弟よ!
「おまえ、なんだその頭!?」
夏本番にはまだ早いというのに今からこんなに暑くてどうするんだ、と言いたくなるような7月下旬のある日のことだ。我が家の夕食の時間まではまだ少し。小腹を空かせて棒アイスを齧っていた俺は、見事にそれを落とした。それはもう、「ポロリ」という表現が相応しい様だった。
この場合、行儀悪く手を使わずに口で咥えていた俺が悪いのか。それを失念して口を開けた俺が悪いというのか。いや、そんなことはない。断じてない。間抜けにも口をあんぐりと開けたままだった俺は、なんとか冒頭の台詞を口にした。
「母さん、髪切りに行く金くれよ」
キッチンで夕飯の仕度に忙しかった母親も、味噌汁を掻き混ぜていたお玉を持ったまま唖然としている。たった今帰ったばかりだというのに、母の財布から渡された札を握り締めて再び出て行くその背に、見慣れた黒く揺れるものはない。俺は、リビングを出て行く背中を見送った視線を足下に移し、虚しく床を見つめる。落下したアイスが溶け始めていた。無残にも崩れ去った俺のソーダクリームをどうしてくれる。
この季節に相応しくない鬱陶しい長髪は姿を消し、弟は、真夏にぴったりの短髪になっていた。
2歳年下の弟・亮が、奴には不似合いな湿気た面で帰ってきたのは1週間前のことだ。確かその日は、奴が入れ込んでいるテニスの大会があったはずだ。いつも試合の後は興奮気味にゲーム内容を語って聞かせるから、この日は「あぁ負けたんだな」と思った。
俺は小中高と地元の公立校に通っているが、亮は幼稚舎から氷帝学園という私立のお坊ちゃま学校に通っている。家は両親共に教師の中流家庭だし、亮はとてもじゃないがそんな名門校に通うようなお上品なガキじゃない。それなのになぜかというと、母親の学生時代からの親友に亮と同い年の息子がいて、そいつが氷帝に通っていたからだ。もう一人、お隣さんの芥川クリーニングの息子の慈郎を加えた3人は、母親同士が大の仲良しで同い年という幼馴染で、3人仲良く氷帝に通っている。ちなみに、慈郎の兄貴で芥川クリーニングの跡取り息子のは俺と同い年で、小中高一緒の幼馴染で親友だ。
幼馴染3人組は、ガキの頃から跡部家が経営するスクールでテニスをしていた。俺も一応、中学まではテニス部だったんだけどな。俺は高校に入って辞めちまったけど、亮も景吾も、派手な見て呉れに反してテニスに関しては真面目で真剣だった。
負けて帰って来た翌日から、亮の帰宅は遅くなった。元々、厳しいことで知られる氷帝テニス部だ。コートはナイター設備完備。大会前ということで、夏休み中でも連日遅くまで練習をしていた。それが更に遅くなった。
「ねえ。亮、帰ってくるの遅くない?」
すっかり夕食の仕度を終えた母さんが、リビングでテレビのチャンネルを弄っていた俺に聞く。家は放任主義で、普段は俺たち息子のことに必要以上に干渉してくることはないのだが、流石にこう毎日だと心配になったようだ。母さんは、大雑把でさっぱりとした男っぽい性格で、かなり豪快な人だから、これは珍しいことだ。(ちなみに、亮は顔も性格も母親似だ)
「あいつだってもうガキじゃないんだし、ほっときゃそのうち帰ってくるだろ」
「でも、ここのところ毎日でしょ? それに、毎日新しい傷を作って帰ってくるし」
そうなのだ。亮は、毎日のように身体のどこかしらに新たな傷を作って帰って来ていた。昔から生傷の多い奴ではあったが、どこで何をやったんだというくらいに、顔も腕も脚も、全身傷だらけだ。
「
、ちょっとその辺を見て来てよ」
「なんで俺が」
「どうせ暇人してるんでしょ」
確かに、夏休みまで毎日部活に勤しむ弟と比べれば俺は暇人かもしれないが。
「ほら、さっさと行く。亮が帰って来ないと夕飯食べさせないよ!」
「へいへい、わかりましたよ」
見たい番組もなかったし、このままでは夕食にありつけない。仕方なく、重い腰を上げて玄関へと向かった。
だが、幸いにも弟を探し回る必要はなかった。
「あっ」
「ん?」
玄関を出て門に手を掛けたところで、家の前の道から声がした。顔を向けると、長身に夜目にも映える銀髪があった。見慣れた氷帝学園の制服に、ラケットバックが二つ。背に担がれている姿を確認して、その内の一つが亮のものだとわかった。
「あ、あの…」
「そいつ、連れて帰ってくれたのか」
「はいっ! 宍戸さん、特訓の途中で倒れちゃって…。あっ! 俺、宍戸さんの後輩で鳳長太郎と言います。2年です」
長身の後輩・鳳君は、亮を背負ったまま律儀に挨拶をしてくれた。
「宍戸さんにはテニス部でお世話になっています。あの、宍戸さんのお兄さんですか…?」
「まあね。で? こいつ、特訓してたの?」
「はい…。俺と宍戸さん、ここのところ毎日二人で特訓していて。俺はお手伝いしてただけなんですけど。宍戸さん、すごく無茶してて。何度も止めたんですけど、今日はとうとう倒れてしまって……」
「ふーん。特訓ねぇ」
それであの傷だったわけだ。先週末に塞ぎ込んで帰ってきたことと考え合わせて、ようやくこのところの亮の行動に合点がいった。
「そいつもらうよ。わざわざ悪かったな」
「いえ。それでは、失礼します」
いくら体格がよくても、男一人と二人分のラケットバックを抱えてここまで来るのはさぞかし大変だっただろう。そんな素振りは微塵も見せずに、見るからに育ちの良さそうな後輩君は、丁寧に頭を下げて去って行こうとした。
「あっ、そうだ。鳳君、下の名前チョータローだっけ?」
「はい、そうですが?」
「最近家で良く聞く名前だったからさ」
鳳君は、素直に驚いた表情を浮かべた。
「こいつ、あんまり人に懐かないだろ?」
困った顔で苦笑して、遠慮がちに小さく頷く。
「だから珍しいなと思ってたんだ。融通の利かない奴だけど、これからもよろしくな」
「はい!」
鳳君は、もう一度礼儀正しくお辞儀をして、爽やかな笑顔を残して帰って行った。どう見てもお坊ちゃまなのに、なんで亮みたいな粗野で乱暴な奴に懐いたんだろうな。不思議に思っていると、庭から「ワン!」と声がした。亮が帰ってきたことに気づいて出迎えに来たのだ。こいつは亮が連れて帰ってきたやつだから、亮に一番懐いている。亮の脚に戯れつく犬を見ながら、ふと思い至った。鳳君は、どことなく家の犬に似ているかもしれない。
「ん…」
「おっ、起きたか」
リビングまで運んでソファーに寝かせていた亮が、ようやく目を覚ました。
「あれっ…ここ、家?」
「忠犬が担いできてくれたんだよ」
「長太郎? …イテテテテ」
上体を起こした亮が、途端に顔を顰めた。無理もない。また痣が増えていた。
「また派手にやったな。風呂、傷に沁みないように温めにしてあるから、入ってこいよ」
「…何も聞かないのかよ」
「母さんは心配してるけどな。どうせ納得できるまで止めないんだろ? 傷の手当てだけはちゃんとやっとけよ。さっさと風呂入って飯食え」
「…サンキュ、兄貴」
その翌日。前夜に続きこの日も、家の前に人影を見つけた。家と右隣の芥川クリーニングの中間辺りに佇んでいたその人物は、俺が出てきたことに気づくと小さく会釈をした。近くに黒塗りの車は見えないから、珍しく一人で歩いてきたようだ。景吾だった。
景吾のことだ、亮が特訓していることは当然知っていたのだろう。けれど、相手のことをよく理解しているからこそ、見ていることしかできないこともある。特に、景吾と亮は、意地っ張りで負けず嫌いなところがそっくりな似た者同士だ。亮の心を察して、知らぬ振りをしているしかなくて、それでもどうしても気になって様子を窺いに来たのだろう。
「亮、呼ぶか?」
景吾は静かに首を振って、色素の薄い髪を揺らした。
「あいつ、何かあったのか?」
「…先週大会があったんだ」
「ああ。負けたんだろ?」
俺の言葉に景吾が頷く。
「相手は全国区の選手だった。氷帝では負けは許されない。たとえその相手が全国区の選手であろうと、一度でも負ければ外される。そして二度と使ってもらえない」
「で、亮はレギュラーを外されたと」
再び頷く景吾の表情は、辛そうで、泣き出しそうにも見えた。
「俺のミスだったんだ。まさか、相手校に全国区の選手が転校してきてるとは思わなかった。完全にリサーチを怠った。オーダーを組んだ俺のミスだ」
最後は吐き捨てるようにそう言った景吾の両手は、悔しさに強く握られている。責任感の強い景吾のことだ。口では何と言っていても、チームの不本意な結果にも、亮がレギュラー落ちしたことも、責任を感じているのだろう。
「あいつ、特訓してるらしいじゃん。毎日傷だらけになって帰ってくる」
「…うん」
「後輩の鳳君だっけ? 昨日会った。ぶっ倒れたあいつを抱えて帰ってくれたんだ」
「鳳が…。今週、関東大会前の調整を兼ねたレギュラーと準レギュラーの練習試合があるから、それを狙っているんだと思う。でも、未だ嘗てレギュラー復帰を果たした前例はない……」
「そうか。でも、それならそれでしょうがないんじゃねえの。やるだけやってダメだったら、流石にあのバカでも諦めるだろ。つーか、そこまでやんないと納得できないんだろ。単純バカで頑固にできてるからな」
「…そうだね」
最後に少しだけ、景吾は笑顔を見せた。
そんなことがあって、亮の特訓は続いていた。そして、冒頭へ戻る。
母親から散髪代をせしめてその足で近所の床屋へ向かった亮は、それから小一時間ほどして戻ってきた。誰の目から見てもその辺のハサミで適当に切ったんだろうとわかるザンバラだった髪は綺麗に揃えられ、亮の表情は、短く整えられた頭と同じくサッパリとしていた。
この日何があったのかは、後日、慈郎から聞いた。
あいつが髪を伸ばし始めたのはいつからだったか正確には思い出せないし、その理由もきっかけも、今となっては定かではないけれど。それでも、あいつは自慢の髪だと言って憚らなかったし、母さんに男が髪を伸ばすなんてと苦言を呈されていくら切れと言われても従わなかったから、あいつなりにポリシーを持ってやっていたんだと思う。それをバッサリと切り落としたということは、それまでの自分を断ち切って、そこまでして自分を変えようとする覚悟だったのだ。
「亮」
「なんだよ、兄貴」
久方振りに見る短髪の弟は、やはり見慣れない。
「どうだよ、短くなった感想は」
「やっぱ、シャンプーとか楽でいいな。タオルでガシガシって拭いて、放っとけば乾くし」
新たなファッションアイテムは、キャップらしい。なかなかお気に入りのようだ。額の傷の相俟って、益々やんちゃっぽさに拍車が掛かっている。なんだかこう、無性に触りたくなるんだよな。
「うわっ、何しやがる! やめっ、やめろよバカ兄貴」
「似合ってるじゃん」
短くなった亮の頭を鷲掴みにしてぐしゃぐしゃに掻き回す。なかなか良い手触りだ。喧嘩のときに引っ張るところがないのは不便だけどな。
日曜は、芥川クリーニングの跡取り息子を起こして、試合を観に行ってやるかな。