上田作之助経済論稿集

 

 

 

 

 

1.京都産業と商工情報(100)1973.11

 

京都産業と商工情報

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 京都市の商工行政にながく携った関係で,京都商工情報100号記念号に,発刊の当事者として執筆依頼を受ける羽目になった。しかし退職して7年余,さらに16年の昔にさかのぼることになると,記憶は全くさだかではない。幸い現在の編集者から届けられた記録の目次を頼りに,与えられた題目「京都産業と商工情報」について,思い起こすことにしたい。
 昭和
383月に,商工情報50号記念特集が刊行されている。その巻頭に,経済局の前身である当時の商工局長であった筆者が,「京都商工情報50号発行に際して」という題名で,発刊のいきさつ,刊行の苦心,歴代担当者の努力,各方面からのあたたかいご協力,商工情報の役割,といったことについて述べている。あれから早や10年余,世のなかの移り変りはまことにすさまじいが,商工情報は編集者が変っても着実に刊行され,ここに100号を記念されることの意義は大きい。編集者の努力と,ながく続けられている周囲の理解協力のたまものである。
 さて
,1号発刊の日付は昭和251220日となっているから,ざっと228カ月の昔にさかのぼる。ドッジ・ラインによる日本経済の締めつけがあって後,朝戦鮮争が勃発した年の暮である。安定化恐慌に似た状態から立ちなおりはじめた頃ではあるが,戦後経済の混沌とした流れはなお続いており,出足のおそい京都の産業とりわけ中小企業は混迷の域を脱していなかった。京都市の戦後における中小企業対策は,そのような情況のなかで形を整えはじめたといえる。
 
25年に商工貿易課が商工課に名称変更され,経済局の一つの課として課員の数は18名ほどであった。その商工課が,振興・指導・調査の三係に分かれ,規模は小さいけれども京都市商工行政発足の新しい態勢として,課員一同意気さかんなものがあった。商工情報の刊行は調査係の主要な仕事であったから,当時の商工課の可成りのエネルギーが調査と編集とに注がれたわけである。商工情報は新しい商工課の旗印のようなものであった。
 さて商工行政の新しい構えは
25年の9月にささやかながら発足したのであるが,政策の対象である商工業がどのような状態にあるのか,どのような問題をかかえているのか,これらは必ずしも明確ではなく,市役所のなかには産業に関する記録とおぼしいものは皆無に近かった。戦時の空白時代から戦後の混乱時代に入って,信用保証協会の出えんと博覧会への参加程度が商工課の主要な「仕事」になっていた。また、担当者は年数を経れば経験的に事情が多少理解できようが,転任があって担当者が変れば事情は全くわからなくなり,「引き継ぎ」が適確に行なわれるという状態ではなかった。それに当時は商工行政が制度として定着してはいなかった。戦後間なしに中小企業庁という役所が中央で発足したが,尨大な数の中小企業を施策の対象としており,多様な問題をかかえた多様な業種の企業を中小企業という名称で総括してはいるものの,組織化と企業診断を唱えだした程度で仕事はまだ軌道にのっていなかった。それも主たる下請先は府県であり,大都市には無縁の存在に近いものであった。いきおい,京都市はフリーハンドで中小企業対策を推進しなければならなかった。
 新しい商工課の手はじめの一つは
,京都市内の商工業,とりわけ中小企業の実態を調べ上げ,これを記録して,行政の担当者は勿論のこと広く市民の共有財産にすることであった。経験的にぱく然と「理解」するのと異って,記録することは大へんな努力を必要とするが,その努力を通じて中小企業のもつ問題状況を系統的に把握し,政策立案の基礎にしようというねらいがあった。
 商工情報の執筆には
,編集担当の調査係は勿論のこと,指導係も振興係も中小企業相談所も協力しあったものである。各係が集って定期的に編集会議が行われた。記事にするためには日常活動を通じて観察するにも筋道だった把握が必要になる。つまり多少とも理論的に理解する修練になったわけである。中小企業の分野がいかに広く複雑であっても,また表現の仕方かいかにつたなくても,そのような努力の積み重ねが進むうちに,いつの間にか大きい共有財産ができ上るものである。職員はものを書くことに自信をもつようになり,それがまた本来の受持ち仕事によい結果をもたらすことになったと思う。
 発刊当初の頃の商工情報の目次をみると
,商工課の職員諸君のささやかな同人雑誌の観を呈している。しかし産業界の皆様には温い眼で見守られ,次第に寄稿に協力してもらえるようになった。今でこそ全国の各府県・大都市はすぐれた調査資料を数多くだすようになっているが,商工情報発刊の頃はこの種のものはあまり見当らず,紙質は悪く内容は素人臭いものであったが,京都市においては「画期的」な事業であるという自負をもっていた。

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 さて,新しい商工行政が当面した第一の課題は,戦後の伝統産業の振興をどのように進めるかであり,第二の課題はドッジ・ライン後の重税と金融逼迫から中小企業をどのように守るかであった。
 第一の課題については
,まず伝統産業の実態把握の必要性が痛感された。その頃はまだ大学の先生がたの協力かえられず,経済史専門の先生がたの研究が少しはかり残っているにすぎなかった。従って,調査はもっぱら若手職員と年配の嘱託とが仕事の合間に歩き回って行うほかはなかった。調査に入るに先だって業界との懇談会も頻繁に行われた。京焼・人形・扇子・木版画・骨牌・金属粉・象欧・漆器・襖箔紙表装材料・七宝・裁縫具小間物といった,当時の大雑把な中小企業概念では表現しにくい京都特有の業界が逐一調べ上げられた。これらの業界の多くは,百貨卸見本市協会が設立されるとともに加盟して,戦争戦後の時期に崩壊した市場ならびに流通機構の再建に力を結集することになった。272月刊行の第8号に,「京都裁縫具小間物雑貨業界の動態」と題する商工課の実態調査結果が掲載されているが,これには組合から「業界はじまって以来の快挙」という感謝状が届いている。骨牌の主産地が京都であることも調査の結果クローズ・アップされた。
 昭和
25年の創刊号に染織見本市と服装雑貨見本市の記事がのっている。これら三つの見本市はその頃発足したものであり,百貨卸見本市とともに京都の三大見本市と呼ばれていた。染織見本市は織物卸商協会が,服装雑貨見本市は服装雑貨協会が主体となっていた。織物卸商協会は,全国的な織物の集散地である「室町」の組織として,全国各織物産地の生産復興に伴う商取引の再開とともに,先進的な活動を開始した。染織見本市はその代表的な行事である。服装雑貨協会の主要メンバーは縫製品関係である。当時は化合級メーカーの寡占体制による系列化がまだ顕著に現れていない頃であり,中小企業の製造卸業者が主体的な市場開拓の共同事業として見本市を開くことになったのである。
 染織見本市は地元産地である西陣織物の市場開拓にも大きく寄与してはいるが
,主体は集散卸商の「室町」である。西陣織物だけのパイプではない。中小企業集団の製品である西陣織物の,生産から消費に至る経路は長く,かつ問屋への依存性が大きいため,産地が市場開拓の主体的活動をすることはむつかしい情況であった。昭和27年頃に商工課の行なった「西陣着尺の市場調査」は,西陣業界の市場開拓活動への意識の高揚にひと役果したように思っている。
 もっともその頃はマーケッティングという言葉はわが国ではまだ流行していなかったし
,「消費者行政の理論」といったものにはお目にかかれなかった。だが西陣の業界には,戦後の生活慣習の変化から,日本人は昔のようにきものを着るだろうか,という不安がつきまとっていた。そこで,市場の前途に何らかの見通しをつかむ必要があった。その頃の和装の市場といえば一部の上層階級と色街が主体であり,インフレとドッジ・ラインにうちひしがれた一般庶民の手の届くものではなかった。消費支出と衣料費との関係,所得の上昇に伴う衣料における和装と洋装との代替・補完関係の変化,流通経路,百貨店の機能,消費者の和装に対する嗜好,といったところが調査の内容であり,最近の「消費者行動の理論」を先取りしたようなものであった。生活慣習や衣料の機能に変化はあっても,所得が上昇すれば和装に対する需要の伸びは確実なこと,ただし製品の多様化が必要なこと,原料糸も多様化すること,などが結論づけられていたように記憶している。西陣毛織・ウール着尺への始動もその後のことであり,西陣三組合による西陣織物展も数年後に開催の運びとなった。
 このように
,25年の創刊から数年間,商工課の仕事に関係の深い各業種について,職員の手で地道な調査が進められた。当時の業界対策といえばさきにふれた三大見本市による販路開拓が大きい比重を占めていたから,この見本市に参加する業種の生産と流通の構造をつかんでおくことが大切と思われた。
 
20年代の終り頃からわが国でもマーケッティングの書物が出始めるようになった。ただし大企業においてのみ可能なものばかりであった。アメリカにおけるマーケッティング活動と理論の展開が独占の進行とともに盛んになったところをみると,アメリカものの翻訳ないし紹介でしかなかった書物が,そのまま中小企業に役立つとは思えないのは当然であった。まして中小企業の団体による集団的市場開拓活動の理論的支柱になりそうなものは皆無であった。見本市・展示会が単なる催しものに終ることなく,催 しによる市場の開拓と催しに参加する中小企業の商品計画とが相乗効果を発揮するにはどうすればよいか,が中心課題であった。小零細企業の製品の他地域への販売は問屋または製造問屋が主体にならざるをえないし,それらの問屋も中小企業であってみれば,催しによる前売筋の掌握には多くの問題があったことはたしかである。
 初期の商工情報には
,催しを担当した職員の報告が記事になって数多くのっているが,生産者の立場,卸の立場,開催地の小売や百貨店の立場が微妙にからんで,中小企業団体の催は大企業単独の販売促進活動とちがい,理くつですっきりと割り切れない事情の多いことがうかがわれた。見かけの華やかさにかかわらず苦労の多い仕事であるが,回を重ねるにつれて全国の主要な消費地に対する産地宣伝の効果は一応あげられたようである。その後産地商標の確立がそれぞれの業界の一体化した目標となったのも,中小企業の産地集団の市場の確保と開拓に費された多面的な努力の経過が,これを結論づけたものである。
 なおこの時期における商工行政は
,充分に体系づけられたものとはいえないが,金融・経営・税対策等において,意欲的な仕事が進められていたことを思いだす。中小企業相談所の開設,公開経営指導協会の発足,企業組合運動への協力等,これらに関連する記事が商工情報をにぎあわせている。小零細企業対策,伝統産業対策が中心的課題であった時期を反映したものでさる。

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 29年は経済局が産業局と観光局とに分割された年である。商工・農林・観光の三つの部門のうち,商工と農林が産業局に入ることになった。しかし産業局は商工課と農林課の二課のみで,産業局という看板を上げたものの,商工行政は従来通り商工課が担当するのであり,実質的には商工行政の充実にはつながらなかった。
 それでも
,看板の手前多少とも間□を拡げざるをえなかったし.それがまたその後の産業行政の充実への布石になったようである。商工情報の編集は商工課のなかに引き続き存続することになった調査係が担当している。そして29年以降の商工情報はそれ以前と可成り内容がちがってきたようである。
 経済局が産業局と観光局とに分れたのがきっかけになったわけでもあるまいが
,京都市の性格はなにか,京都市の経済をささえるものはなにか,が論議されたのもその頃である。「産業」か「観光」か,「産業」と「観光」は「車の両輪」,といった言葉が盛んに使われた。戦後,地方財政は逼迫しており,税源の培養が自治体首長にとって焦眉の急のように思われた。市民生活の経済的基盤という観点から,「産業」と「観光」とが同列におかれ,「車の両輪」視されることは,産業局としては甚だ不本意であり,「商業」の重要性を強調するとともに,産業政策への重点移行の必要性を訴えたものである。それには商工情報を産業局がもっていることが大そう役にたった。
 当時のわが国では
,最近のように地域経済論という学問が盛んではなかった。いな,全く未開拓の分野であった。各大学において国の経済政策には多彩な論客が存在したが,地域の経済や地方自治体の経済政策の講座は皆無であった。しかし,全国の各自治体は,理論的援護があるなしにかかわらず,財政上の理由から地域の経済を豊かにすることに関心を高めざるをえない状況におかれていた。公害・過密・地価・労働力不足等が最近のようにやかましくない時代であった。京都市においても例外ではなかった。産業局としては,安易な両輪論に抵抗して,市民所得への寄与率からみて,「産業」と「観光」との正しい位置づけを行なう必要性が痛感された。今から考えるといささか滑稽にみえるが,その頃は大まじめであった。製造工業・集散的卸売業の出荷額に比して,観光収入が鳴物入りの見かけとはちがって,格段の差のある事実を示し,「産業」の重要性を強調したものである。しはらくたって,「産業」と「観光」とを対立する概念としてとらえるのではな く,「観光」を広い意味の「産業」の一部として,即ち「観光産業」として位置づけるべきだという意見が出された。いずれにしても,人口百万をはるかに越える大都市の基盤が,奈良と同一視されることに果敢な抵抗を示した時期であった。
 昭和
30年頃に,京都市工場設置奨励条例という,今から考えると名称にいささか問題がありそうな条例が制定された。朝鮮戦争を契機として日本経済は復興期に入り,工場の新設・増設が活発化した。各都市は工場誘致条例を続々制定して大工場の誘致に躍気になり始めた。理由は都市の財政的基盤の強化と市民所得の上昇をねらいとしたことである。京都市は朝鮮戦争の影響を受けることおそく,大都市であるにかかわらず工場やビルの新設は皆無に近かった。従って市の財源の伸びは遅々とした状態であった。固定資産税の税源になるような工場を誘致してはどうか,との声がたえず上層部にあったのが条例制定の動機であった。ところが京都市において,工場誘致条例とならすに,工場設置奨励条例となったのには理由がある。京都市は数多くの中小工場をかかえている。他都市のように外来の大企業だけに条例を適用することは許されない。在来の既存工場と外来の工場とを平等に,場合によって在来工場を優先的にあつかうこと,適用の下限を投下固定資産3,000万円とし中企業に重点をおいたこと,小企業といえども集団化が一定の規模に達すれば適用すること,他都市のように補助金を出したり固定資産税の減免を行なうのではなく,固定資産税を限度として工場の周辺整備に協力すること,対象は京都市にふさわしい工場に重点をおくことなど,いくつかの特徴をもっている。この条例はその後名称を変え,もっぱら中小企業の集団化の促進に適用されるようになったが,当時においては都市計画の工業地域の形成に少からぬ効果を上げたとみている。また,金融・経営指導・組合づくりとは別な,新しい立地条件整備と工場地帯づくりという政策手段ができたわけである。条例の制定は地域の経済循環についての問題意識を高めるきっかけになったことは事実である。そして,中小企業対策を中核としながらも,多少次元の異った都市の産業政策がクローズ・アップされることになった。産業の立地条件とはなにかが問題にされ,都市計画・道路・貨物輸送・電力・ガス・通信・工業用水・労働力などが討議の対象になりはじめた。

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 条例制定を機会に,同志社大学の先生方数名を市の御池寮に招いて懇談したことがある。その席で,工場設置奨励条例と地域の経済循環とについてこちらの考え方を説明したところ,それはアウタルキーの思想であると批判された。これに対し,国内における「地域」の概念を説明し,大学では国の経済政策については研究され講義もされていようが,地方自治体の政策対象である地域経済の講義がないではないか,大学の先生はもっと地元の産業と経済とについて関心をもつべきである,と反論したことを覚えている。地域経済論花ざかりの昨今にそれほど遠くない30年頃のはなしである。 それから数日すぎて,先生方が来訪され京都の地元産業を研究する部屋を大学内に設置することに決定した旨伝えられた。その頃と現在とでは隔世の感があるがそれが機会となって,同志社大学の先生方と京都市経済局との接触が密となり,地元産業の調査に積極的な協力関係がうまれ,商工情報の内容は充実していった。また,地元産業に関する先生方のすぐれた業績が相次いで発表され,われわれの地元産業理解は大いに促進されることになった。それにひき続いて,立命館大学その他諸大学の先生方の地元産業に関する研究が次第に商工情報を充実させていったのである。染と織を中心とする伝統産業.機械金属工業,化学工業,下請の中小企業,卸・小売,商店街と商圏,産業立地,地域経済,等広い分野にわたって専門的研究が深められ,商工情報をにぎあわせたばかりではなく,単行の書物・パンフレットとなって,その成果は貴重なものとなっている。
 
299月第18号の「京都市における工業用水について」,307月の調査特集「京都市の工業と自然条件に関する調査」,312月第23号の「京都市の工業用水」は,京都大学工学部への委嘱によってえられた成果であるが,京都市におけるこの種の調査研究としては最初のものであり,後の京都市工業用水道計画立案の布石になっている。工業用水道計画はこの調査の後,数年間にわたって進められ,綿密な検討が続けられた。当時の調査にもとづく地下水の状態は,工業用水需要の増大が続く限りやがては不足することが予測され,業界ことに染色業界の強い要望もあって,工事計画が進められた。しかしこの計画は結局のところ実現しなかったのである。その理由は,当初の計画では桂川の伏流水を取水することになっていたが,マンガンと鉄分の含有量について染色業界の不安があり,疎(疏)水からの取水にきりかえることをやむなくされたのである。それも夷川からの取水と,ずっと下流からの取水が検討されたが,コストの点で見通しがつきにくい状態であった。ひとつの区画にまとまった大工場群への給水と異って,広い地域に分散して住居と混在している多数の中小工場への給水は,コストの点で需要者とのおれ合いかつきにくいものとなった。電気・ガス・上水道のように,小回りがきかず,おまけに24時間のべつまくなしの給水にならざるをえないため,中小企業の受入れ態勢に多くの問題があった。計画の推進は一応中断の形になったが,工業用水に対する認識が深められたことは事実である。京都市においては工業用水の需要は年々高まっているが,地下水は所によっては豊富であり,上水道も相当程度工業用に使用されていることは当時の調査においても明かとなっている。以来,業界から工業用水道建設の声はきかなくなったが,将来において,その必要性が高まれば.前記の商工情報に掲載されたいくつかの調査は貴重な資料として役立つものと思われる。

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 さて,さきにのべたように,30年代が進むにつれて実態調査にもとづく分析が各業種にわたって展開され,その成果が商工情報に逐一掲載されている。それらは単なる概観的なものではなく,生産構造・流通機構の各分野にわたっている。商工情報にのりにくいものは,別の冊子または部厚い単行本にまとめられ,なかには古本屋の店頭で高値のついたものも存在している。また京都産業の構造を適確にとらえるために,他産地,たとえば十日町・桐生・足利・八王子・福井その他の産地あるいは工業地帯の調査も行なわれ,京都の地元産業との対比に供されている。
 
30年代を通じて,同志社大学・立命館大学の先生方の京都産業に関する研究は着実に進められ,地元産業についての先生方の手近かな機関誌の観を呈したこともあった。いずれにせよ,商工情報は,経済局の調査情報活動に寄与しただけではなく,京都の各大学における地元の産業経済研究の推進にもひと役買ったことはたしかである。
 大学の先生方が調査を指導され
,あるいは協力されて,その成果をまとめられたのは,染織関係と機械金属関係に多い。さらに,伏見の酒造業や京焼・扇子・家具・建具その他多方面に及んでいる。また,さきにふれたように,商圏の分析,百貨店・商店街から30年の末には地域経済・産業立地の問題をもとり上げられるようになった。大学関係者の執筆のウェートは30年代を通じて大きくなっている。しかし,手不足なから経済局職員による執筆にも精力的な努力の跡がうかがえる。業界診断・産地診断・金融機関の紹介,その他市の政策の解説が相次いで見受けられる。後に伝統産業振興の一施策としてわが国では大きい特殊性をもつクラフト・センター誕生の前奏曲ともいうべき,クラフト連動やクラフト・デザイン展の記事,染色図案展,その他経済局の活動を反映する内容が誌面を満たしている。業界人の執筆も少くない。37年以降から求人活動の記事が目につくが,丁度その頃から労働力の需給関係が大きく逆転して,中小企業の求人難が深刻になり,京都市が雇用対策推進協議会をつくって,求人難の打開に骨を折ったのを思いだす。39年に東京の京都産業センターの記事がのっているが,これは展示場・事務所・宿泊所・駐車場の共同施設として,他の大都市からも注目を浴びたものである。37年の小規模事業金融公社の記事も設立にあたっての苦労を思いだす。商工情報のこれらの記事は,いずれも印象に残る当時の経済局の活動の記録である。
 
391月の55号に,「近畿経済の性格と発展方向−京都産業との関連」と題して,神戸大学の米花教授の論文がのっている。昭和378年頃から地域経済の問題,「近畿経済圏における京都市の位置づけ」がやかましくなりかけていた頃である。京都市が工場設置条例をつくって京都の地域経済を意識しだしてから78年経過している。当時「近畿経済圏」の問題について大阪方面から度々召集を受け出向いたことを思いだすが,いずれも発想が大阪中心であるため,疑問を感じることが多かった。なるほど,京都の経済は生産面では下請関係,流通面では大阪の問屋資本への依存関係,といったところが少からず存在するが,全体的に眺めると東京その他全国各地に関連をもっており,その意味ではかなり高い独自性を具えている。大阪中心の近畿経済圏発想では大阪が中核となり他府県はその衛星的立場におかれることになって,いささか抵抗を示したのはやむをえなかった。戦後大阪経済の地盤沈下をなんとか回復しようという念願はわからぬでもないが,召集を受けた府県はそれぞれ自分の問題をかかえていたわけである。京都においても「近畿経済圏における京都の位置づけ」論議が盛んであった。後には立ち消えになった「広域圏行政」のアドバルーンが上げられたのもその頃である。
 この問題については「伝統産業」と「近代産業」とは必ずしも立場を同じくはしていなかった。京都には中小企業の巾広い集団があり
,それも極めて多様な特異性をもっており,構造は複雑である。これは商工情報の調査結果によっても明かにされている。近畿経済圏との関係はあくまで見失うべきではないが,京都独自の主体的立場を再認識することの大切さが強調されるようになった。
 洛南工業地域の開発構想や
,用途地域の指定のみに終始することの多かった「都市計画」をより実現性の高いものにするため,例えば葛野地区区画整理に伴う保留地の工業化,山科地域の一部用途地域変更等は,そのような情況を背景にうちだされたのである。その頃,立地条件の調査活動もたびたび行なわれたことを記憶する。
 
38年の49号に,「わが国における中小企業集団化の動向について」という調査係の報告がのせられている。その頃から「協業化」という珍しい言葉がはやりだして,この「協業化」の一つのパターンとして,中小企業の集団化がクローズ・アップされた。洛南とくに久世地区には工場設置条例の適用を受けたいくつかの近代的な工場が出現していたが,この条例の集団化された中小企業の組織への適用によって生れたのが,久世工業団地である。大都市における団地の造成は,土地の問題が障碍になって,国の金融的な助成だけでは到底できるものではなかった。久世工業団地が可能になったのは,洛南開発構想に予め地元の協力がえられて,土地確保の見通しが先行したことが決定的に影響している。土地の斡旋から整地,団地内の共同施設への思いきった助成によってでき上ったものであり,のちに国の助成団地の指定を受けて金融的な援助がえられるようになった。すこしおくれて清水焼の団地が山科に市の単独助成でつくられることになった。これも,多年にわたって度々行なわれた京焼に関する調査分析の結果,産地としての清水焼が分離する場合,現在地と遠距離の場所は適当でないこと,五条バイパス計画が予知されていたことなどから,山科地区に目をつけ,難関はあったが山科の一区画の用途変更に成功したのである。これらが先行しなかったらば清水焼団地は生れなかったであろう。この三つの団地づくりには,京都市の建設局,水道,交通,それにガス・電気の各分野の多大の協力がえられたが,これも30年頃からの工業立地要素の研究と地道な協力態勢づくりが効果をあげたものとみている。
 このようにして
,着実な調査による適確な実態把握が先行して基本構想がたてられ,具体的な政策手段を動員して仕事を進めてゆくやり方は,かなりの分野において貫かれていたように思う。府県と異って法律にもとづく下請仕事が皆無に近い京都市の商工行政においては,現実を理論的に分析して,どの方向からアプローチし,どこに焦点を合せば政策がなりたつか,そのポイントをさぐりあてることが大切であった。京都市商工行政に何らかの創意工夫が生れるとすれば,それは日常の調査活動ないしは理論的なものの見方が前提されていた。それは「思いつき」とは無縁のものである。

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 ところで,30年代の終りの頃,国の総合的な開発計画に呼応して,全国の各府県・大都市では何らかの「計画」をたてることが流行した。「計画」というレッテルがはられていても,単なる構想やお粗末な作文にすぎないものも見受けられた。全国的に「計画」の氾濫した時期である。公害とインフレで今ではすっかり馬脚をあらわして影がうすくなったが,「未来学」というのが大手をふってのし歩いた時期でもあった。「未来学者」つまり「未来屋」という商売が大繁盛した時期である。「未来」が商品化されたわけである。京都の経営者の集りには,この「未来学者」が花形的存在であったのを思いだす。高度成長経済をばら色の未来に結びつけることが支配層のイディオロギーに迎合するゆえでもあった。いずれも50年さきの「ヴィジョン」については多弁であるが,構造的矛盾が拡大しつつある現実の数年先がどのようになるか,どのような手をうつべきかについては全く語ろうとはしなかった。 京都市においても例外ではない。「第二の平安京」という,えたいの知れないアドバルーンがうち上げられたのはその頃である。古都ブームにのった速成「未来屋」の入れ知恵と思われるが,「第二の平安京」建設が京都市の基本方針のように庁内をのし歩いたものである。奇妙なことに,計量経済学の手法が同時平行的にもてはやされ,市政がその実験台にされたのである。計量経済学は多くの仮設のうえになりたつ極端に抽象化された学問であるが,複雑な構造をもつ都市の経済に適用するには,無数の未知の変数を究明しなければならず,この学問はそれほど進歩はしていない筈である。がしかし,既存の統計数字を適当に組合せて電子計算機に投入すればたちどころに何らかの結果がえられるようなことになって,おおよそ市民のくらしと関係のなさそうなたくさんな数字が印刷されることになった。これらの数字は「第二の平安京」とどのような関係をもつのかはわからずじまいであったが,数字を手当り次第にならべれば点数がかせげるという妄想がび漫した時期である。統計数字そのものの吟味,計量経済学の地域経済特に京都経済への適用における多くの前提条件と限界,それらが全く理解されていない混乱の時代であり,「第二の平安京」ヴィジョンと合せて,京都市が手のつけられない精神分裂症にかかった時代であった。
 さてわれわれは
,高度成長経済の過程を通じて乱造された総合的な「計画」には多くの疑問を感じていた。資本主義社会における総合「計画」には限界があることは当然であるが,その結果がどのようなものであれ,正確な現状分析が出発点とならねばならぬことは当然である。現状分析のうえにたった正しい認識と,現状に作用する経済諸力をみきわめて望ましい方向に誘導する政策手段の体系,それらが総合されて一応「計画」の体裁がととのうものである。商工情報はそれらのいずれもが欠落する,役人の点数かせぎ的な「計画」には抵抗の姿勢をとったことは当然である。またそれが,身の程を考えた謙虚さでもあった。商工情報は現状の分析と情報伝達の機関であって,アドバルーンを上げることはしなかったのである。
 
30年末から40年にかけて,情報産業・脱工業化という言葉が京都にもはやりだした。工場生産を重視する考えは古い,というわけである。ファション産業という言葉も輸入されて,何か新しい産業が発生したような印象を与えた。デザイン機能・組織機能・販売機能を掌握している西陣の親機が内機を少くして丹後地方の出機を多くすれば「脱工業化」であり,問屋資本化による「情報産業」化とみられなくはない。ベンチャー・ビジネスと呼ばれるものの中味もわが国の資本主義社会では新しいものとはいえない。京都市の金融政策はそのようなものをも対象にして戦後少からず寄与しているわけである。高度成長経済は恐ろしく製品の多様化をもたらしたが,製品が物の形をしている限り,どこかで人間の汗の労働力によってつくられているわけである。いずれにせよ,商工情報が多年にわたって続けている各分野の生産構造分析の累積は,京都市における産業の実体をつかむうえにおいて欠くことのできない基礎資料を提供するものである。
 現在の日本の経済は大へん流動的である。
20年代,30年代,40年代,とその様相を大きく変化させている。構造的矛盾が極限に近づきつつあるといわれるなかで,比較的安定した成長をとげてきた京都の産業は,どのような影響を受けてゆくか,その解明は商工情報に課せられた一つの課題であろう。
 とりとめもない思い出話をのべたが
,商工情報の編集にあたられた職員の方々に深い敬意を表するとともに,当局者がその役割と意義について認識を新たにされ,内容の充実をはかりうる条件を整備されることが望ましい。これが100号記念にあたっての筆者の切なる願いである。マンネリに陥ることなく何らかの「革新」を追究するためにも必要なことではないか。

 

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