弟よ! 2

「おい、。起きろよ」
「あー…? こんな朝っぱらから、何事? 事と次第によったら、いくら親友といえども許さねぇぞ…」

 店のカウンターで突っ伏してるこいつ、芥川クリーニングの長男・。弟の慈郎ほどじゃないが、睡眠をこよなく愛す男。将来家業を継ぐべく修行中。これでも店番の真っ最中だ。
 何度も声を掛けてようやく上がった顔は、寝起きでぼんやりとしている。が、瞳だけ殺気を帯びているのが怖い。こいつは、普段は至って温厚な奴なのだが、眠りを妨げられることを何よりも嫌い、時に人格が豹変する。ちなみに、起こされて目を覚ますだけ大分マシで、これが弟の慈郎になると、店番中であろうと爆睡し、客に声を掛けられようが地震が起きようが決して目覚めない。(従って、店番の役割は果たしていない)
 付き合いの長い俺は、寝起きの にも慣れたもの。簡潔に、事と次第を告げるのだった。

「ちょっと付き合えよ」


「ウチの学校はいんの?」
「バーカ。古豪の六角ならともかく、公立校が関東まで残ってるわけねぇだろうが。今年は地区予選で敗退だよ」

 を連れ出すことに成功して(前もっておばさん(と慈郎の母さんだ)の許可はもらってあった)、俺たちはテニスコートに来ていた。

「だよなー。あ〜あ、俺たちの代は都大会でいいとこまでいったもんですけどねぇ。おっ、この不動峰っての、市立じゃねぇ?」
「えっ、マジかよ?」

 擦れ違うのは、カラフルなユニフォーム姿の中学生ばかり。アリーナテニスコート。今日はここで、関東大会が行われる。
 会場の入り口付近に掲げられたトーナメント表を見上げて、出場校を確認する。俺たちの時は、あと一歩でここに来ることは叶わなかった。それでも、無名の公立校としては快挙と称えられる成績ではあったのだけれど。
 亮たち氷帝学園の緒戦の相手は、青春学園。この組み合わせには驚いた。氷帝は言わずもがな関東の常連校だが、対する青学も名の知れた強豪だ。その両校が緒戦から当たるとは。なぜ東京同士でと思ったが、すぐにコンソレーションだと思い至る。自分たちが中学時代に、そのコンソレーションで敗れて関東を逃していたから。亮が髪を切る切っ掛けとなったのが、その試合だったのだろう。都大会のトーナメントで敗退した氷帝がコンソレーションに回って関東出場を決めた結果、両校が対戦することになったのだ。
 試合まではもう少し時間があった。試合が行われるコートを確認して、そちらへ移動する。

「珍しいじゃん。おまえが亮の試合を観に来るなんてさ」
「珍しいもなにも、初めてだよ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」

 隣を歩くは、まだ寝足りないのか欠伸をしながら曖昧な返事をする。

「慈郎は? ちゃんと起きて行ったのか?」
「今朝、景吾が迎えに来てたみたいだから、また寝たまま車に押し込まれてったんじゃねぇの」
「まったく。しょうがねぇなぁ、あいつは」

 幼稚舎の頃から繰り返された光景が今も続いていることに、苦笑混じりの溜息が出る。

「試合になれば起きるから、いいんじゃない」
「ホントに似た者兄弟だな、おまえらは」

 慈郎と同じ色の瞳を眇めて笑っているも、試合になると試合前と人が変わると、密かに恐れられていたものだ。

「で、どういう心境の変化なわけ?」
「べっつに。ちょっと観てやろうかって気になっただけ」
「ふうん。亮さ、あの髪ちょっと驚いた」
「よっぽど悔しかったんじゃねぇの?」
「そっちも、充分似た者兄弟だと思うけど」

 のんびりと歩いていくと、目的地に近づくにつれ女の姿が多くなっていった。黄色い声に取り囲まれた異様に周囲の注目を集めている一団。その中心に一際目を引く見知った顔。

「相変わらず」
「目立つな」
「探す手間が省けるけど」

 そう言ってが苦笑する。すると、俺たちの視線に気づいたのか、景吾が小さく手を挙げてこちらへ近づいてきた。

「来てくれたんだ」
「まぁな。おまえら、悪目立ちしてるぞ」
「いつものことだよ」

 景吾は、慣れているという風に口元で笑った。その後ろに控えるジャージの群れに視線を遣るが、その中に亮の姿は見当たらない。

「亮なら今、ウォーミングアップに走りに行ってる」

 この間会った長身の鳳君の姿も見えないから、恐らく二人で行ったのだろう。

「跡部、知り合いか?」

 声を掛けてきたのは、景吾の傍らに居た長身の眼鏡。今時珍しい丸眼鏡。独特のイントネーションから、コイツが関西から転校してきたオシ…何とかという天才だろう。髪を切ってレギュラー復帰後ダブルスに転向したらしい亮は、以来D1のオシ何とかペアを倒すと毎日息巻いていた。

「あっ、お兄さん!」
「誰がお兄さんだよ!」

 背後から覚えのある爽やかな声が聞こえて振り返ると、ランニングから戻って来た鳳君が亮にど突かれていた。

「なんで居んだよ!?」

 不機嫌そうな亮の後ろで、長身を屈めて鳳クンが会釈をしている。

「宍戸の知り合いなん?」
「宍戸の兄さんだよ。それと慈郎の兄さんだ。慈郎は…どこだ?」
「大方どっかで寝てるんだろうな〜」

 の言葉に、景吾が溜息を吐く。

「もう直ぐ試合が始まるってのに。おい、誰か探しに行け」
「まぁ、まだええやん。S2のジローまではまだ時間あるし。それに、その前に決めたらそのまま寝とっても構へんのやし」
「おまえな…」

 丸眼鏡の奥で不敵に笑う天才君に呆れた表情を向けた景吾も、満更ではないようだ。

「自信ありそうじゃん、おまえら」
「当然だろ」

 揃って向けられた奴等の瞳は、自信に溢れていた。


 氷帝は負けた。補欠戦まで戦った結果だ。緒戦での敗退は、即ち全国への出場権は得られない。亮たちの夏はここで終わった。
 その夜、家に帰ってきた亮は、悔しそうにはしていたが、引き摺っている様子はなかった。自分たちの勝利も一歩間違えば危なかったと、また明日から長太郎と特訓だと意気込みを新たにしていた。付き合わされる鳳君には同情を禁じえない。

「おまえらはもう引退じゃないのかよ」
「あーそっか。跡部ん家のコートでも借りっかな」

 引退=テニスを辞めるという考えは、亮の頭の中には存在しないらしい。

「そうだ! 兄貴も久々にやらねぇ? 兄ちゃんも誘ってさ」

 寝転がっていたソファーから勢いよく上体を起こしてはしゃぐ亮は、今年の夏休みは跡部家の別荘でテニス三昧だなんて計画を立てている。
 けれど、それはもう少しお預けになった。氷帝の開催地枠での全国大会出場の報が届くのは、1月後。
 近場だからという理由で、またを誘って観戦に行くのもいい。亮たちが全国から帰ってくるまでの間に、俺も少しラケットを握っておくかな。