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 研究の位置づけ


 現在の日中関係が、両国にとって最も重要な二国間関係のひとつとなっており、アジアの繁栄と安定にも重大な影響を及ぼしていることは言をまたない。しかしながら近年、日中間の国家的・国民的関係がきわめて良好であるという状況にないことも事実である。両国の国民の間には互いへの不信感が存在し、それは、双方の歴史認識の齟齬や安全保障問題への憂慮など主として政治の領域に属するものを根に持つようである。このような政治的状況のさらに根本に存在するのは、言うまでもなく両国民の心性や生活実感であるが、同時にそれらのものを支える「他者像」の形成やあり方にも大きな原因があろう。


 例えば、外務省が昨年2月に行った「日中関係に関する意識調査」のような資料から読み取れるのは、両国の交流がかつてないほどに盛んに展開される一方で、両国民間に広がる漠然とした「親近感の低下」である。


 こうした漠然として空虚、なおかつ暗澹たるような他者認識のありかたの基層に存在しているのは、実は、個人における具体的な他者像の不在なのであり、とりわけその像に確固たる顔をあたえるような人間としての他者の内面のイメージの欠如なのではないだろうか。


 近代文学研究者、特に中国文学研究に携わるものは、日中間の直接的関係がはじまり急速に不幸な関係へと展開した二〇世紀前半を主たる研究フィールドとしている。そして、ほとんどの当該分野の研究者には、ここに述べた「他者の内面」のイメージが他者認識全体に深く影響を及ぼし、ひいては国家や民族としての他者像に投影される(あるいはされてきた)過去の歴史的事実に対する一定の認識を共有していると思われる。


 日中間の相互認識において現在最も大きな問題とされているのは、言うまでもなく前世紀の両国間におこった戦争に関するものである。日中戦争とその戦後(中国においては国共内戦も含めて)に対する事実認識とその記憶をめぐる問題こそが、現在の、また今後の両国間における相互理解と相互認識の出発点の課題に据えられるであろう。


 本研究は、以上のような近現代中国文学研究をとりまく今日的な状況を担いつつ、日本という場所において、1940年代中華圏という、文字通りの総力戦となった日中全面戦争の展開および、日本とは全く異なるその後の内戦状況を特徴とするこの時期をテーマの正面に見据え、戦時下中国における個人としての人間の内面にかかわるさまざまな文学的営為を、多面的にして重層的な当時の中華圏の全体像から、いくつかの柱を立てることによって整理し、そこにはっきりとした見取り図を示そうと企図するものである。ここから日中戦争下の個々人が、如何にしてその絶望的状況の中で社会と密接に関わりながら生きてきたのか、という豊富で具体的な「隣人の内面」に関するイメージを日本の学術界に提供せんとしている。

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