始まりの春.1










 ずっとずっと、好きだった。


 初めて彼に会った日がいつだったのか、あまり覚えていない。それ程、幼い頃から彼は近くにいた。
 兄の親友。口が悪くて、言葉よりも手が出がちなある意味乱暴な兄とは違って、いつもやさしい笑みで接してくれる、憧れの人。
 この気持ちが、いつからこんな恋心に変わったのか、志穂ははっきりと覚えていない。
 けれど、兄と共に背が伸びて、運動は少し苦手だけれど勉強は凄くよく出来る、穏やかながら頼れる存在となっていった彼を見つめているうちに、変化していったのだろうと思う。
 彼にとって自分は親友の妹。それでも、屈託のない笑顔でやさしく名前を呼ばれると、どうしようもなく嬉しくて、心が弾む。
 恋心を知られぬよう、何でもない表情(かお)を作るのが時折困難なくらいに。
 いつまでも、兄と一緒に、近くにいてくれるのだと思っていた。けれど、彼は予てからの希望で、東北にある大学に進学するという。そこで、天文関係の学びをすると。
 彼の夢は勿論、応援したい。でも、離れてしまうことは寂しくて辛い。
 おそらく、『親友の妹』としてしか見られていないだろうけど、志穂はこのまま離れてしまう前に、勇気を出して告白してみようと決めた。
 想いが伝わればそれでいい。もしも、受け入れてもらえなくても、離れている時間が、恋心を忘れる時間になるだろう。そう考えて。
「きっと俊也くん、ビックリするだろうなぁ・・・でも、何も言わなかったらずっとこのまんまで、私の知らないうちに綺麗な彼女とか出来ちゃったりしたら、絶対後悔すると思うから」
 ひとりごちて、志穂はぎゅっと両の拳に力を込めた。
 ご近所さんだし、家族ぐるみの付き合いをしているから、突然訪ねて行っても不審には思われないだろう。
 志穂は、智史が不在の今のうちに、実行しようと決めて、お小遣いで買ったハンカチをプレゼントに、清水家に向かった。



「やあ、志穂ちゃん、どうしたの? 珍しいね、来てくれるなんて」
 俊也は笑顔で志穂を迎えてくれた。
「俊也くん・・・今、大丈夫だった?」
「うん、大丈夫だよ。志穂ちゃんならいつでも歓迎だ」
 俊也はそう言って、笑顔のまま、志穂を家の中へ入れてくれた。
「紅茶で良かったかな」
「あ、ありがとう」
 俊也はリビングのソファに志穂を座らせ、自分はキッチンに立って、ティーポットを取り出してお湯を注ぐ。カップも温めていた。
 そして、温めたポットの湯を捨て、茶葉を入れて再び湯を注ぎ、ゆっくりと待つ。カップの湯を捨てると、いい香りと共に紅茶が注がれた。
「はい、志穂ちゃん」
「ありがとう」
 この清水家には主婦がいない。俊也と、その姉と弟の母親は、10年前に帰らぬ人となった。
 以来、父親ときょうだいが協力して家事をこなしている。
 そして、母親が患っている時はよく、俊也は大麻家に預けられていた。そのせいもあってか、彼は知香の影響を受けている部分がある。この、紅茶の淹れ方もその1つだ。
「・・・今日のはミルクに合う茶葉なんだ。志穂ちゃんはミルクティーも好きだったよね」
 俊也はそう言いながら、少しだけ温めたミルクを差し出してくれた。
「ありがとう、俊也くん。じゃあ、遠慮なく」
 志穂は少しの砂糖と、ミルクをカップに入れて、スプーンで軽く混ぜる。
 紅茶の香りに、ミルクの香りが重なった。
 口にすると、やさしい味わいだ。
「美味しい、これ」
「それはよかった」
 俊也はニッコリと笑うと、自分もカップに口をつける。
 普段と全く変わらない俊也の様子は、志穂を安心させた。
「・・・俊也くんが仙台に行くのって、いつだったっけ」
 志穂が小首を傾げると、俊也はふっと笑みになる。
「今週末。智史と椋平さんが帰ってくるのは明日だっけ? だから、その2日後」
「・・・そ、っかあ・・・もう、すぐだね・・・」
 志穂は改めて、俊也が遠くへ行ってしまうのだと自覚する。
「うん。・・・志穂ちゃんたちと離れてしまうのは寂しいけど・・・ずっと、学びたいと思ってたことを勉強しに行くんだから、期待も大きいよ。まあ、少し、不安もあるけどね」
 俊也の瞳はやさしくて、志穂は胸の奥がきゅん、と締めつけられるのを感じる。
「・・・私も、寂しいな。・・・俊也くんが行っちゃうと」
「・・・ありがとう、志穂ちゃん」
「香穂やお母さんも・・・寂しくなるねって言ってた。口にはしてないけど、多分、お兄ちゃんもだと思う。あきのさんも、かな」
「ふふ・・・そこで椋平さんの名前がスッと出るんだ」
 俊也は穏やかに笑う。
「志穂ちゃんも、椋平さんのことがかなり好きなんだね」
「うん、それはね。だって、あきのさん、凄くいい人だし・・・本当のお姉さんみたいで、大好きよ。お兄ちゃんの彼女だって紹介された時には吃驚したけど、今じゃ、お兄ちゃんの彼女はあきのさんしか考えられないもん」
「そうだな。僕も、そう思うよ。椋平さんほど、智史を解ってくれる女性(ひと)はいないと。きっとそれは、椋平さんの側にも言えるんだろうけどね」
 親友の智史と、2年間、俊也と一緒にクラス委員を務めたあきの。
 智史の初恋の相手であるあきのが、彼に好意を抱いていると知った時から、2人を応援してきた俊也だが、こんなにしっくりくるカップルになるなんて、最初は思わなかった。
 所謂優等生のあきのと、どちらかと言えば劣等生の智史という組み合わせは、周囲からすれば意外な印象が強かっただろうと思う。
 俊也自身も、どうなんだろう、と思ったことがないとは言えない。
 ただ、いい加減に見える智史も、本質は真面目で一本筋が通っている。頼りにもなるし、包容力もあったりする。
 そして、あきのはしっかり者でひとりでも平気なように見えるが、頼りなさげな一面も持っている。
 そんな2人だからこそ、惹かれあい、上手くいっているのかもしれない。
「智史のことは、椋平さんに任せておけば心配ないだろうな。・・・志穂ちゃんと香穂ちゃんは高校生だね」
「うん・・・残念だな、俊也くんやあきのさんとすれ違いになっちゃって」
 志穂は俊也たちの母校に、香穂は電車で6つ目の駅の近くの高校に進むことになっている。
「・・・僕と椋平さんの名前は出て、智史はナシか」
 俊也は苦笑している。
「や、だって・・・お兄ちゃんは家で会うもん。学校でまで会いたいなんて思わないし」
「・・・ま、そうだね、言われれば」
 少し唇を尖らせている志穂に、俊也はまた微笑む。
 智史の妹たちは2人とも素直だ。どちらかと言えば志穂の方がしっかりしていて、香穂は奔放な印象だが、根は素直で可愛らしい。
「志穂ちゃんたちの制服姿が見られないのはちょっと残念だけど。でも、僕も夏休みなんかにはこっちに帰ってくるつもりだから、またすぐに会えるよ」
「・・・うん」
 俊也の微笑みを見ながら、志穂はこくん、と頷いた。
 そして、ごくん、と息を飲む。
「・・・あのね、俊也くん」
「ん? どうしたの?」
 穏やかな笑みを浮かべた俊也に、志穂は持ってきていたプレゼントを差し出した。
「これ・・・えっと、合格のお祝い、みたいな感じ、かな・・・」
「ああ・・・ありがとう、志穂ちゃん」
 俊也は笑顔で受け取ってくれる。
 告白するなら今だ、と志穂は覚悟を決め、勇気を出して口を開く。
「あのね、私・・・その、俊也くんが、好き。ずっと、好きだったの」
 俊也が目を瞠って志穂を見つめた。
    







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