京都市経済行政の形成
         
上田経済行政
          上田作之助経済論稿集を紹介するにあたって

 

<若干の解説>
 地方自治体レベルの経済行政、これは地域経済行政ないし地域経済政策というものになるが、国家レベルの経済政策とは別に、地方独自の行政として、こうした経済政策が目的意識を持って追求されるようになったのはそう古いことではない。経済政策が、地域レベルでどれだけ追求できうるのか、それ自体が必ずしも十分明らかではないからであると同時に、地域における経済政策を考えようとすればするほど無力感に襲われるからでもある。今や、一国内のみならず、グローバルな関係抜きにローカルな地域経済自体が成り立たなくなってきていることからも、このことは理解されよう。
 地方自治体レベルの政策として、地域の経済なり産業が意識されるようになったのは、昭和50年代になってからではないかと考えている。それは、かつて、地方自治体の総合計画(地方自治法第2条5項の基本構想)を調査したときに、丁度昭和50年代初頭頃で、各自治体でその見直しの時期に当たっており、その見直しの主要な特徴の一つに自治体レベルの産業政策の必要性が意識されてきていたからである。それは、ドルショック、オイルショックを経て、漸くにしてわが国の高度成長経済が行き詰まってきた時期に当たる。
 考えてみれば、地方自治体が、地方自治体として、政府の政策とは別に固有の政策を考えようとするようになったこと自体がそう古いことではない。第二次世界大戦後の混乱の時期を経て、憲法、地方自治法が制定さているが、地方自治行政の基盤をなす税財政制度が固まるのが昭和25年になってからであり、加えて、この時期にはまだわが国は連合軍の占領下にあって、国として独立するのは昭和27年、昭和30年に至って、漸く経済が戦前の水準に回復するが、地方自治体財政は、経済力のある大都市を除き、全国的に財政危機に陥っており、自律的に政策を考えるべき状況には至っていなかった。地方自治の価値自体に目覚めるのに、もう少し時間を必要としていたともいえる。
 地方自治が、国政上の重要な問題として登場するようになったのは、昭和38年の第5回統一地方選挙で、横浜市に飛鳥田革新市長が誕生し、さらに次の昭和42年の第6回統一地方選挙で、東京都に美濃部知事が誕生することによってである。これは、昭和30年代半ばから始まった経済の高度成長によって、公害をはじめとする都市問題の発生、さらには市民生活の向上と対応する形での身近な地域の政治に対する関心の向上などが考えられていた。このように、昭和20年代から30年代にかけては、政治や経済はともに、国政のあり方をめぐる問題として、特に、安全保障体制のあり方をめぐる問題を主軸とした形で国論が沸騰してきていた。
 このように、きわめて大雑把であるが、戦後地方自治とその経済政策を振り返るとき、地方自治そのものが、国政とは別に独自の価値を持って考えられるようになってきたのが昭和40年代、その地方自治体が、住民の生活レベルから、地域経済、産業政策へと政策シフトを広げだしたのが昭和50年代になってからではないかと、一応全国的傾向の問題としては捉えることが可能ではないかと考えている。
 そうした一般的傾向の中で、京都市の経済行政は、きわめて先駆的であったと考えている。蜷川虎三京都府知事の政治的影響力の大きさの中で目立たなかったのかもわからないが、地域経済政策というものを目的意識的に追求し、地方自治体の経済行政を形成してきたことは、今振り返ってみてもすばらしいものである。

 今は亡き上田作之助元京都市経済局長(退職後は龍谷大学教授)は、昭和25年、高山市長に請われて、京都市商工課長として京都市に入職して以来、昭和41年3月に退職するまで、一貫して京都市の産業、経済行政を担当し、京都市という行政領域における経済政策を築き上げてきた。政策は、京都市というローカルな場であるが、その認識は、全国的、世界的な視野に基づくものであったことはいうまでもない。経済に、地域、国境の壁は存在しないのである。グローバルな、全国的な状況分析のなかで、政府の経済、産業政策を受け止めつつ、地域自治体における固有の政策をいかに形成するか、昭和20年代の半ばにあっては、まさに無から有を生み出す、手探りの作業であった。
 上田作之助、我々は「上作」と親しみを込めて言い合ってきたが、その上作が、最初に着手したのは実態調査であった。私は、上作に仕事で直接的な関係があったわけではないが、なぜか親しく接してもらっていて、上作の最晩年の接触は、私が一番多かったのではなかったかと思っている。私の職場をよく訪ねていただいたばかりでなく、しばらくご無沙汰していると、「まだ生きていると伝えておいてほしい」と我が家の家内に電話をしてこられたものであった。こうした関係から、京都市経済行政のみならず、高山市長のブレーン的役割に相当する事柄についての話し、広くは戦争を境とするその前後の話しなど、時にはGHQの占領政策との若かりし頃の接点などなど多くのことを承っていた。また、上田経済行政の最終段階とその後の経済行政については、私自身も一定の経験を有しており、またかつての経済行政領域の諸問題はかなり知悉していたし、多くの知己も有していた。こうした上にたって、もう少し、上田経済行政についての、本人の意図していたあたりについて述べておきたいと思う。

 上作は、元来学者である。東大の大内兵衛門下であったが、戦争で東京が焼け野が原になったために一時京都に戻っていたことが、高山市長の誕生により京都市に入職する要因となった。この時代の経済学者には、国家レベルの経済分析はあっても、地域経済という概念自体があまりなかったのではないかと思われるが、上作の手法は、あくまで京都市域の産業、経済の実態を具体的に把握することであった。戦前からの京都市の経済行政といえるものは、博覧会か見本市程度であって、産業構造それ自体に対処するものではなかった、経済行政らしい経済行政は何もなかった、とよく話されていたものであった。抽象論ではなく、あくまで具体的に実態を把握して、その上で具体的に対策を考える。これが、上田経済行政の特徴の第一であった。そのために、まず、調査機能を重視した。京都市に入るに当たっては一つだけ条件を出した、それは「調査係を設置することであった」という。
 昭和20年代後半から30年代前半にかけて、京都市産業界の現状を把握すると共に、そこから出てくる問題に対する課題に対して、順次施策が打ち出されていった。中小企業の組織化、中小企業相談所の開設、中小企業経営の近代化、工業団地の造成、そして政策課題としての「伝統産業」という概念の創出などなど。特に、地域産業の実態把握と施策の創出のためには、やはり大学の協力が必要であり、この点に関しては、私の聞き違いがあるかもわからないが、当時の国立大学は、ナショナルないしインターナショナルな領域に対する関心しかなく(この点では、現在の京都大学の地域に対する協力の姿は隔世の感がある)、地元大学の協力を得るしかないとの考えから、同志社大学に地域に立地する大学として協力するべきであると説得に行ったが、理解が得られず喧嘩別れで帰った。しかしその後同志社大学から趣旨が理解できたという返事があり、これがもとで同志社大学の人文科学研究所がつくられた、ということであった。具体的な形がこの通りかどうかは別にして、以後、同志社大学と京都市経済行政との協力関係が形成され、伝統産業関係をはじめとする、産業界の実態把握が進められたのである。
 また、経済政策は、あくまで具体的な課題に対して、具体的に打たれなければならないことから、実態調査が不可欠であるのはすでに述べている通りであるが、問題は、そうした調査を実行するシンクタンクはおろか専門的な調査マンがまだその当時にはいなかったことである。そのために京都における調査マンの養成を重要な課題として考えられていた。京都府の労働経済研究所と提携し、民間では京都銀行に調査部が設けられ、その三者による調査マンの定例会議も行われていた。
これなども、今日、銀行に調査機関があり、民間のシンクタンクも多く存在することがあたりまえの時代には、なかなか思い及ばないことであろう。
 上田経済行政の特徴の第二点は、地域経済行政とは何かという、いわば地域経済行政の真髄である。地域経済行政の原点は何か、突き詰めたところのものはいったい何かという点である。それは、上田経済局長その人ただ一人である。地域経済行政には、国家レベルの政策と違って、地域の中ですべての与件を設定することができない。根本的な与件は、すべて国家レベルで定まってくる。その意味では、地域ではいかにそれを受け止め、いかに対処するかということになる。そのためには、経済の現状と政府の施策をしっかりと認識しなければならない。自らの構造を知り、そして経済活動の与件を認識することである。まだ、前近代的な経営、家内経営としての非合理的な状況、そうした中にあって、経済、経営の教育がもっとも大切であるということ、その教育のためには、局長自身がそれらのことをよく認識していなければならず、そのために、またもや調査機能が必要となってくるのである。まずは、受付が一人、そして上田局長。これが経済行政の原点であり。次に、資金が必要と判断すれば融資が、具体的な経営指導となれば、経営診断、技術指導には試験場というように、順次その必要性に応じて拡充されていく。しかし、その基礎には、行政と企業家と、共に的確な現状認識がなければならないし、経済状況というものは、政府の施策を含めて刻々と変遷するものであり、そうした情報と実態把握は容易なものではない。が、その原点を、上作と企業家との直接的関係において、端的に説明をされていたのである。上田経済行政の時代と現在とでは、経済の領域と経済行政組織の規模も大きく異なり、しかも稀有な人材であった人物を前提として行政を考えるわけには行かないことから、その当時と今とを単純に比較することはできないが、この上田経済行政を、今日では、組織でもって如何に考えるかということになるのではないか。有能な一人の個人から、組織の時代に入っているのである。
 上田経済行政の特徴の第三点は、人材養成にある。先に触れたように、経済調査マンの養成はその最たるものであるが、同時に経済政策マンが育っていった。しかし、この点に関しては、結果的に功罪相半ばすることにもなった。それは、経済行政は、いうまでもなく市役所の外、社会経済の現状からスタートするところにある。地方自治行政は、これまたいうまでもなく政治と表裏の関係にある。地方政治があって、行政がある。そのため、経済行政の企画立案から実施過程に至るまで、当然のこととして、市議会をはじめとする政治関係と無関係ではありえない。上作は、そうした政治的問題は、できるだけ自分で処理し、部下をわずらわさないようにしたといっておられた。確かに、経済政策を考えるに当たって、先に政治を考えるようでは、まともな経済政策はなかなか成立しにくいといえる。しかし、政治との関係を自分の段階でとどめようとしたことは、今度は逆に、政治関係に疎いひ弱な政策マンの養成となる危険性も孕んでいた。ある時期からの市行政が、内部権力型の外に弱い体質が指摘されるようになると、なおさら、市役所内部に弱い経済政策マンでは、市行政の中の経済行政のあり方自体が不安定になってくるからである。このあたりの問題を具体的に述べるには、なお今少しの時間的猶予を必要とする。が、そうした市役所内部と政治に弱い政策マン集団の中から、逆に政治とのかかわりで、勢力を築いた人材が誕生することにもなったことは、指摘しておかねばならない。
 上田経済行政の特徴の第四点は、市長の全面的な信頼とガードのもとにあったということである。よく知られているように、昭和25年、民主戦線統一会議による選挙戦で市長に当選した高山市長は、その翌年には保守の立場に転向する。しかし、誕生直後の上田経済行政は、その後も特に路線変更をすることなく、地域経済行政を着実に進めていっている。が、現実には、市会与党との軋轢もないわけではなく、昭和30年頃に一度高山市長に辞任を申し出たことがあったようである。しかし、高山市長は、市会議員からの更迭要求には自分がガードするということで、辞任を思いとどまらせたようである。後年、上作は、高山市長が転向後も自分を使いつづけたのは、転向に対する一抹の良心からであったと思う、と語っていた。(高山市長の転向問題は、それはそれとして一概に簡単な評価を下しにくい問題で、いずれかの機会に後日分析したいとは思っているが、ここではその詳細には触れない。)こうしたことに見られる点は、高山市長は、政治的スタンスの如何を問わず、経済行政については、全面的に上田作之助に依存し、任せきり、それに伴う政治的軋轢は自らが処理したということである。こうしたトップのガード無くして、戦後復興期から経済の高度成長期に至る16年間の京都市経済行政の安定した形成はなかったものと考えられるのである。

 まだまだいろんなことを記してみたいという思いはあるが、頼りない解説は、このぐらいにして実際の論稿を見ていただきたいと思う。その中で、今日でも役立つ資財は沢山発見いただけるものと思う。また、上作自身が、その中で、よく整理して書かれている。私のほうでは、一定の時期区分のような真似事で掲載を取りまとめてみた。上作は、話しを好んだが、書くことについては、あまり時間を費やしていなかった。行政マンとなってしまったがゆえの忙しさがそうさせてしまったのであろう。事実関係の中に、あまりにも深く関与してしまったがゆえに、書くことのできない事実をまた十二分にわきまえられていた。経済学は、特に経済政策は、実践にかかわることなくしてなすことはできないとよく言われていたが、実践の当事者であること、実態政治とのかかわりが、学者としての頭脳との間に乖離現象をもたらすという不都合もあったのではないかと思う。できうれば、いずれかの代役を果たしたかったとの思いは深い。

 この論稿集は、追悼記念として出版したかったものである。諸般の事情から実現しなかったために、この場を活用することにした。いずれ機会を得ることができればという思いを抱きつつ、多くの諸兄の参考になることを願っている。

 

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