○短歌の世界○
ちょっとだけ、お勉強じみたところもありますが。。。
短歌を楽しみたいなぁ。と思っております。
「短歌」ってなんのことでしょうか?
この問いかけから、授業は始まりました。「短歌」って何を指すのでしょう。
私の大好きな辞書(このことについてはまた後ほどレポする予定です)である、「新明解国語辞典」の「短歌」を調べてみると、こう書いてあります。
「短歌:五・七・五・七・七の五句、三十一音から成る和歌。」
では、和歌って?
「和歌:わが国固有の詩歌である、長歌・短歌・旋頭歌などの総称。[狭義では、短歌を指す] やまとうた。」
こうありますが、実は「短歌」と「和歌」ってちょっと違うんです(と、学術的?には考えられています)。
近代短歌が従前の「和歌」から「短歌」に変わるためには、明治三十年代の「明星」の刊行を待たねばなるまい。・・・
この文からわかるように、「和歌」と近代からの「短歌」は微妙に意味合いが変わっています。
「和歌」というのはまさに「やまとうた」です。ここから「短歌」に変化していったのです。
具体的にどう違うのか?この答えは、「近代から」というのがポイントになってきます。
近代というのは一般的には明治維新以降だと言われています。そういう位置づけがなされています。(実は色々な説があって、明治10年代末・明治30年代末・もっと言えば、室町期までさかのぼるとも言われます)
この近代というのは近代科学・近代人の発生が出発点だと考えられます。近代人というのは「自我」を持つ人間のことです。この「自我」の発生は、森鴎外の「舞姫」に顕著にあらわれています。鴎外の書いた文にこんな一文があります。
「・・・つとめしときまでただ所動的、機械的の人物になりて自らさとらざりしが今二十五歳になりて・・・奥深くひそみたりしまことの我はやうやう表にあらわれて、昨日までの我ならぬ我をせむるに至る。・・・」
自我って簡単に言えば、「自分ってなんだろう?」ってところからはじまるんだと思うんですね、私は。それまでの(近代人と呼ばれなかったころの)人々は、それなりに考えてはいるだろうけど、今日私たちが考えるように「自分ってなんだろう?」という様には考えていない気がします。(もちろん、その時代の人と会ったわけでもないのだから、本当のところはわからないといえばわからないのだけど)
自我、というのはそのまま、「個」としての自分ですよね。
つまり、「和歌」というのは大和うたで、個・生身としての人間の心は出ていない。
一方、「短歌」というのは生身の「私」を出そうとしたもの。自由詩的なものが増え、和歌は消えそうになっている。
こういう風に考えられています。
私の考えでは、それでもどっちが優れているとも思いません。
どちらも、それなりに味がある、と思います。
「万葉集」も好きですし(いつか特集したいなぁ)、現代短歌も面白いと思います(そりゃあ、あまり好きでないうたもありますが)
ここでは、中学や高校ではあまり触れない、現代短歌に触れようと思います。というか、ただ私の好みで選んだうたをのせます。楽しめるといいのですけど。
*なお、上記の説明は私が授業で聞いた話、「近代短歌と現代短歌」(双文社出版)を参考にしています。
短歌の楽しみ方については、俵万智著「短歌をよむ」(岩波新書)がおすすめです。