愚白和尚 ・・・ 雲山愚白 うんざんぐはく (1619-1702)
江戸時代前期の肥後に生まれる。曹洞宗の月舟宗胡の弟子となり、島原の乱で荒廃した島原半島に入植していた人たちのために、仏教を再興させた。
加賀藩の前田候の招きで現在の富山県にある瑞龍寺の住職となるが、三年ほどして辞去した。
泉州を遊行していた際、空き寺になっていた熊取の成合寺に入り、岸和田藩主の援助を受けて寺を復興した。
江戸時代後期、熊取町出身の中盛彬が書いた「かりそめのひとりごと」に以下の愚白和尚にまつわる不思議な話があります。
「蓮華」とは蓮の花の事を指します。畑に生えているのはゲンゲ又はレンゲソウです。
愚白和尚が、大変優れた僧であったことが分かる逸話が「見聞宝永記」に記載されています。
(「見聞宝永記」江戸時代前期の曹洞宗の僧 損翁宗益の言葉を、弟子である面山瑞方が筆録したもの。)
泉州におられた愚白和尚はかつて、越中(富山)の瑞龍寺の住職であった。
ある年の冬、加州(=加賀、石川県南部)の宝円寺の住職が、春に瑞龍寺相手に裁判を起こすつもりであると愚白和尚は知った。
そこで愚白和尚は、年明けの早春、年賀の挨拶を金沢の城主(前田候)に申し述べる日をもって、
二度と瑞龍寺に帰らなかった。身の回りの手荷物と笠のみを持って去ってしまった。
前田候の者が探したけれども、どこに行ったか分からなかった。
愚白和尚は、秋になって泉州に遊行していたところ、(大阪府泉南郡熊取町にあった)成合寺は
住職がよく盗賊によって殺害され、現在は住職がいない事を聞いた。 愚白和尚は
『幸いなことである。山居するに好い土地である。老僧がもし、害に遭えば害せられよう。
たとえ害せられなくても、また(寿命を思えば)幾年を過ごすことがあろうか』と言い、
すぐに同寺の住職となり、日中は弟子達と托鉢して飢えをしのいだ。
泉州岸和田城の岡部候は、愚白和尚がすぐれた僧である事を喜び、山林や田畑を援助し、寺は豊かになった。
すると、修行僧が集まってきた。実に、曹洞宗の寺を復興したのである。
もし、先に愚白和尚が瑞龍寺に籠もり、宝円寺と下らない裁判で確執が起これば、お互いに迷いの煩悩が増し、
それで自らの行いを悪しきものにしたことだろう。
ただ、僧仲間の恥辱をさらすだけでは無く、そのために僧仲間が恥じ入ることにもなろう。
ああ、徳の高い愚白和尚の行いはまさに、末世に生きる僧にとっての目指す標準であると。
愛知学院大学 教養部人文科学 菅原研州准教授 訳
上記の文献を現代語訳し、考察された、曹洞宗の僧侶でもある菅原准教授のお話によると、
「愚白和尚のいた瑞龍寺は宝円寺の末寺となり、宝円寺は『通幻派』(曹洞宗の一派)の法系で
ありました。当時は基本的に寺院を創建した僧と同じ法系で住職の座を守るべきだと考えられていました。
そこに他法系である『明峰派』の愚白和尚が入ってきたので、不満を持つ人達もいたのではないでしょうか。
推測にはなりますが、宝円寺は瑞龍寺に対して、住職の座を巡って裁判を起こそうとした可能性があります。
そこで、愚白和尚は、至極あっさりと住職の座を捨て、何人か付き添った弟子達とともに寺を出て行ったようです。
その最中で、熊取にて空き寺を見つけ、住職になりました。
損翁禅師が言いたかった事は、この『あっさりと捨てる』ということです。
実際に瑞龍寺は、一時は300石という、かなりの石高を前田候から拝領していましたので、食べるにも困りません。
一説によれば、常時数百人の修行僧がいたとされています。
愚白和尚はそれがもし、他の者からの嫉妬を招き、かえって害となるならば、手放してしまった方が良いと思いました。」とのことです。
愚白和尚は、乞食桃水と呼ばれた名僧桃水雲渓とも親交があり、話が残っています。
今年は愚白和尚生誕400年となります。かつて熊取に徳の高い愚白和尚がおられたことを、少しでも多くの方に知っていただけると幸いです。
愚白和尚の墓は、永楽ダムまでのトンネル手前左すぐにあります。(現在非公開)
長池オアシス管理会
ご協力いただいた先生 愛知学院大学 教養部人文科学 菅原研州准教授
出典:「熊取の歴史」 熊取町教育委員会
画像協力 高岡市教育委員会
雲山愚白和尚
出典:瑞龍寺展図録