シルバー・ストリーク

 バーの重たい扉を片手でやすやすと押して入ってきた淡島の姿に、店にいた男たちが色めき、視線を送る。久々に訪れた店だった。近頃は足が遠のいていたが、過去に一、二度来たことがある。セプター4に入る前のことだ。
 男たちの視線を歯牙にも掛けず、空いた席を探して店内を見回していると、カウンター席の一番奥に見知った顔を見つけて、彼女にしては珍しく判りやすく驚きを顔に表した。
 彼の姿がここにあってもおかしくはない。おかしくはないし、ここにいてはいけないということはないのだが、淡島は違和感を覚えた。この場所――つまりは別の店に男の姿があるということに。
 淡島はハイヒールの先をカウンターの方へ向けた。ヒールが板張りの床を叩く硬い音を整然と響かせ、男たちの秋波を割っていく。

「あなたの店はここじゃなかったと思ったのだけれど、わたしは場所を間違えたのかしら」
「――ああ。世理ちゃんか」

 口元から煙草を外して顔を上げた男――草薙が紫色に透けたサングラスの奥で目を細めた。

「……こんなこところで何をやっているの」
「何って……相手してくれる美女もおらんし、こうして一人寂しく酒を飲んでたところや」

 草薙が持ち上げたグラスの中で黄褐色の液体が波打ち、氷の塊がカランと音を立てた。
 淡島はわずかに片眉を上げた。ここは酒を楽しむ場所なのだから、草薙の返答はもっともだ。だが、淡島が訊いたのはそういうことではなかった。
 草薙とて自分の店以外で飲みたいときもあるだろう。どこで飲もうが草薙の自由だし、誰と一緒だろうが淡島の知ったことではない。淡島にとって問題だったのは、今日この時間に草薙がここにいる、ということだった。

「世理ちゃんは、今日は非番やったんか?」

 草薙が空いていた右隣の椅子を引いた。それに腰掛けながら、淡島は頬をヒクリと引きつらせた。

「ええ、そうよ。午前中に部屋の掃除と洗濯を済ませてトレーニングを終えた後、午後からは冬物をクリーニングに出してから買い物を済ませて、最後にあなたの店に行ったら閉まっていたのだけれど」

 予定を狂わされた不満を込めて横目で見れば、草薙は弱った風に顔を掻いた。

「それはすまんかったなぁ……」
「確か今日は定休日じゃなかったと思ったのだけれど、わたしの記憶違いだったかしら?」
「いいえ間違ってません、世理ちゃんが正しいです。今日は臨時休業というか、俺も予定外やったというか……」

 言い渋っていた草薙だったが、観念したように息をつき、きまりが悪そうな顔で切り出した。

「実は……店を追い出されてもーてな」
「店を追い出された? マスターのあなたが?」
「そう、オーナーの俺が、や」

 淡島は呆れたように溜息をついた。

「……あなたたちはまた何かくだらない遊びをやっているの?」
「いや、なんちゅうか……サプライズ的な?」
「サプライズ? 仕掛けられる本人が知っていたらそれはサプライズにはならないじゃない」
「まぁそれはそうなんやけどな」

 草薙が困ったように苦笑する。
 そういえば、と淡島は出掛けに伏見と会ったことを思い出していた。コンビニにでも行ってきたのかビニール袋を下げた伏見は、淡島を見て何かを言うべきどうか迷っているような素振りをした。自分の服装を見下ろして、どこかおかしな格好でもしているだろうか、と淡島が思っていると、

『……止めた方がいいですよ。たぶん今日は行っても無駄だから……』

 そう言って伏見は寮に入って行った。その時は伏見が言わんとすることが解らなかったのだが、

「ああ……そういうことだったのね」

 隣でどこか所在なげにしている草薙の様子を見て、ようやく合点がいった。伏見は今日、バーHOMRAが臨時休業することを知っていたのだ。

「それで、本日の主役さんはここで時間を潰していた、というわけね。でも、それにしてはなんだか浮かない顔ね」
「いやぁ……自分がするのはええんやけど、される側になるのがどうも据わりが悪いというか……なんや種がバレバレの手品を見せられてるような気分になるんや」
「そういうものかしら?」

 淡島は小首を傾げた。

「それにしても吠舞羅ではいつもそういうことをやっているの?」
「いつもというか……始めたのは十束なんやけど、いつの間にか恒例行事みたいになっとって……あっ、その目は「暇ね」って思ってるやろ?」

 グラスを持った手の人差し指が淡島の目を示す。形良く整えられた右の眉が器用に上がるのを見て、草薙は小さく笑った。

「そりゃあ、お忙しいセプター4の皆さんからしたら暇なんやろうけどな。うちはお祭り騒ぎが好きな連中が多いから……って今「ガキね」って思ったやろ?」

 淡島は肯定も否定もせずに肩をすくめて見せた。

「つまり私は、誕生日パーティーの準備のために自分の店を追い出されたバーのマスターの暇潰しに付き合わされているわけね」
「まぁそう言わんと付き合ってや。奢らせてもらうから」
「そういうわけにはいかないわ。マスター」

 淡島が軽く手を上げて声を掛けると、口髭を蓄えた壮年のバーテンダーは心得たように頷いた。ドライ・ジンとイエーガーマイスターを軽やかにシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。

「あら……」

 淡島が小さく声を漏らした。
 草薙の前に赤褐色のカクテルが置かれた。シルバー・ストリークというカクテルだ。

「偶然にしては出来すぎね」

 淡島の呟きを聞きながら、草薙は口元をほころばせた。

「事前に知っていれば、もっとスペシャルなカクテルを用意したのだけれど」
「いやいや。光栄ですよ、マドモアゼル」

 一口含むと、ハーブの香りが広がり、強いアルコールが喉を熱くする。

「ちなみにどんなカクテルを?」
「もちろん、最高級の小豆を使ったあんこをトッピングして――そうねぇ……シルバー・ストリークにこしあんをプラスするのはいかがかしら? それとも、つぶあんの方が好みだったかしら? きんつばをトッピングするのもいいわね」
「あぁ…やっぱり……」

 口の中に広がった甘さを打ち消すように、草薙はグラスを口に運んだ。