「風」


―――泡になった人魚
一度だけ夢を見た後に―――

この窓から見えるいつもの風景が違ったものに見えた日。これが私の日課になった。
観察。

風みたいなヒト。一目見た時にそう思った。
男の人にしてはめずらしく透き通るような白い肌をもったその人は、風になって今にも消えてしまいそうだった。
黒い制服を着ていて、学生鞄を持たない。
有名私立中学の制服だ。
家にいる女の人が、将来はあなたもそこに行くのよとかなんとか言ってたっけ。
そんな先のことは知らない。

今日もこの場所からあのヒトを観察する。
あのヒトはいつも同じ時間に同じ場所にいて、何をするでなくずっとたたずんでいる。
私は気になって、何度も声をかけようと思ったけど、変な誤解をされたら困る、と思って声をかけずにいた。
ここから見てるだけでいい。

きれいなあのヒト。
光があのヒトを包み込んで、見えなくしてしまう。
私は川を見つめるあのヒトをじっと見ていた。
何でずっと同じ場所にいるんだろう。
何を考えているんだろう。
何度か横を通ってみた。
私のことに気付いているだろうか。


「ニーチェ」
声は覚えていない。夢の中にいるようだったから。
私はついに彼に声をかけてしまった。
「何読んでるの?」と。子どものような無邪気さで。
いつもの場所で、本を読んでるらしきあのヒトを見たら、声をかけずにはいられなかった。
それからずっとそばに座っていた。
長いまつげの先で光が戯れる。
それに首や制服の影から白い肌に紫や緑の跡が見える。
「あなたにお母さんはいる?」
「家の中に、女の人はいるけど」


あのヒトの名前を新しい消しゴムに書いてみた。
消しゴムを使い切ると、恋が実るんだって―――
クラスの女の子が言っていたのを思い出す。
そんなわけないじゃない。 そんなこと信じているほど子どもじゃない。
それに・・・別にあのヒトのこと、好きなわけじゃないし。
ただちょっと、試してみただけよ―――


「人間てなんのために生きているんだろう」
初めてあのヒトから話し掛けてくれた。
私はなんとなく嬉しくなって、そしてそのことはちらりと考えたことがあったから、あのヒトの顔をじっと見つめてみた。
でも、彼の目に映っているものが何だか、わからなかった。
悲しくなってうつむいていると、君は僕によく似ている、と言った。
いつもと違う時間に。
あのヒトは私を見つめてくれた。
似ていると言われたことが嬉しくて、いろんなことを想像したりした。

私が顔を上げた時。
電車が通った。
そしてそのあとあの人はバラバラになったらしかった。

その時はなにがおこったのかわからなくて怖かったけど、あれは復讐だったのかな。
電車は一時止まり、周りはちょっとした騒ぎだった。
人の声がどこか遠くで聞こえる。
もうすぐ彼の家の人が呼ばれてここにくるだろう。
そして、彼のささやかな抵抗が、今まで見せなかった、初めての反抗が彼等を苦しめることだろう。
よかったね。

私の服には、あの人のかけらが残っていた。
私は家に帰って、こっそり服を着替えた。
それから、彼のかけらを丁寧に集め、瓶にいれた。
彼はきらきらと、今まで以上に美しく光って見える。
異臭を放って、彼の存在を他の人―――特に私の家にいる女の人に見つかるといけないので、蓋をかたくかたく閉めた。
瓶に顔を寄せる。
コレは彼と私だけの秘密。

それからあの人のことは忘れた。


風が通り抜けていった。




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