彼は誰を選ぶ?
作:MUTUMI イラスト:姥桜本舗
DATA:2003.1.28(2005.1.30改定)


  星間を駆け抜けた宇宙大戦は、幾夜もの歳月を浪費した。なかには文明そのものが崩壊してしまった星系すらある。幾億もの民が巻き込まれ、嘆きながら死んでいった。悲しみは宇宙(そら)を覆う彩りのように、そこかしこにあった。
 決して切り離せない空虚な感情は、戦後の今も星間中に蔓延している。
 希望は人々の心の中にある。明日を生き抜く逞しさも、他者を思いやる優しさもまだ残っている。
 それでも……。時代は未だ暗い影に包まれていた。




【1:光は誰を指す?】


 どうにもこうにも嫌な感じだった。
 俺の指揮する部隊は順調に展開しているように見える。暗闇の中、星々を背に素早く、かつ慎重に動いている。カサリと葉を揺らす物音すらなく、訓練された兵士達は武器を手に進む。目標地点の包囲は完璧、蟻一匹通さない布陣だった。計算され尽くした配置。
 だが何かが妙だった。本能が警戒信号を点滅させる。
(何だ? 何がおかしいんだ?)
 俺は慎重に様子を伺う。俺の配下の部隊にこれといって異常はない。いつもの、ある程度パターン化された動きでじりじりと進んでいく。遮蔽物を利用し敵に気付かれないように、目的の家屋に近寄っていく。その動きに危うい所はなく、俺の目から見ても完璧な行動に思えた。
 実行部隊の遥か後方、今回のオペレーションの為に特別にあつらえられた指揮所で、俺は首を捻り腕を組む。複数の監視衛星から集約された映像を、目を窄める様にして睨みつけた。
 何かがいつもと違っていた。それが、妙に引っ掛かる。頭を翳めて消えない。棘のように抜けない。俺は改めてじっくりとモニターを覗き込む。これといって特に変化はない。
 俺の見つめる中、部隊はいよいよ緊張の度合いを深めていく。迷彩服姿の兵士達は、とうとう家屋の侵入口まで辿り着いた。
 侵入はこの家屋の四ケ所の出入り口から同時に行う。敵の戦力の分散と、対応力の緩慢を狙ってのものだ。勿論リスク回避という理由もある。
 ゆっくりと四ケ所のドアノブが回される。まさにその時、部隊が侵入しようとしていた時、僅かに何かが部屋の中に蠢いたのが見えた。
(これは……。まさか? 待ち伏せか?)
 それにいち早く気付いた俺は、動揺を隠しつつ部隊に退却の指示を出す。迷彩服を着たコマンド達は、訝し気な表情をしながらも俺の指示に従った。
 全員が今更ながらに、俺に対して不信感を抱いている事だろう。作戦行動中に目的も達していないのに、いきなり退却命令を出されたのだ。俺があの中、つまり突入部隊の方にいたとしてもそう思うはずだ。
 だがあいにくと、俺はいま突入部隊にいない。遠く離れた指揮所にいる。おかげで血走った目で反論を受けずに済む訳だ。
「大佐。……我々の受けた命令は、テロリストの無力化と人質の保護です」
「なぜ退却させるのですか!?」
 指揮所の通信仕官達が口々に俺に詰め寄ってくる。それは非難と呼ぶべき口調で、中にはあってはならない事なのだが激昂している者すらいた。
「落ち着け。別に人質を見捨てた訳ではない」
 そう答えると指揮所にいる部下達の目が、じっと俺を睨み付けてきた。何を言っているのだ、たった今見捨てたではないか! 暗にそう言われている気がした。
「本作戦は陸軍本部の指示によるものです! 指示を無視されるのですか!?」
 若い女性大尉が俺を真っ向から睨むように射る。その目は燃えるように青かった。責任感と使命感に包まれ、俺達陸軍の頭脳である陸軍本部至上主義者のようだ。
「大尉、君は状況が分かっているのかね?」
「な、大佐!」
 悲鳴に近い抗議を黙殺し、俺は指示を出す。
「陸軍本部に繋いでくれ。本作戦を中止する」
 驚愕の表情が全員の中に浮かぶ。決行する前から指揮官である俺が作戦中止を宣言したのだ。当然といえば当然の反応だ。
 俺だって最初は作戦を継続する気があった。指示を受けた時だって、かなりきわどく難しいが何とかやってみせるつもりだったのだ。その証拠に、事実ここ迄出向いてきているではないか。
 だが現場を見てこれは駄目だと思った。状況が悪過ぎる。俺にはむざむざ部下を殺す趣味はない。ましてやテロリスト側を刺激して、人質の生命を脅かす気はさらさらなかった。
「た、大佐」
「くどい。陸軍本部に繋げ」
 二度目の命令に、はじかれたように通信士がチャンネルを操作する。この辺一帯は先程から電波封鎖をしているので、特殊な変換装置を用いないとどことも通じないのだ。
「暗号化を頼む。レベルMだ」
 今の所俺達が使っている中では最強レベルの暗号を指定し、外部からの盗聴に予防線を張っておく。
「は、はい」
 普段はあまり聞かない指示に面喰らいながらも、通信士は職務をこなす。日頃の訓練の賜物か動作はスムーズで迷った所はない。グズグズしている奴がこんな第一戦にいる訳もないのだが。
 陸軍本部は些か迷う素振りで通信に出た。俺は先手必勝とばかりに、畳込むように担当官にまくしたてる。
「本作戦を中止する。至急高位能力者を寄越してくれ。誰でもいい」
『スカイルズ大佐?』
 陸軍本部の仕官、恐らく新任仕官の一人なのだろう、は困惑した表情を浮かべた。いや、新任仕官だけではない、指揮所にいる俺の部下達も真意をつかめず顔を見合わせている。
「テロリストの中に高位能力者がいる。敵は我々の動きを察知している」
 そう感じたのはテロリスト側のあまりにも素早い対応ゆえだった。テロリスト達はまるでこちらの動きを見ていたかのように、対処してみせたのだ。俺が見た蠢く影はテロリストの姿に他ならない。
 てっきり部隊の中にスパイでもいて、俺達の動きをリークしているのではないかと疑ったが、あいにく怪しい動きはない。だとしたら残る可能性は……。
 何らかの力を持った者の関与。あるいは助言しかないではないか。十中八九テロリスト側に能力者がいる。それもこちらの動きを察知出来る程の力を持った者がいるはずだ。何の装備も訓練も受けていない俺の部隊では、丸っきり歯が立たない。せめて誰か一人でいい。俺達をサポートしてくれる奴が欲しい! これは決して無茶な要求ではないはずだ。
 俺は担当仕官を恐いぐらいの力を込めて睨んだ。交渉では威圧感も重要な要素の一つとなる。
「俺達に任務を継続させたいのなら誰か寄越せ。テロリスト側の高位能力者を封じ込めれる奴を寄越してくれ。敵の感知能力は恐ろしく強い。それを封じない限り強硬突入は出来ない」
『確認はとれているのか?』
(そう、くるか……)
 用心深いのは好い事だが、今は止めて欲しい。お前と言葉遊びをするつもりはない。
「いや。……まさか誰かを囮にして確認しろとでも?」
 暗にそれは馬鹿がやる事だと匂わせ、反論を封じる。
「出来ないなら言ってくれ。直接知り合いに当たる」
 俺は視線を外しそう嘯く。無論本当に駄目だった時はそうするつもりだった。少し前迄俺達は戦争をしていた。能力者と名の付く知人の一人や二人、俺にだっているのだ。さすがに神殺しとやらには会った事もないがな。
 ややして担当仕官は頷いた。
『了解した。スカイルズ中隊はその場に待機せよ。そちらで集めた追加データを送ってくれ、追って指示を出す』
「わかった。期待してるぞ」
 そう声をかけると、相手の仕官は苦笑いを浮かべた。まんまと俺にやり込められたのが悔しいのだろう。
 俺は追加データを送るように指示を出すと、俺を詰った大尉の方を振り向いた。
「これで理解できたか?」
 女性大尉は赤くなりながら無言で敬礼を返してきた。俺はそれを了承の印ととった。




 全てが終わりテロリストも逮捕され、人質も解放されたのを確認した後、俺達は基地に帰投した。振り返ると派手さはないが綱渡りのような作戦だった。疲れ果て仮眠をとろうとした俺を待っていたのは、意外にも基地司令官からの呼集だった。
(……作戦放棄を示唆したのが悪かったのか?)
 俺は些か悶々としながら司令室の扉を開け、中に入る。
「失礼します。サー」
 かちっと敬礼を返すと、中年の基地司令官は椅子に座ったまま微かに頷き、俺に書類を提示してきた。
「スカイルズ大佐。統合本部より異動の通達が来ている」
「は、そうでありますか」
 ポーカーフェイスを浮かべつつ、内心苦いものを飲み込む。
(やはり今日の事が原因か? 誰か知らないが手の早い事だ。そんなに作戦放棄が気にくわなかったのか?)
「スカイルズ大佐、今日の指揮は見事だった」
 俺の内心の葛藤を知らず笑って告げてくる基地司令官に、俺はどう言えばいいのか迷う。
(これは誉めているのか? それとも嫌味か? どっちだ?)
 判断がつかないので、とりあえず適当に返事を返しておく。
「恐縮です」
「うむ。君を手放すのは非常に惜しいのだが、ある方が熱烈に君を所望されてね。我々ものまざるを得なかったのだよ」
 両手を卓上で組み、基地司令官は直立不動の俺にわざと聞かせるように呟く。
「陸軍としても惜しいのだよ。だが君なら十分サポートが出来るはずだ。その力はあると思っている」
 意味深な台詞に背筋がむず痒くなってくる。
(要するに何が言いたいんだ?)
 俺はちらりと机の上、俺の方に向けられた書類を盗み読みし唖然とした。
「スカイルズ大佐、本日付けをもって星間軍(SCA)、宇宙軍特殊戦略諜報部隊に異動を命じる。速やかに出頭したまえ」
(出頭って、陸軍の俺がなんで宇宙軍に異動になるんだ!? そもそもそこから説明してくれ! 陸軍から宇宙軍への転属など聞いた事がない!)
「司令!」
 慌てた俺の声に基地司令官はフッと苦笑を浮かべ、俺の熱くなった感情を冷ましてくる。
「これは決して懲罰ではない。向こうの部隊には君が必要なのだよ。君のその経験がな。君は見込まれたのだ。正直な話、私は君が羨ましい」
 基地司令官は実に物欲しそうな、恨めしそうな視線を俺に投げかけてくる。
「羨ましい?」
「そうだ。限りなくゼロに近い可能性を君は手に入れた」
「……?」
 相変わらずの意味不明な発言に、内心で眉を寄せる。
(つまり何が言いたいんだ? さっぱり要領を得ないんだが……)
「君がどう思おうと感じようと、これは最早決定された事だ。君が星間軍に所属する以上、拒否権はないのだ。君は彼に選ばれた。それだけがこの人事の本質だ」
 基地司令官は重々しく告げる。口調はどこ迄も厳格で重い。けれど話している内容は、よくある裏の事情ってやつなのではないだろうか?
「……つまり俺はその誰かわからないが、影響力のある宇宙軍の人物に引き抜かれたって事ですか?」
「まあそういう事だ」
 あっさりと基地司令官は認め、俺を意味もなく激励する。
「大丈夫だ。君ならきっとやっていけるだろう。ボブ・スカイルズ大佐、……彼を頼む」
 何故か基地司令官は俺に懇願するような眼差しを見せる。何が何やらさっぱりわからないが俺は困惑の感情を胸に仕舞い込むと、書類を受け取り司令官室を後にした。これ以上ここに留まっていても、有望な会話は成り立たないと思ったからだ。
(そもそも基地司令官が再三告げた彼とは、誰の事なのだ?)
 味気ない書類、人事異動の発令書はインクが消える訳でもなく、俺にそれが事実だと伝えてくる。
(宇宙軍特殊戦略諜報部隊、そこに何があるというんだ?)
 まだ見ぬ場所に俺はこの時、困惑しか抱けなかった。





 どこまでも蒼い空、薄くたなびく雲。うっすらと吹き流れてくる野草の花々の花弁。舞い落ちる淡い桃色の花吹雪の中、一人の少年が佇んでいた。手には小ぶりの花輪を持っている。
 幾つもの墓標がそこにはあった。連なる小山のように墓標は並んでいる。幾重にも重なり、幾重にも渦巻く。膨大な数の墓標だった。それらの墓標はどれもまだ真新しく古びた物はない。
 ここは星間軍(SCA)専用の墓所。任務中或いは、任期中に死亡した者達を弔うための墓所だった。この近くには星間戦争による犠牲者を偲ぶための慰霊塔もあり、この地は別名墓守りの地とも呼ばれている。
 そんな中、たった一つの墓標を前に少年はひっそりと佇んでいた。懐かしそうな目で墓標を見つめている。
「ゲイル。……決まったよ。僕の副官」
 少年は呟き、そっと花輪を銀の墓標に引っ掛ける。真新しい墓標には小さな文字が印されていた。
 《ゲイル・J・フォックス 享年29才。宇宙(そら)と星の狭間に眠る》
 そっと少年は墓標に掘られた文字を指で追う。ざらざらとした凸凹の感触が、冷たい金属独特の触感と共に伝わってくる。少年は蹲るように墓標を両手で包み込んだ。
「ここにゲイルはいなにのに……。ただの墓標なのに。分かってるのに!」
(ゲイル……。お前が死ぬ必要なんてどこにもなかったんだ! どこにも……)
 今でもまだ思い出す。特殊戦略諜報部隊『00』のコードを持っていた彼の、生きていた頃の元気だった姿を。おおらかに笑い部隊を指揮していた彼を。あらゆる意味で微妙な立場にいた、自分なんかを副官にしてくれた彼を。
「僕は……お前を犠牲にして迄も生きていたくなんてなかった! どうして、どうして僕を庇ったんだ!? どうして……」
(僕を生かしたんだ!? ゲイル!)
 答えはない。あるはずがない。ゲイル・J・フォックスは死んでいるのだ。そして少年は生きている。二人の間に会話が成り立つ訳がないのだ。けれどそれでも、問いたい。何故なのかと?
「……わかってる。それがお前の役目だったんだろう? 委員会がお前に厳命していた任務だったのだろう? 僕を守る事がお前にとっての最優先事項だった。そんな事……わかっていた! 知っていたのに、僕は……」
(お前を止めれなかった!)
「ゲイル……」
 少年は呟き、泣き出しそうな表情を見せる。
「もう一度お前に会いたいよ。せめてお前の死を確認したい。きちんとそれを理解したい……。お前の遺体がないなんて納得出来ない。……出来やしないんだ」
 頭ではわかっている。こんな事珍しくもないよくある事だと。宇宙空間での戦闘で死体があがる方が珍しい事なのだと。
「それでもお前を見つけたかったよ……。ゲイル……」
 呟き、そっと墓標に口付ける。
 空を見上げれば、天を突く慰霊塔が見えた。星間墓標を見上げ少年は微かに笑う。
「皆、そこにいるんだね。そこで眠っているんだね」
 懐かしい顔が幾つも浮かんでは消える。何百人、何千人と自分の部下だった者達がここには眠っている。花に囲まれ安らかに静かに眠り続ける。
「僕もいつかきっとそこに逝くよ。それまでもう少し待っていて……」
(そこで待っていて)
 舞い上がる花吹雪の中、少年はいつ迄もそこに佇んだ。キラキラと光る花々が風に流され幾重にも揺れる。
 花弁が淡雪のように空に舞った。



【2:炎は誰が消す?】


 宇宙軍、特殊戦略諜報部隊。通称桜花部隊。
 星間戦争終結後、星間軍(SCA)設立と共に設置される。
 諜報と強襲制圧活動が主な任務。星間軍で最も危険に近い部隊。


「闇の部隊……か」
 呟き、俺は今さらながら頭を抱えたくなる。人事部の奴らの頭を掴んで引きずり回したい気分だ。
 ついさっき部隊の概要のレクチャーを統合本部、いいやこの際だはっきり言ってしまおう。星間軍全てを統括している統合本部を監視している、委員会から受けたのだ。
 まさか自分が委員会なんぞに関わる事になろうとは、思ってもみなかった。そもそも統合本部自体が俺にとっては遥か雲の上。委員会なんてものは夢の彼方の存在だったのだ。それがまさか自分がそこに出頭し、なおかつお願いをされようとは……。
「世の中どうかなってるんじゃないか?」
 俺がそう愚痴ったって誰も文句は言わないだろう。それぐらい言わせてくれ。
「どうするかな」
 あまりにも大きな期待と重圧に、思わず逃げたくなる。
(陸軍から宇宙軍への異動だけでも十分重圧だっていうのに。よりによって……特殊戦略諜報部隊の副官に就任しろだって!? なおかつ……)
「守れってか」
 俺は思わず空を見上げた。太陽がやけに目に眩しい。ギラギラと光が目に焼き付く。委員会が俺に告げた事、それは多分彼らの嘘や欺瞞のない本音なのだろう。
 特殊戦略諜報部隊、隊長若林一矢。ついこの間迄は副官だった男。先頃の任務によりフォックス隊長が急死し、その後を引き継いだ神殺しの高位能力者。通称はフォースマスター。
「神殺し……」
 直接の面識はない。星間大戦を恐らく共に戦ってはいただろうが、俺は主に陸で戦った。彼は宇宙が主戦場だったはずだ。接点はなかったはず。なのに……。


『君を選んだのは彼だよ、スカイルズ君。我々が君を召還したわけではない』
『その通り。我々が君を選んだのならばこれ程苦労はしない。だが君が選ばれてしまった以上、君に委ねるしかない。些か心もとないとは思うのだが』
『例え君が死のうとも、彼を死なせてはならない』
『残念な事だが、君の生命より彼の生命の方が優先される。彼はフォースマスターだ』


「フォースマスターか」
 俺は呟き、やれやれと首を振る。
(自ら望んで命を差し出す奴なんてどこにいる? ギリギリの状態でも恐らく俺は自分の命を優先する。今迄もそうしてきたし、これからもそうだ。知らない奴の為に死ぬ気はない)
「残念だったな。委員会の方々」
(俺の命は俺のものだ)
 俺はメトロ目指して歩き出す。委員会の連中との会話を、この時俺は完全に軽視していた。連中の思惑に乗る気は全くなかった。





 風が流れていた。手をのばすと雲をつかめそうな程、天に近い場所。
 星間軍(SCA)統合本部、エンジェルタワー(主に通信制御を目的に作られた高層タワー)の天辺で、細い梁の上に寝転んで流れゆく雲を見ていた一矢は、ぬっと突き出された紙コップを訝し気に見つめた。
 何時ここまで来たのか、いつの間にか側に弟分の一人ダーク・ピットがいた。湯気の立つ紙コップを無言で差し出している。
「ダーク」
 一矢は視線をダークに向け、身を起こす。
「あったかいコーヒーが欲しくないかな?」
 小首を傾げ、まだ子供らしさが色濃く残る青年は笑って問う。寝起きなのか髪は所々撥ね、ぼさぼさだった。
「ありがとう」
 苦笑しながら一矢は受け取り、冷えてきた体を暖めるようにコーヒーを口に含む。ほんのり苦くて甘くて、一気に目が覚める感覚がした。
「どうしたんだい、ダーク。こんな所に来るなんて」
 一矢は言いながらも梁に腰掛け、足をぶらぶらさせる。一矢が座る遥か下は霞がかかった様にうっすらとしか見えない。ほんの少し足を踏み外せば間違いなく転落する。ここはまず普通の神経の人間ならば、絶対に来ないであろう場所だった。もしも下界を眺める者が居たとすれば、余りの高さ故に間違いなく皆、気絶する。
 そういう場所だ。無論展望台でもないので命の保障はされていない。
「だってさ仕方ないよ。兄(にい)にここから降りる気配が全然ないんだもん。皆すご〜く迷惑してるんだよ」
 腕を組みダークは一矢に悪態をつく。
「だから俺が呼び出されたんじゃないか。さすがに委員会も心配になったらしくってさ」
 意外な名称に一矢はきょとんと「?」を大量に浮かべてダークを見返す。
「委員会がどうかしたのか?」
「は? 何言ってるのさ。ゲイル・J・フォックスが戦死したんだろう?」
「!」
 ビクンと一矢は微かに動きを止める。
「だから……心配してるんじゃないか。兄とゲイル仲良かったし、委員会は衝動的に自殺でもするんじゃないかって心配している」
 ダークはそう言いながら、一矢の隣に腰を降ろす。一矢と同じように梁に座りながら、じっと空の流れる雲を目で追った。
「そんな事になったら大変じゃん」
「……そっか」
「委員会がこんなに心配するなんて、明日は槍でも降るんじゃないか?」
 そんなたわいもない発言に、一矢はくすりと笑った。
「槍は降らないだろうけど明日は雨みたいだよ。雲が湿っている」
「ふうん」
 適当に返事を返しつつ、「それで?」とダークは一矢に聞き返した。何かを言いたい気配を察したのだ。コーヒーの入った紙コップをクルクルと揺らしながら、一矢は躊躇いがちに話し出す。
「今日新しい副官が来るんだ」
「桜花部隊の?」
「うん。僕が隊長でその人が副官」
 ダークは「へ〜」と頷き、誰だろうと首を捻る。
「ダークの知らない人だよ。僕もまだ直接会った事はないんだ」
「え? ええ!? そうなの?」
「そうだよ。でも噂は色々聞いているから。陸軍の人でね、星間戦争の時には同じ戦場にたった事もあるんだよ。惑星リシオンでの降下作戦を覚えている?」
 急に尋ねられダークは慌てて記憶を掻き回す。そういえばそんな事もあったような気がする。その程度の朧げな記憶しかなかった。
「ごめん、あんまり覚えてないや」
「そっか。ダークはまだ小さかったものね。凄かったんだよ、彼。物凄く的確な指示を出すんだ。サポートに徹していた僕が、ほれぼれ見愡れちゃったぐらいなんだから。以来彼には一目置く事にしてる」
 まるで自分の事のように自慢する一矢に、ダークは呆れた表情を向けた。
「ふうん、かなり出来る奴なんだ?」
「そう。それに……」
 一矢はごくりごくりとコーヒーを飲み干し、それとなく呟いた。
「多分僕を庇わない」
「兄?」
 微かに自嘲する一矢にダークは眉を寄せ、一矢の綺麗な顔をじっと見つめた。
「ゲイルは僕を庇って死んだ。……そんな事はもう嫌だ。僕に何かあっても見捨てられる人間を今度は選んだ」
「うげっ!?」
 呻き、ダークは額を手で押さえつつ意味のない雄叫びを上げる。
「待てよ、兄! 正気かよ〜! そりゃあ、ゲイルの事は残念だったけど。だけど一矢兄!」
「わかってる。委員会の不安も懸念も、ダークの気持ちも……」
 一矢はそっとダークの肩を抱くと、その背に描かれた契約の印でもある赤紋を撫でるように摩った。
「大丈夫だよ、僕はまだ死ねないもの。この世界が安定する迄は……。ちゃんと責任は果たすから」
「兄……」
 何かを言いたくて、けれど何も言えずにダークは口籠る。
「ゲイルには昨日お別れを言ってきたよ。あいつはきっとあの世で、笑いながら僕が来るのをのんびりと待ってるよ」
「……」
「心配させてごめん。……もう降りようか? 寒くなってきたし」
 一矢はダークを離すと、紙コップを片手に細い梁の上に立ち上がった。足下は風で微かに揺れている。梁の下は恐ろしい程の絶景だった。
「一矢兄」
 尚も物言いたそうなダークから顔を反らし、一矢は呟く。
「副官を迎えに行かなくちゃ。これから長い付き合いになるんだし」
 一矢は梁を伝いタワー内部へと戻っていく。どうやら戻る気になったようだ。
(兄……落ち込んでも、もうこんな梁の上に陣取るのは止めてくれよな)
 すっかりコーヒーの配達人にされてしまったダークはそう文句を言いつつも、沈みがちな一矢を気遣う様に後に続いた。二人の姿がゆっくりとタワーの中へと消えて行く。物言わぬ風だけが後に残った。



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