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「漂泊」研究会関連研究報告→2008年5月25日(中国文芸研究会例会)


 


 音をめぐる冒険 ―蕭乾『夢之谷』―
西村正男


 

  私と蕭乾との出会いは、大学二年生の時、村田雄二郎先生の中国語の授業の教材として「文革雑憶」を読んだ時にさかのぼる。

 その際、村田先生は「君も中文に進学するんだったらこれぐらいは読んでおいた方がいいよ」とおっしゃって丸山昇先生がその前年に『日本中国学会報』に発表された「知識人の選択――蕭乾の場合」のコピーを渡された。その後、中文に進学してからは丸山先生の演習で今度は「北京城雑憶」を読むことになった。それ以来私にとって蕭乾はずっと気になる文学者である。

 その丸山先生は、『地図を持たない旅人―ある中国知識人の選択』への「解説」の中で「文革後に書いたエッセイ集『北京城雑憶』(八五)は、それこそ当時の北京の物売りの声が聞こえてくるような気のするもので、…昔の北京を知る最良の手引きの一つであると私は思っている」と記している(ことは最近になるまで忘れていた)。この言葉には私も全く同意するが、蕭乾は音に対してたいへん鋭敏な感覚を持ち合わせた文学者であり、「北京城雑憶」以外にも多くの小説中に様々な音を描き込んでいる。しばしば感傷的な恋愛小説として受け取られがちな、彼の唯一の長篇小説である『夢之谷』(1938 年初版)も例外ではない。本発表はこの小説を音をめぐる小説として再読しようとする試みである。

 発表では、まずプロットを紹介しながら小説に登場する音を列挙した。そしてそれが小説の舞台となっている1920 年代末の音楽文化状況を如何に反映しているかを考察した。

 平田昌司氏の研究によれば、「耳の文学革命」が起きたのは1926 年前後のことであり、小説中で主人公が行った音楽を用いた国語教育は、まさにそのような時代を反映している。また主人公はハーモニカを持ち歩いているが、これは西洋音楽入門のための当時としては先進的な楽器であった。一方、小説では 蕭乾が大きな影響を受けた黎錦暉の影が意識的に消されている。

 現実の蕭乾は、汕頭での授業の際には黎錦暉の児童劇を用いて授業をしており、また子供の頃には黎の『小朋友』にも投稿し、掲載されている。1959 年に右派分子として命じられた労働改造の際にもハーモニカで黎の「毛毛雨」を演奏したほどである。

 それでは彼はどうして小説中では黎錦暉の影を消さなければならなかったのか。実は黎錦暉の社会的イメージは小説の舞台となった時期と小説の執筆時期では大きく変化しており、「黄色歌曲の鼻祖」としてのイメージが定着したのである。小説中には五年後の後日談も描かれるが、そこで描かれた世界は、五年前とは異なり、ラジオ、映画音楽、ジャズが出現している。

 発表では、さらに小説が発表された抗戦期の状況や、王西彦『神的失落』(1945)との小説のプロットの類似と差異、そしてその時代的背景についても言及した。

 発表に対しては、小説内世界と蕭乾の現実の体験とをしっかり区別して整理するべきだというご意見や、八〇年代の版本に別の序が付されているというご教示、小説に描かれている言語や地方性の問題は実は恋愛の描写ともリンクしているのではないか、というご意見、あるいは蕭乾が黎錦暉の児童劇を使って授業をした、という回想は中国の音楽・国語・演劇教育史を考える上でも貴重な資料である、とのご意見などを頂いた。拙い発表であったが、頂いたご意見を参考にして、さらに考察を深めたい。

 それほど遠くない学生時代に教えを受けた恩師たちを失い、我が身のふがいなさに茫然とした気分になる今日この頃であるが、努力を惜しまず、研鑽を重ねていきたい。


                                                      (『中国文芸研究会会報』320号 2008.6.29)

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