チョコレート狂詩曲 前編

 街はピンクやハートのディスプレイであふれかえり、近所のコンビニにもなんとなく入り辛いこの時期。
 帰宅したは、自宅前で佇む制服姿の見知らぬ女生徒に気づいた。手には、綺麗にラッピングされた小さな箱。
 そんな今日は、2月14日。バレンタインデー。


 そわそわと落ち着かない様子で足元を見つめていたその子は、が近づく足音に気づき、弾かれたように顔を上げた。見慣れたブレザーにスカートの、氷帝の制服を着ていた。

「あ、あの…」

 の胸元に、大切そうに抱えていた包みが差し出される。その後は、言葉にならなかった。小箱を持つ手が小刻みに震えている。
 バレンタインデーといえば、子供のころは、と慈郎の母親が、たち幼馴染5人に、手作りのチョコレートケーキをプレゼントしてくれた。
 そんなバレンタインの様子が一変したのは、2年前のことだ。弟たちが中等部に進学し、景吾が大量のチョコを貰うのは当然の成り行きとして、テニス部に入ったことで、慈郎や亮までもが抱えきれないほどのチョコを貰って帰ってくるようになったのだ。もそれなりに貰ったことがないわけではないが、あの数は尋常じゃない。どこかのアイドルさながらだ。普通に食べきれる量ではなく、芥川母の手によってケーキのほか様々なチョコレート菓子にアレンジされたり、カレーの隠し味に利用されるようになった。
 亮が持ち帰ってくるチョコの中には、大会や対外試合を見たのか、他校生からのものも多い。亮のファンが家までチョコを持ってきたり、ポストに入れて帰ったということは、今までにもあったことだ。
 だからは、氷帝の制服を着たその子のことを亮のファンだと思い、に向かって差し出されたそれを、亮に渡しておいてくれという意味に解釈した。緊張しながら亮の帰りを待っていたところに、予定外に家の人間が帰ってきてしまい、驚いて咄嗟に出た行動だろうと推察したわけだ。としては、このシチュエーションでの至極自然な判断で包みを受け取ったのだった。

 それから小一時間ほどして、両手に紙袋を抱えた亮が帰ってきた。袋の口から色鮮やかな包みの箱が覗いている。
 一応言付かったからにはそのまま放っておくわけにもいかず、律儀にもコンビニで買ってきた雑誌に目を通しながらリビングで亮の帰りを待っていたは、テーブルに置いておいた箱を顎で示した。

「それ、預かった」
「誰から?」
「さあ。氷帝の子だったぜ。家の前で待ってた」
「ふーん」

 亮は、手馴れた仕草でリボンの間に挟まれたカードを開き、差出人を確かめている。

「なぁ兄貴。違うぜ、コレ」
「なにが?」
「コレ、兄貴宛」

 亮が、開いたままのカードを箱の上に乗せて、の目の前に突き出した。

「はぁ? 氷帝の制服着てたんだぞ。なんで氷帝の子が俺にチョコを渡すんだよ!?」
「俺が知るかよ。でも、ちゃんと兄貴の名前が書いてあるだろーが」

 見れば確かに、宛名には「宍戸 様」書かれている。

「大会を観に行ったときにでも見かけたんじゃないの?」
「あっ、そう書いてある」

 横から口を挟んだのは、いつの間に現れたのかお隣のだ。一緒に来たらしい弟の慈郎が、の肩越しにカードを覗き込んでいる。

「どれどれ…関東大会で跡部さんたちとお話されているのをお見かけしました。宍戸さんのお兄さんだとわかり――」
「って、おまえら! 他人の手紙を勝手に読むな!!」
「スッゲー! 兄ちゃんモテモテだC〜♪」

 カードを遠ざけようとすると、なおも続きを読もうとするたちは、ソファーの上で揉みくちゃになりながら一騒動を繰り広げた。


「ふーん。で、相手は?」

 翌日、景吾の前の席を陣取り椅子に逆さ座りをした亮は、昨日の顛末を話して聞かせた。

「2年らしいんだけどさ。 って子。長太郎にでも聞いてみっかな」

 亮から差出人の名前を聞かされた景吾は、顎に手を当て、思い出すような素振りを見せた。景吾の膝に頭を乗せていた慈郎がそれに気づき、顔を見上げた。

「景ちゃん知ってんの?」
「ああ…生徒会に居たな」
「マジかよっ! で、どんな子だ!?」

 音を立てて机に手を突いた亮は、勢い込んで詰め寄った。何事かと、クラスメートの視線が集まる。

「そうだな…」

 物静か。生徒会に属する生徒の顔と名前は全員記憶しているが、特に強く印象に残っていることはなかった。
  は、2年の役員として生徒会に所属していた。改めてその仕事ぶりを見てみると、さり気なく、テキパキと動いている。そつなくこなしているとは思っていたが、それ以上に無駄がない。

「あの、なにか…」

 景吾の視線に気づき、彼女が戸惑った様子でこちらを見ていた。

「いや、なんでもない」

 小さく会釈をして背を向けた彼女をまた視線で追っていた。どうも今日は、彼女が気になってしまう。
 景吾が兄のように慕うに、今までもこういった話がなかったわけではない。以前には彼女がいたことも知っている。年齢から考えれば当たり前のことだ。
 彼女は、景吾の目から見てもに相応しく映った。

「なのに、なんか気になるって?」

 芥川家に立ち寄った景吾は、不貞腐れたような顔で慈郎の部屋の住人である羊のぬいぐるみを抱えていた。幼馴染の前以外では見せない、幼い表情だ。

「それって、兄ぃをとられちゃうっていう焼餅なんじゃないの?」

 確かに、前にが女連れで歩いているところに偶然出会したときも、あまりいい気はしなかった。だがそれは、その女のビジュアルが好みではなかったからだと思っていた。
 今回は、相手が知った人間だから気になっているのだろうか。

「ジローはどうなんだ? 兄さんの彼女のことどう思う?」

 には、中学のころから付き合っている彼女がいる。何度か家に連れてきたこともあって、慈郎とも顔見知りだ。

「ん〜俺はなんとも思わないなぁ」
「普通、兄弟ってそういうものか?」
「どうだろ? 兄弟にもよると思うけど。でも、亮ちゃんはそんな風には思わないかもね」

 景吾には、亮のように興味津々にも、慈郎のように無関心でもいられない。

「そういえばさ、前に兄ちゃんが、兄ちゃんが『わたしと弟とどっちが大事なのよっ!』って言われて別れたことがあるって言ってた」
「それ、マジかよ…?」
「うん。あっ、でも、俺も兄ちゃんをとられちゃうのはヤダC〜」

 ビーズクッションに体を沈めて手足をバタバタさせている慈郎を他所に、景吾は胸になにか晴れないものを抱えていた。