天理軽便鉄道跡を歩く
かつて、私の勤務する安堵小学校の校区内を一本の軽便鉄道が貫いていた時代がありました。
去る12月1日、町の歴史民俗資料館が主催した「路線跡を歩く会」に参加しました。
宅地化や道路開発の難を逃れ、かろうじて残る路線の遺構を辿りながら、
この軽便鉄道の栄枯盛衰と安堵町の関わりについて思いを巡らせました。
民間力が大きく貢献した大和の鉄道網
現在JR線として営業している関西本線・京都線・桜井線・和歌山線は、明治32年頃までには開通していました。これらは、大阪鉄道・奈良鉄道・関西鉄道・南和鉄道といった民間の鉄道会社によって敷設されたものですが、明治39年の鉄道国有法の制定に伴い、翌年にはすべて国有化されました。その後も民間による鉄道開発は衰えず、この天理軽便鉄道をはじめ、大和鉄道・長谷軽便鉄道・吉野軽便鉄道・生駒信貴電鉄などが国有鉄道の補助路線として鉄道網の拡大に貢献しました。やがては、大阪電気鉄道や参宮急行電鉄のように国有鉄道の輸送力をしのぐほどの長距離鉄道として発展するものも出てきました。ここで、注目したいのは、鉄道網の拡大の多くが、社寺仏閣の参詣と結びついていることです。鉄道敷設の申請には、空洞化した盆地中央部の産業振興が掲げられていますが、観光資源を目的とした敷設であることは明らかです。このことからも、敷設会社の民間資本力だけでなく、それを利用する庶民の経済力もまた、鉄道網の拡大に寄与していたことが伺われます。私は、明治維新における富国強兵・殖産興業政策といえば、「官」主導とばかり思いこんでいましたが、この地方における鉄道網の発達を見る限り、「民」の力によるところがかなり大きかったことを実感しました。
天理軽便鉄道と安堵村
詳細な鉄道史については、その分野で研究がなされているので、ここでは、天理軽便鉄道が
地域にもたらした影響に関わる点に的を絞って記しておきます。


私は、天理軽便鉄道の歴史を安堵町との関わりで見ていくと、次のように前期と後期に分けて考えるのが良いのではないかと考えます。
【前期】大正4年の開業から大正10年の大阪電気鉄道への路線譲渡まで(電化改軌は大正11年)
【後期】路線譲渡から昭和27年の廃線まで
前期は、いわゆる開業当初の目的であった大阪と天理の利便と図る鉄道としての役割を果たした時代です。大祭の折には、ドイツ製の蒸気機関車が数両の客車を連ねて安堵村の田園風景の中を走ったといいますから、村民も文明匂いを間近で感じたことでしょう。
後期は、大軌の西大寺〜平端間の開通と平端以東の電化と改軌に伴い、平端以西が分断された時代です。平端〜新法隆寺間は、この時点で当初の目的からはずれ、車両もガソリンカーにとって代わり、もっぱら地元民の交通手段として細々と営業を続けていくことになります。やがて、第2次世界大戦の激化に伴うレールの供出。そして、戦後、復活を見ることなく廃線を迎えるのでした。
こうみると、後期は衰退の一途を辿ったように思える天理軽便鉄道ですが、安堵村民にとっては、むしろ後期こそが、本当の意味で村民の足として活躍し、親しまれた時代ではなかったかと思えるのです。
前期は、いわば通り道、その証拠に開業当初、安堵駅をはじめとして二階堂や前栽の駅もありませんでした。いわゆる「橋脚」の村であったわけです。しかも安堵駅だけの乗降者数の推移を見ると、後期に入っても増加し続けているのです。
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