ある朝、早瀬都がなにか気がかりな夢から目をさますと、
自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した―――

ということはなく、都の体は彼女の体のまんまだった。
ただ一つ、あることを除いて。


小学校




「都ちゃん、早く行こっ」
クラスメイトの女の子の一人が都に笑顔を向ける。
「うん」
都はぎごちない笑みを浮かべて女の子のあとに従った。
こっそりと心の中でため息をつく。
あーあ、よくもまあ毎日毎日、休み時間になるごとに飽きもせずドッジボールばっかりすること。
運動場に出ると、先に行っていた級友たちがチーム分けしているところだった。
リーダー格の男の子の「始めるぞぉ」の言葉で、小さな硬いボールがコートを行き来する。
ドッジなんて疲れるし、当たったら痛いし、嫌いだ。

ランドセルに教科書をつっこんで、都はもう一度ため息をついた。
いい加減、疲れてきた・・・。
夕日が差し込む教室の中には数人しか残っていない。
いつも一緒に帰る友達の女の子は、今日は委員会の仕事があるから、といそいそと隣のクラスに行ってしまった。
同じ委員会に好きな子がいるそうだ。ごめんねぇ、と嬉しそうな顔をしてぱたぱたと駆けて行った。
教室を出たところで、ちょうど教室に入ってこようとしていた女性に声をかけられた。
「早瀬さん」
「あ、先生・・・」
「最近、なんだか様子が変だけど・・・何かあった?」
この若い担任の先生は、心配そうな顔で都の顔をのぞきこんだ。
都は少々元気すぎるくらい元気な少女だった。
授業中に騒いでは教師に注意され、舌を出して首をすくめ、周りを笑わせるような。
それがこのところ騒ぎもせず、おとなしくしているので、気になったのだろう。
「孤独の世界にいるんです、私」
出掛かった言葉を飲み込んで、都はそーかな、えへへと笑って誤魔化した。
そうか、と思う。
今は、同級生たちよりも年が近くなったんだな。

朝、ひとかけらの希望を抱いて、目を開ける。
天井を見つめる・・・今朝も、昨日と同じだった。
「元には戻らない、か・・・」
のろのろとベッドから這い出して、小学校に行く準備をする。
一週間前の朝、都は何か変な夢を見た気がして・・・母親の声で目が覚めた。
あれ、携帯のアラームはセットしてあったはずなのに気づかなかったのかな、とぼんやりした頭で考えて・・・
異変に気付いた。
都は数年前から親元を離れて、一人暮らしをしている。
母親の声が聞こえるはずがなかった。
それから、天井がいつもと違う。
―――全てが10年以上も過去に戻っていた。心だけ、取り残されて。
これは夢やな・・・ともう一度寝ようとしたのだが、カフカの「変身」さながら、
やはり自分の体が子供に戻っているのは事実だった。
体だけではない、心以外は全てが、過去だった。
今朝もテーブルの上には、コップに牛乳が注がれて置いてある。
朝はコーヒーなんやけどな、と思いながら白い液体をじっと見る。
その様子を、都が飲むのを嫌がっていると思ったのか、母親は「牛乳飲まな、大きくなれへんで」と諭すように言った。
子供の都の身長は、平均よりだいぶ低かった。
毎朝、これを飲まされたせいで、大きくなりすぎるんやけどな、と苦笑いしながらゴクリとそれを飲む。
冷たいそれが胃をキュッとさせた。
沈んでいることを母親に悟られないように、元気そうに聞こえるように、大き目の声で
「いってきま〜す」と家を飛び出す。
「都ちゃん、おはよ〜」
「おはよぉ」
幼い級友たちの声が教室に響く。
「宿題、やってきた?」
席につくと、前の席の男の子が身を乗り出して聞いてくる。
「うん、一応」
やる意味はあるのかと思いつつね。
「珍しいなぁ」
にこっと笑う男の子の笑顔がまぶしい。
「もうすぐ夏休みやなぁ」
男の子――良太くんは言った。
良太はクラスでもさほど目立つ子ではなく、どちらかと言えば穏やかで、物静かな少年だった。
それでいて、内に何か熱いものを秘めているような。
そして時々とんでもなく面白いことを言う。
その目には英知。
私、この子のことが好きだったんだよな。
「うん。良太くん、夏休みはどっか行くん?」
「・・・ひまわり、休み前に咲くかなぁ・・・」
ぽそり、と良太くんは言って、少し寂しそうな顔をして、窓の外を見た。
この教室からは中庭が見える。
中庭のここからは見えない場所には、2年生が観察の為に育てているひまわりがある。
「きっと咲くよ。」急に元気のなくなった良太をなぐさめようとした時に、
はやしたてるように悪がきが3人、近づいてきた。
「よぅよぅ、二人とも、朝から熱いなぁ」
「熱い、熱い」
「熱いって・・・」ぼそ、と言った都の言葉はかき消された。
この歳になると(とはいっても、見かけは小学生なんだけど)こんなガキの相手なんかしてられない、
と思うのだけど・・・
喧騒の中で、都は今まで封印していた記憶がよみがえってくるのを感じていた。


その日の掃除の時間に都は、さぼっていた男の子を「男子、ちゃんと掃除しぃや」とほうきを持って追いまわしていた。
挙句の果てに、逃げ惑っていた一人をほうきで殴りつけ、泣かせてしまった。
なんともタイミングが悪かった。
良太はその日に、机にメッセージを書いたのだ。
昼間の仕返しに、と悪がきが都の机に落書きをしようとして、隅の方に書かれたそのメッセージを発見してしまった。
放課後中庭に来て欲しい、と書かれていた少年らしい文字を、都は皆にからかわれるのが嫌ですっかり消してしまった。
「机に書かれたラブレターや」
「やっぱ二人はできてんな!」
子供たちがはやしたてる。
都はたまらず、教室を走って出ていってしまった。
翌日から1週間近く、都は熱を出して学校を休む羽目になった。
その間、あの日りょうたくんはずっと待っていたのだろうかとずっと考えていた。
明日学校に行ったら、謝らな・・・
しかし、やっと熱が下がって登校した都の前の席は、空席になっていた。
「りょうたくんな、転校しはってん。」
友達が教えてくれた。
都は家に帰って、なんだかわけがわからないが泣いた。

そうか、これはあの年の夏なのだ、ということに都は気付いた。

それから一週間後の放課後、事件は起きた。
今もあの時と同じように、机の周りには悪がきが集まっていて、都は下を向いていた。
机にはたくさんの落書きがあって、時々穴が開いていたりする。
「机に書かれたラブレターや!」
はやしたてられ、都の顔はかっと熱くなった。
わけもなく恥ずかしい気がする。
それでも、同じ失敗を繰り返しちゃいけない、と心が叫ぶ。
都は机をそっとなでた。
本当はずっと後悔していた。
なぜ行かなかったのか、彼は何を言おうとしていたのか。
一人、中庭で何を思ったのか。
「うるさぁ〜い!」がたん、と椅子が倒れる音をどこかで聞きながら、都は立ち上がっていた。
ガキの一人に、ゴツと一発くらわせる。
「暴力女!」
「男子が悪いんや」
「何やって!」
「そーや、人のぷらいばしーに立ち入ったらあかんねんで」
「謝りーや」
「なんで謝らなあかんねん」
もはや都のことは関係なく、ぎゃーぎゃーと言い争うクラスメイトたちを尻目に、都は走った。
10数年前、走って向かった先は自分の家だった。だけど、今度は間違わない。

中庭に着くと、良太は待っていて、ほっとしたように笑顔を見せた。
「僕、転校することになったんや」
まっすぐな良太の目は、都をとらえた。
都は黙って少年を見つめていた。別れを言うために、彼は待っていたのだろうか。
「これ、あげる」
手に握られていたのは、赤いビーズの指輪。
「・・・ありがとぉ」
受け取ると、それはほんのりあたたかった。
なぜだかわからないけど、都の目に涙が浮かんで、流れ落ちた。
少年は植えられた背の高い花を見上げて、まぶしそうな顔をして言った。
「都ちゃんは、ひまわりに似てる」


携帯のアラームが朝を告げた。
都は半分ほうけた頭でそれに手を伸ばし――日常が戻ってきたことを知った。
おはよう、と声に出してみる。
誰の返事もなかった。
低血圧気味の彼女は、ゆっくりとベッドから起き上がり、キッチンで実に2週間ぶりのモーニングコーヒーを飲んだ。
なんだか苦かった。
ぼんやりした頭のまま、出勤の為に彼女は電車に乗り込み、一つ手前の駅で降りて少し歩くことにした。
途中、都会には珍しくアレが存在する場所がある。そろそろ咲く頃だ。
通りすがりの小学生の「もうすぐ夏休みやなぁ」という声がなぜか耳に残った。


ひまわりは、きらきらと輝いていた。
なんてやさしい黄色。

雲が、嘘みたいな速さで流れていった。





あとがき◇     
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