シルバー・ストリーク

――悪くない人生だった。

 と振り返るには30年に満たない時間は短すぎるのかもしれない。
 バーボンのグラスを舐めて草薙は自嘲するように笑った。アルコールに焼かれた喉からかすれた息が漏れる。

『草薙さん、年寄りくさいよ』

 あきれたような十束の声が聞こえた気がした。我ながら晩年を迎えた老人のような枯れた笑いだと思った。壁に貼ったコルクボードからこっちを見て、十束がおかしそうに笑っている。

――うるさいわ。余計なお世話や。誰の所為やと思っとんねん。

 胸の内で毒づく草薙に答える声はない。写真の十束はやっぱり笑っていて、尊は知ったことかと我関せずだ。
 若い草薙も笑っている。写真の中の草薙は、ひとり遺されることも、こんな風に人生を振り返ることもまだ知らない。
 コルクボードに貼られている写真は、草薙がこれまで生きてきた年月の半分にも満たない時間を切り取ったものに過ぎない。だが、草薙が人生を振り返るとき、そのほとんどはここ十年弱に集約される。

――アホやったなぁ。

 尊と十束の3人で馬鹿をやっていた高校時代のことを思い出すと、思わず遠い目をして苦笑が漏れる。ぜんぶ掻き集めて穴に詰め込んで消し炭にしてしまいたい過去ではあるが、灰すら残さず燃やし尽くしてしまいたいとは思わない。

――悪なかった。なんもかんも。

 楽しかった。
 馬鹿みたいに過ごしたすべての時間が。楽しかったのだ。あとは余生と思えるほど、濃い時間だった。
 尊と十束はどうだったのだろうか。ふたりが人生を振り返ることはあったのか。ふたりは最後に何を思ったのだろうか。
 悪くなかった。
 そう思って逝ったのだろうか――

 こうなることはわかっていた気がする。
 いつからか、自分が見送る側であるということは自覚していた。あの夢を見るようになったのと同じ頃だったかもしれない。ひとり遺される恐怖に脅える夜を重ね、いつしか覚悟を決めていた。諦めのようなものだったのかもしれない。あまりにも刹那的に生きるふたりと一緒にいると、自然とそうならざるを得なかった。草薙自身が望んだわけではない。そういう役回りだっただけだ。

『草薙さんって貧乏くじを引くタイプだよね』

 十束に言われるまでもなく自分でもよく分かっている。だが、それを嫌だと思ったことはない。
 仲間たちを送り出し、迎えるのがマスターである草薙の役目だ。
 バーHOMRAここは還る場所。
 そして、迎えるべき≪王≫を失った――

「あら、いるんじゃない」

 ドア・ベルの音と共に入ってきた声が沈黙を破った。

「隠居したご老人みたいな溜息をついて、老け込むわよ」
「世理ちゃん……一応、休業中なんやけど……」

 出勤前なのか、髪を下ろし私服姿の淡島が、草薙の声を無視して店内に入ってくる。学園島事件の後しばらくは事情聴取や後処理で顔を合わせていたが、淡島に会うのは久し振りだった。

「まったくいつになったら営業再開してくれるのかしら、この店は。試したいレシピがたまっているのよ、どうしてくれるの?」
「まぁその内に……な」

 はぐらかす口振りに溜息をつき、淡島は態度を改めた。凛としたセプター4副長の声になる。

「まぁいいわ。今日は半分仕事で来たの。櫛名アンナの行方は?」
「さぁ……」

 草薙はうそぶく素振りで細く紫煙を吐いた。白い筋がゆらゆらと立ち上り、やがて霧散する。
 品定めをするように草薙を見据えていた淡島が、カウンターの上に置いてあった赤い封筒を一瞥し、肩を竦めた。

「わかりました。知らない、ということにしておきます。今日のところは」
「今日はまたお手柔らかやな」

 拍子抜けする草薙に、緊張を解いた淡島が数歩の距離を近付き、手にしていた紙袋を差し出した。

「仕事は半分って言ったでしょ。はい、これ。口に合うかはわからないけれど。今日、誕生日だったわよね? おめでとう」

 受け取った紙袋はずしりと重たい。恐る恐る中を覗くと、包装紙に包まれた箱が入っている。草薙は、錆び付いた機械のような動作で顔を上げた。

「……おおきに。もしかせんでも中身は……」
「最高の品を用意したつもりだけど」
「おおきに……うれしいわぁ……」

 草薙は、半ば涙目になりながら紙袋から箱を取り出した。丁寧に包装紙を剥ぐと、高級感あふれる桐箱が現れた。中からおどろおどろしい気を発しているような、圧倒される佇まいだ。
 意を決して蓋を開けると、予想通り「つぶあん」「こしあん」と書かれた箱が1本ずつ。それと、二つ折りにされた小さなメッセージカードが入っていた。
 カードを開き、草薙は目を見張った。

「気に入って貰えたかしら?」
「……俺の大好物や」
「前にも言ったと思うけど、私はあなたのバーテンダーとしての実力は認めているのよ。好みのカクテルを出してくれるところが少なくて困っているの。さっさとけりと付けて営業を再開してちょうだい」
「ああ……せやな。お礼に一杯飲んでいって」
「いただくわ」

 カウンターの上でタンマツのディスプレイが白く光った。画面を覗いて、草薙は口元に小さく笑みを乗せた。待ち望んでいた情報がようやく手に入った。
 まだやらなければならないことが残されている。余生を送るには少し早いようだ。