6.龍谷大学教授時代
1966.05
回顧 創設の頃(『京都市中小企業指導所「20年の歩み」』)1970.9
上田作之助
高山「革新」市長が実現したのは
「伝統産業を考える」から1970.12
「伝統産業を考える」から
上田 京都の伝統産業というのは
,いまもお話しのありましたように,全国に散在している在来産業とは,かなりちがった特質をもっているわけです。それで,吉田先生のご指摘にもありましたように,技術の伝承というものが,非常に大きな支えになっている,技術そのものが,京都の伝統産業を支えてきたといえます。<くらしの中の伝統産業>
司会 行政の立場から
,なぜ,伝統産業に力を入れてとりくんでるかといえば,伝統産業自体が,市民生活と非常に深い関係にある,生活そのものであるといってもいいような性格をもっていて,しかも他の大都市にみられない高いウェイトをもっている。企業者というだけでなく,そこで働らく労働者も含めた,京都市民の生活の問題とつながっているというところから,伝統産業を非常に重視しているわけです。
中小企業の組織と「協業化」(96号)1972.3
中小企業の組織と「協業化」
龍谷大学教授 上田 作之助
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38年度白書に掲げられた「協業化の動き」の節に総括されている内容は,事業協同組合,商工組合,企業組合等の,従来から一般に行われている共同事業の推移と団地造成であり,それに「共同会社」,合併等による「協業化」がつけ加えられている。しかし,さきにのべたように,「協業化」の概念規定はなされていなし。
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協業組合が法的に制度化される前年の
41年6月,「中小企業政策審議会・組織小委員会」は「協業組合の創設について」の中間報告を行った。この報告は「協業」について次のような規定をするに至った。「複数の業者が中小企業の構造改善を目指して,共同出資を行なし,自己の経験・信用および事業自体を投入し,これを互いに有機的に結合させて,共同経験の下に,より高度の経済的効率を発揮せしめる共同行為を指し,その共同経営の対象となるべき事業に関して,各構成事業者はこれに全面的に依存し,共同事業体との競合的状態はこれを脱却するもの,すなわち,事業の共同化が高度に進んだ形態であるのが,協業である。」その後,商工中金編の「協業化事例集」によると,「(1)複数の事業者が,自己の事業の全部,または,生産・加工・販売・購買などの事業の主要な一部,を投入し,一つの事業体として共同で経営することを指し,(2)共同経営の対象となる事業に関し各構成員がほぼ全面的に依存する状態にあるもの,ないしはそのような状態をめざしているもので,その事業活動が各構成員の事業にとって補完の域を脱する程度にまで達しているもの」と規定されている。この段階において,「協業」を合併とも区別し,しかも以前とちがって狭義に,限定的に解釈されることになった。従来「中小企業団体」には,事業協同組合,事業協同小組合,火災共済協同組合,信用協同組合,協同組合連合会,企業組合の6「中小企業等協同組合」のほかに,商工組合および商工組合連合会がその構成員にあげられているが,ここに至って,上記のように規定された「協業化」を行なうにもっともふさわしいモデル組織としての協業組合が,これに追加されることになったのは,自然のなりゆきともいえる。中小企業団体が「狭義の協業化」をもっとも効果的に進めるための組織は協業組合とされることになった。4
さて
,中小企業庁の流布した「協業」という言葉は,その後の経過からみて,多分に政策意図をおびたものであることが,明らかとなった。正確な概念規定はいまなお為されているとはいえないが,ことの経過のなかで推測が行われ,政府の企図するところに近い意味づけが試みられてきたことはすでに述べた通りである。「構造改善」が日程にのぼる段階においては,中小企業を主体性をもった中小企業として育てるのではなく,「規模の経済」が優先して,そのためには中小企業の解体再編をも促進しようとする意図が,協業組合の制度化のなかに含まれている。そうした政策意図とは無関係に「協業」あるいは「協業化」という言葉をつかうことには問題があり,「協業化」という言葉の乱用に反対する意見,また協業組合という組織の論理に疑問をいだく人達もあることは,さきにふれた通りである。5
「協業化」がゆきついた「協業化」のための中小企業モデル組織
,協業組合の性格とねらいは,以上のように考えられる。 しかし,中小企業の体質と政策的な意図とはいまのところ合致しそうにはない。