中に小さなため息を吹き込みます。

「入院して、わたしが心底感じたのは、あたりまえのことなんか何もない、何一つない、ということなんですよ」半年ほど前、突然の病に倒れた職員が、退院したその足で園にやってきて、そんなことを言いました。勤めて十年目、自分のこと以上に新人たちの面倒をみるようになった彼女の成長に目を細めていた矢先の病でした。一命をとりとめて帰ってきた彼女の言葉は、意外なほど軽やかな直球で、その場にいたみんなを黙らせるのに十分でした。
あたりまえではない今を、生きている。生かされている。わたしたちはいつも、そのことを忘れているけれど。背筋に、ぴしりと鮮烈なものが走ります。裏山の、黄色味を帯びていた新緑は、少しずつ深い緑に覆われていきます。
(武田 修子)

寺院版

声に聞く

草取りが一番の幸せ 「小欲知足」の教えを学ぶ   超勝寺住職 著述家/大來尚順

今月号の『声に聞く』は、大來尚順さんに、ご寄稿いただきました。
大來さんは、米国仏教大学院で学ばれた経験などをもとに、幅広い世代に仏教を伝える活動をされています。
今回のご寄稿は、ご門徒のおばあさんとの交流の中から、大來さんが「少欲知足」の教えを学ばれたというエピソードを紹介していただきました。
今、新型コロナの感染拡大という社会状況のなかで、わたしたちは、自分の足元をしっかりと見つめることを余儀なくされます。そして、今まで見失ってきた大切なことに気づかされます。
「物事を自分の思い通りにしたいという『欲望』」に振り回されていては「本当の幸せ」を得ることはできない。「我欲を満たすのではなく、心を満たすことが『本当の幸せ』」と、大來さんは述べられます。
今こそ「少欲知足」の教えに学ばせていただきたいと思います。

育心

箪笥さま   法泉寺坊守/稲葉邦子

ステイホームの期間に多くの人が「断捨離」をしているという話を聞きました。わたしもまた、例にもれず、ゴールデンウイークはひたすら、家の中や押し入れの片付けに専念しましたが、手紙や写真が出てくると、手が止まってしまって、なかなかはかどりません。片付けは進みませんが、これまでたくさんの方にお育ていただいたのだと、あらためて思わせていただくよい時間でした。
さて、今月号の『育心』は「箪笥さま」です。稲葉邦子さんは「箪笥にまで私を支えてくれたと感謝するような生き方をしたい」と述べられます。
わたしは、家の片付けをする中で「もののいのち」ということにまで、自分の想いが及んでいなかったようです。
そして、たくさんの人たちに支えられて生かさせていただいていることだけではなく「もののいのち」の有り難さを感じながら日々暮らしていくことが、こころ豊かに生きていくことなのではないかと、「箪笥さま」を拝読して、気づかせていただきました。

いのちみつめて

第62回 仏法に出遇って ひろがった世界 〜森野正子さん〜
文・森 千鶴/版画・西川史朗

『いのちみつめて』は、森野正子さんにお話を伺いました。
森野さんご夫妻の庭では、たくさんの「いのち」が芽吹き、そこにはコロナ禍とは無縁な世界が広がっていました。
新型コロナの長引く影響で、今年は薔薇の季節に森野さんの庭に伺うことはできませんが、咲き乱れるたくさんの薔薇の花とその香りを想像するだけで、心が満たされます。

私の雑記帖

記憶のお育て   学校法人押野学園 理事/岸上哲也

今月号の『私の雑記帖』は、「記憶のお育て」という、素敵な題名です。
岸上哲也さんは、幼少期にお仏壇のお世話をされたり、お仏壇に手を合わされたことが、「記憶のお育て」として、自分の身に染みついていると述べられます。
そしてそのことに気づかれるご縁をいただかれたことが、また尊いことであったのだと思います。
ご寄稿いただき、ありがとうございました。

コロナストレスという言葉が聞かれます。先行きのみえない不安の中、お聴聞をさせていただき、少しでも、自分自身を省みることができたらと思います。
(森 千鶴)

令和2年5月15日 ないおん編集室(〜編集室だよりから抜粋〜)

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