4.商工局長時代1958.04

 

 1959年の課題(35)1959.12

 

1959年の課題

                                          京都市商工局長 上田作之助

 毎年予算の編成期になると,何か新しい仕事をうち出そうと努力がなされる。こうした努力の累積がこんにちの京都市の商工行政なるものを形成している。本年もまたおなじである。従来の仕事をいっそう充実することのほかに,新しい仕事が附加されてゆかねばならない。
 教育や民生や建設とちがって
,商工関係には政府の統一的な行政上の裏打が乏しい。したがって,ほとんどの仕事が京都の実情にあった創意工夫にまつほかはない。ある意味においてやりがいはあるが,またその効果や能力の点では疑問も提出されがちである。いわんや,自由と統制とのどちらともつかない無原則的な現状のもとで,地方自治体が果して商工行政上の主体たりうるかは,相当問題もあるようである。最近の団体法や小売商業特別措置法の例をみても,はっきりそれがあらわれている。
 中小企業庁が中小企業のすべての仕事をする政府機関ではありえない。中小企業とは歴史的条件や立地的条件をそれぞれ異にする変転きわまりない尨大な地方産業の集団である。企業規模が中であるか小であるかによって一まとめに論ずるには余りにも複雑多岐な生産構造と流通機構とをもちあわせている。しかもこれが日本人口の相当大きい部分の生活拠点となっている。
 都市の行政が市民生活の実態にそくしたものであるならば
,その都市の経済をささえる商工業の発展に最も大きい関心が払われるのは当然である。ところが,中小都市の場合には商工行政の主体たるにはいささか弱体のきらいがないではない。不完全な府県行政におんぶしている場合が多い。しかし大都市の場合は,決してそうではない。商工行政も次第に軌道にのり,また他の一切の行政が産業振興のうえから勘案されている。政府の施策をまつまでもなく,自主的に産業政策を都市行政の各分野におりこんでいる。
 わが京都市においても
,染織試験場,工業研究所,勧業館などの大きい施設が先輩の手によって設立されたことは,産業振興策が過去において相当重く取上げられた証拠であろう。われわれは,こうした先輩の偉大な業績をはずかしめることなく,これを向上させ発展させ,新しい要求に応じうる態勢に切りかえてゆくことが肝要である。
 京都市における商工関係の仕事は大雑把にわけて
,指導,振興,開発の3つから構成されている。
 指導関係では
,金融,経営,団体組織,技術にわかれる。本年の課題として,金融については,信用保証制度の改善と低利融資の増大による中小企業設備の近代化をとりあげたい。経営関係では,グループ活動を推進して組織的な指導活動を旺盛にすることが第一の目標になる。商店会組織の整備育成も今年の重要課題である。技術については,染織試験場,工芸指導所を新しい事態に対応せしめるため,例年にない飛躍の年とすることを心がけている。
 振興関係では
,内外市場の積極的開拓と京都の商品価値構成に大きいウェイトを占めるデザイン行政の充実である。恒例の六大都市アメリカ展において,京都市が本年の当番市をひきうけることになったのは,京都商品のアメリカ市場開拓にまたとない機会を与えるものといえる。正しくテストケ-スとなろう。国内市場については,染織見本市,百貨卸見本市,服装雑貨見本市のいわゆる三大見本市の態勢が10年近く続いているが,その開催方法については相当研究の余地が残されている。また他の業界についても,京都卸売業の集散的機能を強化して大阪,名古屋におされないため,組織の整備をはかりたい。
 今後最も努力を要するのは
,開発関係である。新しい産業の開発と立地条件の改善活動,これには多くの難関は伴うが,たゆみない努力を積み重ねたい。毛織物については,整理加工設備の欠如から未だ産業的確立の見通しを得ていないが,本年は何らかの一歩前進がはかられるものと思う。そしてそれに必要な技術陣の充実も考えたい。工場設置奨励条令の内容に関しては,本市産業の実情に合致するようたえず検討をつづけ,その運用の適正化と効果の発揮には一段と研究をつづけなければならない。更に工業用水道に関しては調査をつづけ,その成否について本年中に合理的な結論に到達したいものである。まことに仕事は多い。コ-スをあやまらないよう細心の注意をおこたらず,しかも勇気をもって現実にたちむかつてゆきたい。

 

 

 

 

 

 経済における「地域」について(40)1960.5
 

経済における「地域」について

 ここ一両年来,「地域経済の開発」が各方面で論議され,「近畿経済圏」というアドバルーンがあげられている。
 だがこの論議は充分な視野のもとにその幅と深さとにおいて展開されず
,ただちに府県制の存廃論や京滋合併の折衝に飛躍しかけたため,当然な障碍にあって,「地域経済論」そのものまでがもたついてしまった感がする。それにしても地域の集団が地域の経済開発について何らかの主体的役割をはたそうと考える場合,明治初年以来のまま存続してきた現在の行政区画に相当問題のあることは,かなり明かにされてきた。
 とりわけ
,戦後,東京にくらべて大阪の経済的比重の急速な低下に関心がたかまり,近畿一円をヒンターランドとした経済的地位の向上への大阪の動きは活発である。いわゆる「近畿経済圏」はこうした動きをあらわす言葉である。だがこの構想が充分にしかも慎重に展開されることなく,ただちに熊野の電源開発やびわ湖の水利とむすびついてしまうと,地元の微妙な住民感情からそっぽをむかざるを得ない府県もできて,「近畿経済圏」の構想はあやしくなってくる。
 それにしても
,.低開発地域の発展理論や産業連関表といったアップツーデートな理論をもちだしての作業は,充分に注目されてよいし,また,地域経済の開発が検討されはじめたことはせまい日本の国土をより効果的に利用するためにも,よろこばしいことといわねばなるまい。
 従来
,経済学者が「地域」をもっとも多く論ずるのは貿易理論においてであった。その場合の「地域」とは「国」であり,国という地域のあいだの取引と,国という地域のなか」の取引との相違を,はっきりさせてかかるのが,貿易理論の出発点であった。たとえば,労働力その他の生産諸要素の移動性の制約や貨幣制度の相違等。なるほど国際貿易における国の地域的性格はきわめてはっきりしてはいる。
 しかし
,国内において生産諸要素や商品の移動性が完全に確保されているか,というと,必ずしもそうではない。封建制度の解体と近代国家の形成は,生産諸要素の移動性をたかめ商品市場を拡大することによって資本主義の発展に寄与したのである。けれども,国の内部においても,.生産諸要素の移動性を制約する経済的あるいは経済外的要因は多くあるし,一挙に少くなる可能性はありえない。要するに生産要素の完全な移動性とは,経済学の純粋理論が想定する仮設にすぎないのである。
 日本の経済は
,濃淡とりまぜた数多くの地域経済によって構成されているといいうる。もっとも生産要素によって,地域性の強いものと弱いものとがあることはもちろんである。日本全国をほとんど何の制約もなしに一つの地域としている種類の要素もあるし,非常にせまい地域を移動範囲としている種類の要素や全く移動性を欠く要素もある。われわれが国内の一地域をとらえて,あえて経済圏とよぶ場合,これらの諸要素の移動競範囲が最も多く重り合っている地域をさすわけである。従ってこれは,国際貿易における「国」という地域ほどの明確さはなく,あくまで相対的意味での地域性をさす。わが国において,地域経済論が極めて未成熟な分野であり,諸外国にくらべて充分に程度が高いとはいえない産業立地論によって,わずかに代位されていたのはやむを得ない現状である。
 いずれにせよ
,最近になって,地域経済の開発がクローズアップされたのは何故であるか。それはほかでもなく,日本の経済において,地域的格差が次第に大きくなって行く傾向が顕著だからである。ひらたくいえば,京浜地帯中心の傾向が益々ひどくなってゆくからである。地域的格差の拡大は,地域性の最も強い中小企業と大企業との格差のひろがりでもある。大阪の経済力をもってしても東京には次第にかなわなくなっている。いわんや京都においておやである。その原因を究明し,地域の力を結集して,政府にも訴え,開発や組織化をすすめ,地域的発展をはかろう,ということにならざるをえない。
 最近
,所得倍増論がはなばなしくうちだされ,その背景には年々急ピッチの経済成長率が想定されている。けれども,経済企画庁の計画推計は,全体数ないし平均数が中心となっており,地域的格差や業種的格差や,大企業と中小企業との格差は充分に考慮されているとは思えない。このことは,いきおい,日本の経済成長が,地域間の格差の拡大再生産となる可能性すら予想される。かりに日本の経済が何年かのちに全体として10割の成長をとげた際,地域的格差が小さくなる場合と大きくなる場合とでは,国民の福祉に与える影響には大へんな相違が生じる。
 ところで
,わが京都市についてみるならば,さきに発表した「京都市の市民所得の構造」によると,観光収入もさりながら,所得の大部分は製造工業と卸売業とである。京都市の経済的発展を日本の経済成長率に先行させるには,業種別にそれぞれめんみつな振興対策をたててゆかねばならない。地域性の強い中小企業に対しては,組織化,技術,経営,販売,金融,宣伝等の対策,これと平行して,新産業の開発や工場誘致も必要である。それには立地条件の整備が急務といえよう。文化観光都市としての国づくりと共に,これとバランスをとるため,また市民の経済生活の基盤を培養するためにも言葉の真の意味における都市計画が必要となってくる。工業用水,排水,道路の整備,開発会社の設立等,更に地元資本の強化と政府資金の導入にも力を入れなければならない。こうした面について京都市は以前から一つの地域としての意識をつよくもち,その地域の経済的基盤をよくみきわめて,徐々ながらも努力してきたが,今後は抜本的な作業が要請されよう。
 けれども
,こうした努力をより効果的ならしめるには,地域的な活動を京都市という狭隘な範囲に限定せず,手近かな周囲にも目をくばり,京都市をとりまく周辺の地域とも手をたずさえて,共通の問題を見出すようにつとめ,有無相通ずることがらに関してはもっと積極的なていけいが結実すれば,従来比較的に固定化した観念をもって考えられていた京都市の立場に,新しい道が開ける可能性があるし,またそのような可能性を拡大してゆかねばならないのである。
 京阪神が協力し
,共通の問題について努力しあうこと,滋賀県や裏日本との経済交流を促進し,これらの地域の資源開発には協力しあい,強く中央にも働きかける体制をつくりあげることの必要性は,いうまでもない。それが「近畿経済圏」という諜によって,地域的活動の結集体にまで発展すれば大したものといえよう。その過程において府県や大都市のあり方が充分に論議されてよいわけである。
 経済同友会あたりで論議されている府県制の問題にとび込む前に,お互の立場を理解しあうコミッティーのようなものができれば,問題は一歩前進するかも知れない。そうなればこの前進は,京都の工場地帯づくりや資金の導入や関連産業のていけいや,工業川排水問題の解決にブラスするし,政府への働きかけの強力な足がかりともなる,といえよう。
 経済発展における地域の問題は,「地域」においても「中央」においても,もっと本格的にとりあげられる必要があろうし,今後の日本経済の大きい課題である。
                                      京都市商工局長  上 田 作 之 助

 

 

 

 

 

 

 中小企業相談所運営の10(42)1960.12
 

                        中小企業相談所運営の 10


                                       京都市商工局長 上 田 作 之 助

 京都市中小企業相談所が昭和
25年の9,烏丸万寿寺の角に開設されてから,10年の歳月が経過しました。ものごとが始まって10年たてば,よきにつけあしきにつけ,その足跡をふりかえって,足らないところを反省し,努力の結実を喜びあうことは,一つのならわしのようです。わたくしたちがこのたび,相談所開設10年目をささやかながら記念するのは,そのような意味あいにほかなりません。
 昭和
25年といえば,インフレ終そく後金づまりがひどく.税問題が中小零細企業をいためつけていた頃です。そして,中小企業対策としては,信用保証制度以外に何らみるべきものが存在しなかった時代です。その頃に中小企業の密集地帯に相談所を設け,どんな難問題をひっさげてこられるかも知れない業者の皆様を相手に,直接の相談を引受けようというのですから,かなり大たんな計画であったようです。
 充分な政策上の裏付けと
,専門的なスタッフの準備をもってするのとは異なって・サーヴィス行政の基本方針の一つとして,とにかく開設が急がれたわけです。不慣れな職員をかり集め,数名の嘱託による補強によって,やっと開設の運びに至りました。これで市政に新しい分野が誕生しました。
 さて開設はしてみたものの当初の不安は
,果して市民の理解が得られるだろうか,相談にきてもらえるだろうか,むづかしい問題を持込まれ,これに対してご満足を与えられるだろうか,ということでした。毎日毎日がきびしい勉強でした。念願は,「京都市中小企業相談所」の看板をいつわりのものにしたくない,ということでした。それには相談にあたる職員一人一人が知識と経験とを一日でも早く身につけるとともに,たえず真摯な態度で来客に接する必要が痛感されました。中小企業の指導には,机上の理くつだけではなく,こまめに足を運び,業者のもつ悩みをじかに学びとることが必要とされます。開設早々はこんな状態の相談所も,職員一同の努力によって,どうやら看板をはずされずに,次第に形と内容とを整えてまいりました。相談件数は,昭和25年の1,182件から33年の5,884,34年の5,282件へと,年を追って増大し,現在ではどうにか,市民の皆様に親しまれる機関にまで成長しました。
 このように
,京都市中小企業相談所が,まがりなりにもこんにちに至ったのには,相談所活動を援護する対策がぼつぼつ整備されてきたことにもよります。すなわち,最も相談件数の多い金融についてみましても,当初の啓蒙的な金融相談から一歩進んで別枠融資制度を設け,更に,一般の融資から各種の特別融資制度をつくり,相談所がその窓口になったこと,商工中金,国民金融公庫,中小企業金融公庫などの資金枠が増大し,相談所との連絡が密になったこと,市中の各金融機関の相談所に対する理解が深まったことなどにより,少くとも金融面では相当業界にくい込んだ活動が可能となりました。
 しかしながら
,相談所がほんとうにその力量を問われるのは経営診断能力についてだと思います。開設当時は,やっと国の診断制度が発足したばかりで,地方自治体に対する具体的援助は皆無の状態であり,経営診断とは一体何かというところから出発しなければなりませんでした。診断活動の中核は,経験ゆたかな,すぐれた診断員の獲得にありますが,これは役所仕事の枠のなかでは処理しにくい要素をもっています。しかし結局は,なんとか工夫して養成するほかはありませんでした。
 経営診断はその対象範囲が広く
,財務面に重点をおいた診断から,他の各方面にわたる診断へと,能力に応じ内容をひろげて行きました。34年度の診断件数は330件に及んでいます。対象も,商店,工場,協同組合,企業組合,商店街,小売市場の診断から産地診断に至るまで.各種各様となっています。主として中小工場関係で相談所の診断を受けた方々によって,昭和3310月に,京都経営合理化懇請会が創立されました。この組織が本年に,日本生産性本部と相談所との共催による京都地区モデル工場育成診断指導の中核体となったことは,このさい特筆させていただいてよいと考えます。
 次に税務面に関しましては
,日常の税務経理相談から一歩前進して,昭和27年の5月に相談所が公開経営を提唱しました。そして28年の7月に京都公開経営指導協会が結成されました。税金攻勢の真唯中にあつて経営の公開を指導することは,相当の覚悟を必要としました。けれどもこれによって,計数管理を推進し中小企業経営の合理化をはかろうという,まさしく死中に活路を開こうとするねらいには共鳴者ができ,現在では会員100名に及ぶ盛況をみせています。いわゆるガラス張り経営の基礎のうえに集積された経営諸指標が,京都いな日本全体の中小企業対策の重要資料として活用されることを念願しております。
 このようにして
,相談所も10年の歳月をへて,どうにか市民の皆様の相談相手になれる資格をそなえてまいりました。わたしたちは,相談所10年の運営をふりかえって感慨深いものがあります。が同時に,この際過去の運営の至らなかった点を反省し,決意を新たにして,ますます中小企業者の皆様に親しまれ信頼される相談所にしてまいりたいと思います。
 戦後
15,日本経済の相貌は一変しました。日本の経済力は急ピッチで回復し,飛躍的発展のかまえをとっています。しかしながら,中小企業と大企業との格差はいっそうひどくなろうとしています。京都市の経済が地盤沈下をまぬがれるためには,京都市の経済の主力である中小企業が発展しなければなりません。高原景気,岩戸景気,技術革新,所得倍増,こういうことばが京都を素通りしないためには,中小企業の皆様が余程経営をうまくやっていただかねばたりません。
 それには
,一方において,京都の地域経済発展のための大きい手がうたれる必要がありましようが,他方において,一つ一つの経営を対象にご相談をうける相談所が,その使命の重要さを自覚し,どんな業種のどんな問題を持込まれても,充分にこなし得るような立派な体制をつくり上げるように,努力したいものです。市民の皆様のいっそうのご理解とご叱声をたまわりたい次第です。

 

 

 

 

 

 

「京都の伝統産業」はしがき1962.3

 はしがき

 大都市のうちで,いわゆる伝統産業と称せられるものが大きい比重を占めているところは,京都市以外にみあたらないのではないか。伝統産業の存在とその周辺に展開される生産ならびに流通活動は,伝統文化の都市京都の重要な経済基盤を構成してきたのである。京都市にとって伝統産業は,他の都市に類例をみない独自の色調をうみだす源泉であったという意味において最も誇り高い存在であるが,同時に反面,昨今のすさまじい日本経済成長の過程にあって,少なからぬせっぱつまった問題との対決を余儀なくされているのもまぎれのない事実である。
 伝統産業の問題は
,こんにちのいわゆる中小企業問題の概念のなかには解消しされないひろがりと深さとをもっている。それだけに,伝統産業対策とは何か,を問われるとき,問題点の多いために戸惑いを感じることしばしばである。
 わたくしたちの理解する伝統産業とは資本主義以前から伝わった産業のことである。京都は歴史が古いだけに
,こうした産業を数多くもっている。資本主義経済の発達とともにこのような産業で滅んでしまったものもあるが,かなりのものが新しい資本主義経済に適応しつつ,体質改善をとげて存続しあるいは発展してきた。戦時戦後の経済変動はこれらの産業に大きい打撃を与えたが,なかにはその後,戦前にまさる隆盛をとり戻したものも存在する。「滅びゆく伝統産業」という言葉は伝統産業全体には決してあてはまるものではない。それどころか,たゆみない技術の改善と新しい趣向の創出とによって,たくましい生命力を保持しながら繁栄しているのである。
 資本主義の発展は
,成長力のっよい産業を不断にうみだし,新しい産業はたえず新しい需要をつくりだしてゆく。そのなかにあって,伝統産業が存続し発展してきたわけは,何よりもまず伝統的な需要が日本人の生活のなかに根深く潜在していること,新しい需要に適応する努力をおこたらなかったこと,技術の伝習が続けられたこと,製品が比較的に高級でありまた余りにも多様であるために大資本による生産に適しなかったこと,などいろいろと理由があげられよう。がいずれにせよ,資本主義経済がうみ出した近代産業とことなって,部分的に機械化したものもあるが手工業的要素が多分にあり,生産構造そのもののなかに,多かれ少かれ前期的要素をもちつづけてきたことは争われない。また,商業資本の優位性も一般的な特質となってきた。
 伝統産業の近代化が叫ばれてから相当の年月がたっている。伝統産業のなかでも明治以後徐々に機械化を進めているものは
,資本主義経済のうちに比較的しっかりした地歩を占めるに至っているが,手工業的手法から余り出ていないものは,特別の高級品は別として,類似の他産地製品におされる可能性もできてくる。とりわけ,日本経済の高度成長に伴う労働事情の変化から,生産構造に多少の変化なくしては生産体制の確立をむつかしくするようなものもないではない。すでに機械化の進んでいる伝統産業においては近代的な労務管理は可能であり,充分にこれをなしとげている業種も相当にあるが,手工業的生産から抜け出していない部門では,生産行程の細分化に平行する経営単位の零細化が行なわれ,家族労働に依存する場合はともかく,近代的な生産体制への移行にはいくつかの条件の充足が先行するように思われる。
 京都市は
,伝統産業による製品のすばらしさを誇示し,宣伝し続けてきた。機械化と多様化の進む反面,ハンドクラフトの価値が再認議され高まりつつある現在においては,伝統産業は新しい角度から推進され,高揚されなければならない。しかし,一般的にいって,伝統産業の製品の価格は,その生産に投入される努力の代償を充分にカバーしていないのではないか。それは,製品に問題があるのか,流通機構に問題があるのか,生産機構に問題があるのか,はたまた日本の経済事情に問題があるのか,検討さるべき点はたしかに多いようである。われわれは伝統産業製品の需要の態様を充分に把握するとともに,その需要の態様にマッチした経営方式と技術体制とをうちたて,それを可能にするような生産機構・流通機構の合理化・能率化の努力を期待してやまない。
 さてこのたび
,同志社大学黒松教授のご指導で,商工局の調査がとりまとめられたことは,伝統産業の振興が強くうち出されている現在,時宜に適したものと信じている。誰でもが簡単に口にする伝統産業の振興とは,実際はどういうことなのか。この調査が充分に利用され検討され,しかる後にほんとうに地についたしかも可能な振興策が各方面からもり上がってくるための一助となれば幸せである。
   昭和三十七年三月
                                           京都市商工局長 上田作之助

 

 

 

 

 

 

 

   景気調整と中小企業(47)1962.9

 

景気調整と中小企業

 

 最近の日本経済の局面を,どのように要約すればよいか。いわゆる高度成長政策が物価の高騰と国際収支の悪化をまねき,恒例のごとくに金融のひきしめが行なわれて景気は後退の過程をたどり,国際収支はようやく改善のきざしをみせかけてはいるが,90%の自由化が目前に追っている,といったところであろう。
 もともと底が浅くて少なからぬ不安定要素をもつ日本の経済が
,長期にわたって高く安定した成長率を維持しつづけるという想定に,無理のあったことはまぎれのない事実である。しかしこの想定に「計画」のレッテルがはられ,この「計画」が早くも一頓挫をきたしたところに多少の複雑さが予想される。
 一昨年来
,設備投資は生産過剰を生まないという底抜けの楽観説が流布され,投資が投資を呼ぶ,ということであった。技術革新と貿易自由化に対応する設備投資が基底にあったにせよ,所得倍増ムードにあおられて行きすぎの強気がまかり通ったことは否定できない。設備投資の伸びに対応して生産が伸び,生産の伸びを無条件的に可能にするような輸出を含めての需要の伸びを期待せしめる情勢が,いまの日本の経済のなかに存在しているということであった。この楽観説には強い反論がなされたのは当然である。戦後急速に進んだ消費革命も次第にそのテンポがにぶり,相手のある輪出はこちらだけではきめられない。結果的には国際収支の大幅な赤字をきたし,成長ムードにストップがかけられたわけである。ただし,シリアスないくつかの間題を残している。たとえば,もろもろの格差の拡大,労働力需給の構造的不均衡,社会的投資の甚しいたちおくれ,企業の資本構成のアンバランス等々。
 影響は中小企業の分野をとりあげても顕著である。大企業と中小企業との格差がちぢまらなかったのみではなく
,中小企業間の上下の開きが大きくなっている。中小企業も貿易の自由化や系列化の傾向にそなえて,かつまた相互間の競争に勝ち抜くために,設備投資を旺盛に進めたことはいうまでもない。しかし資金的には大へん背のびをした形になっている。設備投資は行なったものの,自由化に対処できる見通しのたつまでにはいたつていない中途半端な状態におかれているものも少なくはない。それに,高度成長に伴う経済構造の変化は,中小企業に甚しい従業員難をもたらし,従来の中小企業存立の基本条件を変貌せしめようとしている。日本の経済が調整段階に入って,高度成長政策が中小企業にもたらしたいくつかの問題の処理または方向づけをどのようにして行くか,これからの大きい課題であろう。
 もっとも
,いわゆる景気調整策がとられたのは昨年の夏ごろからであるが,その効果は当初に予想されたよりはおくれている。その理由として,金融ひきしめの度合が前回にくらべて弱いこと,設備投資意欲のつき上げが根強いこと,消費が堅調であること等があげられているが,国際収支の見通しがはっきりしない限り調整策が持続されることは間違いあるまい。京都においても昨年末に危惧された危機がことしの2,3月にもちこされ,それがまた5,6月に延びているが,最近になって金融ひきしめの影響は相当はっきりあらわれてきた。一部の消費財産業は手堅い消費需要に支えられているものの,機械金属関係の産業では需要の激減,支払の遅延が著しい。
戦後いくたびかの金融ひきしめを経験してきた中小企業である。変動のはげしい日本経済の風雪にたえてきた京都の中小企業が
,このたびの調整期をうまくのりきることを期待してはいる。しかし,従前の場合とは質的に異った新しい問題に逢着していることを銘記しなければならない。90%の自由化をひかえ競争が激しくなる限り,設備投資をやめるわけには行くまい。経営のバランスをくずすような過大投資はさしひかえ,経営の合理化に一層の工夫が望ましい。京都市商工局は,こうした情勢に即応して,組織化の推進,金融対策の整備,従業員対策,技術指導と企業の体質改善,市場開拓に一段の努力を傾倒しなければならない。(1962.8.20)  (商工局長  上田作之助) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1963年を迎えて(49)1963.1

 

1963年を迎えて

 

 1963年は,景気が上向きになる期待がもたれながらも,昨年に劣らず問題の多い年になりそうです。今年のいつ頃から景気は上向きになるか,それが単なる期待に終ってしまうか,これな大きい関心事です。戦後三度目の景気の谷底の年を終えて,ほっとひといきついたところですが,過大な設備投資に伴う過剰生産が長く尾を引いて,解消しきれない不安定な要素を少なからず残しているようです。
 最近の日本経済は
,大きい構造変化をとげているといわれます。これは高度な成長に随伴しておこったものであり,景気が下降線をたどったからといって,以前の状態にかえる性質のものではなさそうです。この変化は生産面・流通面に広汎な影響を及ぼしつつ拡大しています。何ごとによらず,過去の日本経済に根ざす固定的なパターンが急速に変貌して,数多い新しいパターンが続出しつつあります。ここ数年来,目まぐるしい変化をきたしましたが,今年は一そうはげしくなることでしょう。
 また
,日本経済の成長は,甚しい社会的資本の不足と社会的費用の負担の問題をクロ-ズ・ァップしました。狭い国土においてこれ以上の経済成長をとげるには,総合的な開発計画樹立の必要性が強くさけばれています。全体としての投資効果を高めながら,地域格差の是正に資する産業立地政策・地域開発計画・資本市場対策が,政府といわず地方自治体といわず,緊急な課題としてのし上ってきました。しかもこれは実績においても能力においても一番立ちおくれている仕事です。 
 このような情勢のなかで
,われわれは,京都市の在来産業の5年先,10年先のヴィジョンと京都市の経済力を飛躍的に高めるために接木すべき産業とを適確に見きわめ,必要な措置を展開し得る体制をとりたいものです。
 
1963年の年頭にあたり,京都産業人各位のご健闘を祈りますと共に,われわれも心を新たにして努力を致す所存であります。
                                                
(商工局長 上田作之助)

 

 

 

 

 

 

 

 京都商工情報50号発行に際して(50)1963.3

 

京都商工情報50号発行に際して

                                                 商工局長 上田作之助

 いま私の手もとに,京都商工情報の合冊本が四つそなえてある。第1部自1号至11,2部自12号至24,3部自25号至32,4部自33号至46,に分類されてそれそれ合本されている。47号以下は未だ合本されるに至っていない。第1部を開いてみると,1号の発行日附が昭和251220日となっているから,創刊はざっと12年半以前にさかのぼる。紙質は悪く内容も立派とはいえないが,当時としては精一杯の努力の結晶であった思い出をもっている。
 自分のことを述べるのは変であるが
,私は昭和25年の9月に経済局の商工課長を拝命して,学校教師から京都市の職員に転業したのである。学校教師のくせが残り何か書きものをつくらないと仕事のよりどころがつかめない気持がした。それに,当時は京都の産業事情についての系統的な記録が皆無に近く,実体がよくつかめていなかった。引きついだ仕事は博覧会と信用保証協会くらいで,系統だった事業は殆んど手がけられていない実情であった。そこで就任のときに市長にお願いして,振興係・指導係のほかに調査係を新設していただくことになった。調査係の活動の成果を定期的にとりまとめて刊行することにして生れたのが京都商工情報である。
 さて名前は商工情報ときまったが
,「情報」である以上,月に1回は出すはずであった。それが,予算の都合や原稿の作成具合から,ながの月日のうちに3月に一度のときも出来てきたのはやむを得ないことがらであつた。いずれにせよ,まずまずの評判を得.ながら50回続いたことは,少なからぬ意義があったと考えたい。役所仕事としてこの種のものがこれだけ続くことは珍しいのではなかろうか。その一番大きい原因は,各方面からたえずあたたかいご支援をいただいたこと,編集にあたった職員にその人を得て,つねに誠実かつ熱心に仕事が進められたこと,であろう。役所には人事異動がある。昇進も必要になってくる。仕事に習熟しているからといって,いつまでも同じ職員に同じ仕事をやってもらっているわけにはいかない。といってこの種の仕事が手際よくこなせる職員は,そうざらにあるものではない。異動の度ごとに,調査担当者には少なからず気を配らないわけにはいかなかった。調査担当の係長も12年半のあいだに可成り変っている。幸いその度ごとに適任者をもって充当することが出来,こんにちに至ったわけである。
 さて
,年に四度ないし六度出されるこの種の刊行物の編集の仕方を,どのようにもっていくか,これは10年半のあいだ,たえず論議されてきた。かたくなったり多少はやわらかくなったり,数字が多くなりすぎて読みづらくなったり,そのときどきの事情で一貫性を欠くきらいがないではない。編集会議をもって熱心に議論したこともたびたびあった。しかしここ数年来どうやら落ちつくべきところに落ちついた感がする。調査係の,調査結果は勿論掲載されている。と同時に,商工局全体の日常活動が反映しなければならない。また業界の皆様のご意見をも載せることになっている。基本的な問題たついては学者先生がたの執筆を依顔している。要するに,京都市,業界,学界が相たずさえて,京都の産業を調べ論じる共通の広場でなければならない。これをうまくまとめ上げ,読みづらくないものにするのは,本職の雑誌社でない限りなかなか骨のおれる仕事であることをご了解ねがわねばならない。
 
12年半かかって50号まで京都商工情報がつづぎ,各号多少の巧拙はあるにせよ,ひとまとめになった合本を通覧すると,京都産業の全貌を理解する手がかりとなるのは何といっても嬉しいことである。それにしても,一都市を対象にしたこのような仕事は,市費をもってして始めて可能なのであり,この点,あたたかいご支援を与えて下さった皆様に心から感謝申し上げる次第である。 私たちは,50号刊行を一区画として,心を新たにし,商工情報の内容の充実に一段と留意し,京都産業の振興に寄与したいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

京都公開経営指導協会創立創立十周年を迎えるに当たって
(「協会だより−創立10周年記念号」)1963.8
 

創立十周年を迎えるに当って

                                         京郁市商工局長 上 田 作 之 助

  公開経営指導協会が十年の活動をつづけ,着実な成長をとげてきたことは,提唱者の一人として再喜びにたえません。これは偏えに会員各位の経営に対するご熱意と、たえず真摯な態度で指導に挺身された公認会計士の先生がたの努力のたまものと,深く敬意を表します。
  協会発足の当時は
,税務が経営において圧倒的な比重を占めていました。当時の思出は,余りよいものではないと想像します。せっばつまった皆様が,素裸になって協会にとび込まれ,死中に活を求めようとされたわけです。わが国の税制には従来からいろいろと問題があり,さなきだに計数によわかった当時の中小企業の皆様には,手きびしい風当りを示しました。「税の不安」という言葉がその頃流行していました。税が重いという感じのほかに,どれだけとられるかわからない「不安」がつきまとっていました。その原因は,かける方にもあったかも知れませんが,むしろかけられる側の経営に対する日常の心構えにもあったようです。公開経営指導協会のねらいは,まず会員の経営に対する心構えを確立して税の「不安」を解消し,不安のために消耗するエネルギーをもっぱら経営に投入できる条件をつくり上げることによって,その繁栄をはかる点にありました。従って,協会本来の運営原則は,会員の皆様にガラス張りの経営を要求しています。これは一種の精神運動でもあったようです。更に,協会員が経営を公開しても,否公開することによってますます繁栄することを実証し,また,中小企業経営とそれをとりまく与件との関係を,経営の公開性を通じて解明しながら,社会的役割をも果すことを意図してまいりました。
 もっともこの三つの要請は
,云うべくして実行ははなはだむつかしかったと思います。しかし十年の足跡をかえりみて,協会は設立の目的を完全とまではゆかなくても,相当立派に果してこられたようです。会員の皆様の経営はその間に多少の紆余曲折はあったでしょうが,まずまず順調な発展をとげてこられたようです。また協会員の数も,初めの頃と比較して,見違える程増加しました。
 考えますに
,この種の仕事は決して即席に成果の上るものではありません。日常の着実な努力が徐々に効果を上げてゆくものです。協会設立以来十年の努力が漸く結実して,基礎固めが出来上ったようです。会員の皆様の経営の基礎固めと協会組織の体制強化が八分通りまで進んだように思われます。従って十周年を期して,従来の活動を一面進めると共に,今後は十年の成果を充分に活用して,社会的な役割をも大いに果していただきたいと念願しています。公開経営とはそういうものであったかということを,ひろく市民にご理解願えるような活動を展開して下さることを協会員の皆様に切望致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都商品と市場開拓(54)1963.11

 

京都商品と市場開拓

 

 京都で生産される商品は数多いが,ここにあらたまって京都商品というのは,産地としての京都における固有の製品を意味している。伝統産業と称せられるもの,伝統産業に端を発するもの,生産工程の一部が伝統的手法によるもの,の製品をさしている。伝統的な中小零細企業によってつくられ,すぐれて京都的な色彩のつよい製品のことである。
 戦後
18,日本経済の復興と成長の過程において,これら京都製品の需要は全体としては一応手堅い伸びを示してきた。だが,一つ一つの品種についてみると,伸び悩んでいるもの,頭打ちしているもの,類似の他産地品に押されて衰退の傾向をたどっているもの,が見受けられる。他面,素晴しい発展をとげ,相当に大きい規模に達した企業を多数その構成要素にもつ業種があらわれている。が,いずれにせよ京都商品の生産者の大部分は,極めて問題の多い中小零細企業集団からなる産地の域を脱していないし,容易に脱し得べくもない。
 生産面において
,経営の近代化,技術の改善.技能者の養成,デザインの向上等,難しい課題が山積しているが,これはあくまで京都製品の需要の存在,市場の開拓が前提されている。適正な価格でより多く販売すること,引合う価格の成立が可能な適量を販売することのためにこそ,生産面におけるもろもろの努力の必要性も首肯されよう。
 ところで
,生産面の事情と販路との関係は,業種によって可成り異っている。戦前に比して格段の成長をとげ,不断に新しい市場の開拓と流通機構の合理化の必要性がさけばれている業種もあれば,生産の伸びは少いが安定した販路をもち,それがかえって生産の伸びをはばんでいる業種も存在する。
 そのむかし
,商業の興隆が販路開拓の役割を果し,生産面における近代産業の発達を促したことを想起するまでもなく,伝統的色彩の濃い産業の近代化に,市場の問題が先行的な必須要件であることは,充分に考えられる。
 尤も
,こんにちの市場開拓は,そのむかしの商業資本への依存ないしは従属一辺倒の,いわばあなたまかせの市場開拓とは性質を異にしている。大企業製品の流通革命には及びもつかないにせよ,中小零細企業の集団である産地も,商品の販売については,より主体的,.積極的な立場をとろうとする動きが見られる。少くとも市場開拓ということについての自意識が次第にたかまっている
 自分の商品をより多量に,より効果的に販売するにはどのような方法をとればよいか。消費者の動向をつかみ,リードし,売れる商品を生産し,有効なチャンネルに流してゆくこと,これは大企業に限らず京都商品においても重要な課題である。産地であるが故に困難だが,産地としてこそ初めて可能で効果的なマーケッティソグの方法が,徐々に推進されている。経済の高度成長に伴う構造の変化に適応するには,生産面におけると同じく流通面における多くの壁がうち破られてゆくに違いない。
 さて京都市は
,昨年秋,京都商品市場開拓推進協議会発足のきもいりを果し,京都の各業界うって一丸となった市場開拓意欲のもり上りに即応して,新しい企画の実行に努力している。見本市,物産展においても新しい分野が開拓され,産地表示活動の推進は今後の市場開拓のバックボーンとなるものと思われる。激しい販売活動のなかで,役所の営む役割に自ら限界があることは勿論であるが,101日の如きマンネリズムは次第に打破されてゆくであろう。(1963.10.28)                                   (商工局長 上田作之助)

 

 

 

 

 

 

 

 1964年の課題(55)1964.1

                      −1964年の課題−
                           近畿圏の整備

 1964年の日本経済のゆくてには,まぎれもなく不安定な要素がクローズ・アップされている。だが,経済の高い成長率は,物価を漸騰させながら持続することであろう。高い成長率とそれをかなり上回る名目成長率,国際収支の赤字,これを望ましくないものとしてとられるであろう金融措置,さきの空気はやや重苦しい。日本経済の宿命的なサイクルも,貿易自由化の浸透で今年は多少調子が狂いそうである。それにしても,オリンピックを目前にひかえて,東京を中心とする尨大な投資と消費とをまきおこす整備計画の推進は,多少のインフレ要因となりつつも今年の日本経済を彩る鮮明な色素の役割を果すに相違あるまい。
 ところで
,こうした情勢のなかにおいて,「近畿圏の整備に関する総合的な計画を策定し,首都圏と並ぶわが国の経済・文化等の中心としてふさわしい近畿圏の建設とその秩序ある発展を図ることを目的」として,法律が国会を通過したのが昨年の6月であり,その後,「紆余曲折はあったにせよ組織づくりが進められている。9月には近発協総会において,「基本的な考え方」が承認され,おおよその見当はつきかけてきたが,さてこれからさき,どのような進行状況を示すものか,今年の重要な課題となろう。
 だが
,むつかしい経済情勢だけに,いつ頃までにどのような事柄がどのような方法で,どの程度行われるのかを見きわめるには,ほど遠い感はする。のみならず,目標の設定そのものに多くの問題があり,前提となるべき思想も多元的にみえ,いささか話がうますぎるようでもある。底の浅い日本経済の現実に照らして,相矛盾するかに思われる作文が列記されているのも気にかかる。もっとも.そのような作文の段階だから近畿全体の話がまとまったのかも知れない。ただ区域の設定は,都市の用途地域の場合と同様に,さしあたりの影響が予想されるだけに,おおいに関心がもたれる。
 さて「基本的な考え方」は
,近畿圏が「ようやく交通麻痺・公害・地盤沈下等の弊害が深刻となり,既成市街地における都市機能の著しい低下を招来すると共に,他方において北部および南部の未開発地帯との所得の格差を拡大せしめるに至った」事実を認識の出発点としている模様である。つまり,たちおくれた社会的投資,社会的費用の負担と,バランスのとれない過大な投資の集中と,他面,地域的格差の拡大とが実態把握の出発点になっている。質をとわない物およびサ-ピスの絶対的生産額の増大をもって,もっぱら経済成長の指標とする高度成長ムードの必然的ななりゆきかも知れない。資本の運動と発展を可能ならしめる条件が最近急激に変化していることは,明らかな事実である。また,所得の地域的な格差は投資の地域的格差の反映であり,そのような姿をとりながら日本の経済は発展したのであって,資本の運動法則のしからしめるところなのであろう。それは「地域」の問題というよりも,日本資本主義の問題といった方があたっている。これをあえて地域の問題としてとりあげようとすれば,捕捉しがたい複雑な要因に対する配慮を必要とするし,未成熟な地域分析ではどうしようもない結果とならざるを得ない。述べられている投資育成会社は,実際の運営方針をうかがえば成長産業における中堅企業の資本充実に重点がおかれているのであって,地域問題の埒外の存在であり,また,労働力の需給調整にしても根が深くてスケールの大きい労働力の流れと如何に対決するかが重要であらう。
 自由化に対応する資本活動の能率化
,地域全体の資本活動の拡大,中心部の資本活動をバック・アップするための周辺との連携,地域住民の福祉の向上,近畿地域内の各区域にそれぞれその特長を発揮せしめ,全体として調和のとれた発展を策すること,地域経済の政策目標やうたい文句はどのようにでもたてられる。だが,住民の福祉と資本の活動の拡大と所得との関係は簡単なものではないようである。多くの配慮をもってかかれた作文ではあるが,具体的な作業としては,道路や工業用水のような建設事業にしぼられてくる気がしないではない。ただし,道路を含めた流通機構の整備と並行的に,地域内の格差が更に大きくならないことが願わしい。(1964.1.4.)(商工局長 上由作之助)

 

 

 

 

 

 

 

 

 39年商工行政の方向(56)1964.3
 

39年度商工行政の方向

 4月から39年の新しい年度にはいる。39年度の商工予算は,額においては必ずしも充分とはいえないが,多少なりとも充実味を加えた仕事の内容を反映している。予算もさることながら,創意工夫をもって,仕事全体を新鮮にし,深く掘り下げてゆきたい。
 京都市の産業は中小企業が圧倒的に多いばかりでなく極めて多様な姿をおびている。市の商工局は権限的なものを殆ど持ち合せないが
,企画力を働かせばそれだけで仕事は無限の広がりを展開する。市の能力と,対象となる産業の態様との関係を見きわめて,長期的な施策や短期的な効果をねらう手を相次いで考えてゆかねばならない。もろもろの制約を受けながらもやらねばならぬ仕事は数が多く,施策の進展以上のスピードで問題は累積してゆく。
 さて
.39年度は,開放経済への移行や,野放図な高度成長政策の頭うちから,何かとあおりをくいそうである。中小企業にしわよせられる金融の引締めは,成長ムードにのりながら前近代的要素をこの際,払拭しようとする努力の足をはらう結果となろうし,部分的には縮小しかかった格差は,別な面で拡大再生産されることも予想される。このような情勢にあって,金融対策,経営指導・組織化の推進を主軸とする指導行政は,一段と重要性を増すにちがいない。
 ところで
,指導行政の重要性と並行して,特に39年度の京都市商工行政を方向づけるものは,産業団地の助成と,市場開拓施設の充実,それに技術試験機関の整備であろう。
 まず産業団地であるが
,既に旗あげをした三つの団地のほかに,39年度は更にいくつかの団地助成を予定している。工場設置奨励条例と,団地助成に重点を置きたい。大都市内の団地造成は地価の高騰によって困難の度を加えてゆくが,京都市域における団地造成は,多くの意味から非常に重要性を増してゆくものと思われる。一歩前進して都市計画の一環として処理される傾向をおびるであろう。
 市場の開拓は
,あらゆる産業施策に先行すべき性格をもっている。商工局は,たえず新しい企画にもとづく見本市・展示会を続けてきたが,ここ一両年は,市場開拓施設の建設気運が急速にもり上がっている。既に発足したもの,発足が予定されているもの,うみのなやみは苦しいが,まことにはなやかである。勧業館の整備,京都商品展示場・クラフトセンターの開設,産業会館・産業センターの建設,京都市物産観光斡旋所の整備等,が一応あげられる。施設は何分巨額の資金を必要とする関係もあって,京都市はこの方面における仕事がいささかたちおくれていた。それが最近になってもろもろの条件が出揃い,多年の懸案が一挙に解決されそうな情勢になってきたわけである。もっとも,これらの設置は,京都市が単独で行うもの,業界と一緒になって行うもの,業界が主体となり市の強力なバックアップによって成就されるもの,いろいろある。要はすぐれた企画と熱意とがあり,必要な条件がととのえば,このような諸施設の建築も可能となるのである。39年度はこれが大きい特徴となるはずである。
 技術試験指導機関の整備は
,昨年染織試験場の3ヵ年計画を完了し,なお染織試験場運営協力会の結成をみて,不断に内容の向上に備える態勢を得ている。そして,これに引続き,工芸指導所の改築と業務内容の再検討が39年度の大きい課題となっている。この課題を39年度中にはたすことが出来れば,多年業界から要望されていた京都市の技術試験指導機関の整備も一段落し,中小企業の技術の向上に資することになるわけである。
 
39年度はまことに問題の多い年になりそうであるが,商工局全員が一体となって,困難にぶつかってゆく覚悟である。
                                         (1964.3.23 商工局長 上田作之助)

 

 

 

 

 

 

 

 今後の西陣の動向とその問題点(57)1964.5
 

今後の西陣の動向とその問題点

 西陣織物の生産は,十数年来見ちがえるほどの伸びを示している。きわめて重要な産業であるが故に,そのこと自体は充分に喜んでよい筈である。しかしながら,ここ数年間の経過をたどってみると,手放しに喜んでばかりいられない事態が現われている。また,相当に突込んだ検討を要する問題も提起されている。目前の伸びに目をうばわれて,本質的な要因が看過されないことが望ましい。
 成長と安定との関係は
,国の経済ばかりではなく,各業種,各産地についても討議の対象となっている。停滞のなかに辛くも安定を維持している産業もないではないが,国全体の経済が早い速度で成長している現在では,経済の全体が大きい構造変化をとげているだけに,何ごとによらず深刻な影響を受けるのは当然であろう。まして,程度の差異はあっても,成長発展をみている産地においては,それを構成する要因に変動をきたすであろうし,既成の構造のもとに産地を形成せしめてきた与件も,周囲の変化と産地自体の膨張とによって,変化するのは避けられない。好況不況の波は,不安定要因を拡大する。
 さて
,昨年秋から今年はじめにかけての不況は,117日の西陣着尺工組総決起大会となって業界をゆり動かした。その席上,生産調整だけではなく,流通対策・計画生産・市場調査・宣伝活動・融資 対策等のテーマについて,可成りほり下げた議論が開陳された。 最近の西陣問題が,単に生産の過剰や労務の現象面から,生産構造の変化に伴うもろもろの面に及び,業界自体の問題意識が相当に高まっている事実が明らかにされた。計画生産のテーマでは,特に出機の実態と性格とに論議が集中され,出機の他地方への量的増大が,産地の性格を変貌せしめる質的な転化にまで発展する可能性をさぐりあてようとする意見さえ見受けられた。また流通対策のテーマでは,商品の生産費が大量化すると共に多彩化してゆく現況にかんがみ,旧態依然としたパイプの形状が,積極的なマーケッティソグと計画生産との障害になっているとの考え方も,つよくうち出された模様である。
 機業家の立場
,賃機業者の立場,買継商や前売筋の立場,それぞれやむにやまれぬものがあるようである。産地の成長と平行して進みつつある構造上の変化は,製品が多様であるだけに極めて複雑といえよう。いずれにせよ,今や変化は量的なものから質的なものへ移行しかけていることはたしかであろう。質的転換をスムーズにとげるか否かは,西陣の安定を失わない成長の度合にかかっている。
 ところで
,これに関連したもう一つの問題が目下論議されている。それは,西陣地区の用途地域指定をどうするかである。即ち,現在の西陣地区は,準工業地域と住宅地域とに分れていて,明かな矛盾を示しているが,この際,住宅地区部分の一部を特別工業地域に変更してもっとすっきりした姿にしてはどうか,ということである。この場合にも,賛否両論のきめ手となるのは,将来の西陣のヴィジョンをどのように描くかである。西陣膨張の方向を,専ら他地方への出機依存,工場移転,団地形成等に求めるのは,抵抗の少ない安易な自然の流れであろうが,西陣地区を現状のまま放置することは,産地の機能を次第に弱める結果になりかねない。関連業種の密集地帯としての西陣が,産地機能を充分に発揮してゆくには,西陣地区の企業の近代化が大きい前提となる筈である。この前提条件を充足するには,さし当り西陣地区の用途地域の一部変更を行ない,西陣企業の近代化を可能にする基礎条件を整えることが先決である。これが,産地としての西陣の未来に対する構えを示すことになるわけである。現在の西陣地域の再開発の可能性を頭から否定する論議は,転換期にある西陣の重要性を否定する結果となろう。
 われわれは
,今日の西陣の動向をさぐるにあたって,既に多くの問題が提起され明らかにされていることを忘れてはならない。要は対決の態勢と心がまえの問題である。
                                         
(1964.5.30 商工局長 上田作之助)

 

 

 

 

 

 

 

 

 中小企業の成長と地域社会(59)1964.9
 

 中小企業の成長と地域社会

 中小企業の多くは地域社会と密着している。ある意味で,中小企業とは地域社会への定着性をもつ企業またはその集団,ともいえよう。それは単に企業の規模をあらわす量的な表現ではなく,多様な歴史的・立地的諸条件のにない手であることが注日される。もっとも,生成の時期や条件,あるいは業種によって,地域定着性の度合はちがつている。経営者と地域社会とのつながりや資本調達の地域性を通じての定着性,生産の機機やそこから生み出される所得の循環に制約された定着性,労働力の源泉や技術の地域的伝習からくる定着性,市場関係・問屋制度に条件づけられた定着性,気候風土に支配された定着性,あげていけば要因はいくらでも存在する。大企業と下請の関係にある機械金属部門の中小企業は相対的に地域性は稀薄であるが,おおむね中小企業は地域的な性格をおびているとみてさしつかえない。
 さらにまた中小企業では
,市場や資本力が大きく経営スタッフの充実した大企業とちがって,かりに立地要素のいくつかに変化がおこったり,ほかに有利な立地条件を備えた地域が出現しても,そちらへ企業体を移動させることは容易に行なわれ難い。有利な地域に別の企業が出現して競争関係が展開され,衰退することがあり勝ちである。規模の小さいことと地域社会への多面的なつながりのため,移転がはばまれる。いうなれば,中小企業は地域的な住民意識の高い企業のことである。またそのような意識に支えられて,中小企業は日本各地の住民の生活基盤となっている。
 戦後さかんであった工場誘致の考えは
,成長力の高い近代産業或は相当に成長した企業の工場を地域社会に引き込むことによって,農業または成長力の低い中小企業によってささえられている地域の経済力を,急速に高めようとするねらいであったが,地方自治体の独力による誘致措置には限界があるのと企業採算に制約されて,地域格差の是正には充分な効果をあげていない。地域の工業化に方針と秩序を与えようとする新産業都市建設促進法も,格差のありすぎる条件を満たすには,かなり多くの問題をはらんでいるようである。従って,全国的な視野からみた場合,中小企業と農業とが地域住民の生活基盤として,なお,大きい比重を占めていることには変りはない。
 なるほど
,日本経済の高度成長に伴う構造上の変化が,それらの比重を低下させていることはたしかである。それどころか,低下させることが経済の成長を意味すると理解され強調されてきた。だがこのことは同時に,地域社会を構成する諸要素の分解を促進する。分解と再組織との過程は必ずしも円滑には進んでいない。いくたのひずみと地域間格差の拡大をひきおこしていいる。日本経済の高度成長と地域社会の再編,その過程において,地域社会と大なり小なり密着している中小企業の盛衰は,高度成長のひずみの地域的な表現である。
 経済の成長に伴なう中小企業の推移には
,いく通りかの類型が存在する。また,中小企業の成長と地域社会との関係にもいくつかの類型が現われている。地域性の極めて強い中小企業は地域間格差がそのまま盛衰の表現をとるし,また,企業の盛衰が地域社会との関係を稀薄にして,より大きい地域社会に適応しようとするもの,或は地域社会との密着が成長の阻害要因となっているもの,市場の関係や系列化から企業間格差を増大させているもの等,多彩な方向が示されている。
 地域計画策定に際しては
,中小企業が地域社会に営む役割が再認識され,その性格を各面からとらえ,かつ業種業態によって異なる地域と企業の生命力との関係を充分に見さわめ,慎重な計算が行なわれることが望ましい。                                                 (商工局長 上田作之助)

 

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