家庭教育誌「ないおん」は、教育・子育ちをテーマに毎月こころのお便りをお届けしています

ないおん寺院版5月号(2020年5月1日発行)は

新型コロナウイルス感染症が世界中にひろがっています。生活や経済への影響にとどまらず、私たちの命そのものにまで、深刻な影響を与えています。
思えば先行きの見えない、命の危険を感じながらの営みは、先達方がこれまで幾度となく経験されてきたことでした。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の晩年の生活は、まさにそのような状況にあったことが、お手紙に記されています。

なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそあはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。『註釈版』・771頁

このお手紙は文応元(1260)年11月13日付けで、常陸の乗信房へ出されたお手紙です。日付の分かっている聖人の最後のお手紙として知られています。聖人が88歳の冬に書かれたお手紙ですが、そこには厳しい言葉で、私たちの命の事実について記されています。
この世に生を受けた瞬間から、私たちは死すべき命と定められている存在です。しかもその死は、いつどのようなかたちで訪れるか知れないことを、すでに釈尊は「生死無常のことわり」としてお説きになられました。だからこそ、「死なない者が死んだのではない。死すべき者が命を終えていったのであるから、それは決して驚くべきことではない」と、聖人はまことに厳しい言葉でおっしゃっていかれたのです。
実は、このお手紙を書かれた文応元年の前年は正元元年で、わずか一年で元号が変わっています。そして文応元年の翌年は弘長元年に改元されています。この時期、日本各地では天変地異が起こっていたからです。そのせいで全国的な大飢饉と疫病が蔓延し、老若男女、無数の方々が命を落としていかれる悲惨な状況にありました。そのような状況を眼前にしながら最晩年の聖人が、渾身の想いを込めて書かれたのが先のお手紙だったのです。
ややもすると、生きていることを当たり前と思い、命を終えていくことを驚きと受け止めている自分がいます。しかし普段忘れがちになっていますが、本当に驚くべきことは、いつどうなってもおかしくない私が、いまここに生かされている事実でした。
だからこそ私たちは、自らの命の事実を、仏法を通して確認させていただくのでしょう。そして「後生の一大事」といわれる私のいのちの往き先を、「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」の仰せのなかに聞きうけていくのです。
変化してやまない無常の境界に生きる私、確かなものなど何一つ持ち合わせていない私だからこそ確かな仰せが届けられています。新型コロナウイルス感染症の一刻も早い収束を願いつつ、いまここに届けられている「南無阿弥陀仏」の仰せを、あらためてわが身に聞かせていただきたいと思います。
(赤井 智顕)

寺院版

声に聞く

老いを生きるとは   中央仏教学院講師 報恩寺住職/鎌田宗雲

新型コロナウイルスの感染拡大が勢いを増すなか、これからどうなっていくのか、誰もが大きな不安を抱えながら、今まで経験したことのない「日常」を過ごしています。
そういうなかで、今月号の『声に聞く』「老いを生きるとは」を拝読しました。
「いのち」について真剣に向きあわざるをえない今、鎌田宗雲先生の「あみださまがいつもあたたかく、やさしく導きながら護ってくださっているぬくもりを感じ、気づかせていただくのです」という言葉が、こころに染みます。
こんなときだからこそ、お聴聞をさせていただき、あみださまのおこころにふれたいと、切に思わせていただきました。

育心

仏(アミダ)様は、罰(ばち)を当てない   龍谷大学非常勤講師/小池秀章

今月号の『育心』は、小池秀章先生が「仏(アミダ)さまは、罰(ばち)を当てない」と題して、ご寄稿いただきました。
昨年の『読者とつくるページ』に、次のような記事がありました。
「小学2年と3年の子ども達も毎朝毎夕お仏壇に手を合わせます。先日、夫が小3の娘に『何で毎日仏さまにお参りするの?』と尋ねると『なんかお参りしないとバチがあたりそうだから』と答えました。すると夫は『仏さまはバチなんかあてない。でもいつも見ていてくださるから、感謝するんだよ』と答えていました」
小池先生は、さらにそこから深めて「仏(アミダ)さまは、悪いことをしても罰を当てない。悲しまれる」と味わわれます。
「そして、その悲しみに出遇うことによって、私の生き方が正されていくのです」に、仏さまのおこころをありがたくお聞かせいただきました。

いのちみつめて

第61回 対戦相手をリスペクトすること それがトップアスリートの条件 〜藤田道宣さん〜
文・森 千鶴/版画・西川史朗

今月号の「いのちみつめて」は車いすフェンシングの藤田道宣さんです。
東京パラリンピックが延期になり、緊急事態宣言が東京にも発出されるなか、藤田道宣さんに電話でお話を伺いました。
「今は、これまで練習に使っていたナショナルトレーニングセンターも閉鎖になり、自宅待機を余儀なくされています。それでも、そんななかでも、車いすフェンシングへのモチベーションは持ち続けたいと、自宅でトレーニングをしています。そしてそれをSNSで公開して、仲間同志刺激しあっています」
藤田さんの言葉に、どんな状況のなかでも動じることなく、今できることをやり続けていく、そんな強さをあらためて感じさせていただきました。

私の雑記帖

あふれでたのはやさしさだった   作家・元奈良少年刑務所講師/寮 美千子

『私の雑記帖』は、作家であり以前、奈良少年刑務所の講師をされていた、寮美千子さんのご寄稿です。
寮さんの奈良少年刑務所での詩作の実践から、多くの大切なことを学ばせていただきました。何よりわたし自身のなかにある、先入観や差別意識に気づかせていただきました。
少年たち自作の詩は『空が青いから白を選んだのです―奈良少年刑務所詩集―』として発行されています。

先日ある読者の方からお電話をいただきました。「こんなときだからこそ、ご門徒さんお一人お一人に『ないおん』をお届けしたい」。有り難いお電話でした。(森 千鶴)

令和2年4月15日 ないおん編集室(〜編集室だよりから抜粋〜)

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