First Love
途中で俊也と別れて家に帰ってはみたものの、どうにも落ち着かずに、俺は今日も海辺へと足を運んだ。 整
備された公園になっているそこは、夜になるとカップルがうようよ湧いて出るが、ようやく太陽が色づき始めたばかりのこの時間なら、
まだそういう連中に占拠されている可能性は少ない。1人でじっくりと物を考えたい時などに、俺はよくそこを訪れる。家では妹たちがうる
さくて、物思いにふけるなどという芸当は不可能に近かった。 少し深みを増した青の水面が見える場所まで入ってみて、そこにある
ベンチにうちの学校の制服を着た女が座っているのに気づいた。もしやと思い、そっと近づくと案の定、それは椋平だった。 物憂げ
に海を見つめる椋平は、昨日とは違い儚げで、放っておくと消えてしまいそうな表情だった。ぎゅっと結ばれた唇が微かに震えている。
俺は一瞬胸を突かれ、立ち尽くした。 音もなく、するりと滑り落ちた透明な雫は、椋平の表情を一層儚く、頼りなさげに見せる。
見ているだけで、こっちまで辛くなるような錯覚を覚えた。 ふっと、椋平が顔をこちらに向けた。 やばい、と思ったが俺は動
けなかった。焦点の合っていないような、生気のない瞳が俺を捕らえ、2、3回瞬きされる。 そして次の瞬間。 びくり、と肩
を震わせた椋平の瞳が、まじまじと見開かれて俺の姿を認識したらしいことを表した。 「・・・・・大麻くん」 「・・・・・よお。こんなと
こで、会うなんて、な」 泣いている顔をまともに見られずに、俺は椋平の膝の辺りに視線を落とした。 「・・・みっともないとこ見
られちゃったな」 椋平は涙混じりの声で、それでも明るく振舞おうとするような口調だった。俺がふっと目を向けると、椋平は濡れた
頬を手で擦っている。 「・・・・・・何かあったのか」 頬の涙を拭う手が一瞬動きを止めた。勿論、何の理由もなしに椋平が涙していた
とは俺も思っていない。昨日と今日、2日も続けてこの場所で泣いているのには、それ相応の訳があるのに決まっている。 普段の俺
ならきっと放っておく筈なのに、何故か椋平をこのまま無視することは出来なかった。 「・・・・・気に、しないで。たいしたことじゃ、ない
の」 無理をして作っているらしい笑顔の方を無視して、俺は口を開いた。 「昨日も、ここに来てたな、あんた」 椋平ははっと
したように俺を凝視し、俺の表情を読み取ろうとするかのような視線を向けていたが、やがて諦めたようにすっと目を伏せた。 「・・・・・そ
っか、見られてたのか」 椋平は大きく息をついた。唇の端をくっと上げた感じの笑みを浮かべている。 「やだなぁ、2日も続けてみ
っともないとこ見られてたなんて」 「いや、別に、昨日はじっと見てた訳じゃねえよ。その、たまたま通りかかったら、泣いてるあんたを
見かけたってだけで」 「・・・大麻くん、ここによく来るんだ?」 「ん・・・・・まぁ、な。家にいても落ち着かねぇ時なんかには、な」
「そう」 遠い瞳で海を見つめる椋平は、寂寥感を漂わせている。そんな姿をただ見ているのが辛くて、俺はもう一度問うてみた。
「・・・・・・何か、あったのか?椋平」 椋平は返事の代わりに黙って目を閉じ、俯いた。 「あ・・・・・いや、言いたくないってんなら無理
に言う必要はねえけど、ほら、話すだけで楽になるってこともあるんじゃねえかな、なんて」 焦ってこう言いながら、俺は自分で驚いて
いた。 女相手に何を言っているのだろう。どうしてここまで椋平に気を遣うような真似をしてしまうのか。 そんな俺の戸惑いなど
知る由もない椋平は、ゆっくりと俺の方を見て哀しそうに微笑んだ。 「・・・・・優しいんだ、大麻くんって」 「い、いや、べ、別に、そん
なこたぁねえよ」 「知らなかったな・・・大麻くんがこんなに優しい人だったなんて。大麻くんなら、良かったのに」 「はあ?」 椋
平は微笑んだまま、海へと視線を戻した。そして暫く、沈黙の時が流れる。 湿気を含んだような生ぬるい海風が俺たちの間を吹き抜けてい
った。 「・・・・・・私ね、別れたの、昨日」 ぽつりと、唐突に椋平は言った。 「私、同じ美術部の先輩が好きで、今年のバレンタイン
に思い切って告白したの。先輩からOKもらえた時は凄く嬉しかった・・・」 椋平がその男を思い出してうっとりしたような表情になってい
るのを、俺は何とも面白くない気持ちで見つめていた。そう、感じてしまう己への疑問と共に。 「でも・・・・・先輩にとって私はたくさんの中
の1人だったのよね・・・。カラダ求められて拒んだら、『させてくれない女なんか彼女とは言えない』って言われちゃって・・・別れようって、言わ
れたんだよね・・・」 椋平の淋しそうな微笑みと、無理に明るく取り繕おうとする様子が哀れだった。 何とかして慰めてやりたい、そ
んな衝動に駆られた。しかし、女を慰めるなんてことをこれまでに1度もしたことがない俺には、どうすればいいのかなんて全く判らない。
打つ手がなくておし黙っている間に、椋平の目から再び雫が零れ落ちる。 「・・・・・・男の人って、好きっていう気持ちだけじゃ駄目なのかな。
カラダ許す勇気がなかった私が悪いのかな・・・好きだけど、まだ早いって思ってた私が、いけないの?」 俺に、という訳ではなく、ただ海に
向かっての独白のように椋平は言った。静かに頬を滑る涙が辛くて、俺は思わず口を開いた。 「・・・んなこと、ねぇよ」 「・・・・・・大麻、く
ん?」 椋平がゆっくりと俺を見つめる。俺も椋平の瞳を真っすぐに見た。 「そんな奴ばっかじゃねえよ。そういうことって、どっちもの
気持ちがかみ合わないと成立しないもんだろ。ホントに惚れた相手なら、男だってちゃんと待てるもんだと思うぜ」 「大麻くん・・・・・」 あ
まりにも椋平が真摯に見つめてくるので、俺は何だか照れ臭くなって少しだけ視線をずらした。 「その・・・つまり、椋平が悪いんじゃねえって
ことだよ。その気のねえ女に無理強いしようとする男の方が悪い」 「大麻くん・・・・・」 濡れた頬を何度か手で擦って、椋平は涙を堪えよ
うとしているようだ。俺はそんな椋平から、海の方へと顔を向けた。 泣いている女を目の前にして、それをうっとおしいとか面倒くさいとか
思わずに慰めたい、何とかしてやりたいと思うなんて、俺は自身の感情に驚いていた。おまけに、椋平を泣かせる原因を作ったらしい全く見ず知ら
ずの男に、無性に腹が立っていた。 何故、こんな風に思うのか。こんな感情が俺の中に存在していること自体が信じがたい。掴みどころのな
い感情というものは、苛立ちと不安を生み出す。俺は敵でも睨みつけるかの如く海面の僅かなうねりを見ていた。 「・・・大麻くん・・・」 ま
だ涙声だったが、明らかに心配そうな色を滲ませた声で、椋平が俺を呼んだ。瞬間に俺の肩の力が抜けるのが判った。 「・・・何だよ」 「ごめ
んね・・・迷惑だったよね、泣いたりして」 「いや・・・気にするな」 「なんか、ちょっとだけ楽になった。・・・・・ありがとう、大麻くん」
椋平の微笑みは、涙の跡があるにも拘わらず穏やかな暖かさに満ちていた。その暖かさは俺の心にも柔らかな波紋を広げていく。 もしかし
て、俺は・・・・・・・ 唐突に思い当たった言葉に茫然となりながらも、俺は妙に納得していた。 「・・・・なぁ、椋平」 「何?」 「何で、
ここに?」 失恋して泣く為の場所として選ぶには、ここは他人と遭遇する危険性がかなり高い所だ。こういう涙というものはあまり他人には
見せたくないものなのではないのか。 そんな俺の考えが伝わったのか、椋平は少し俯いて苦笑した。 「うん・・・海がね、私の悲しみや涙を
全部持っていってくれたらいいなと思って」 「海が?」 「うん・・・全部海に捨ててしまえたらって思ったの。悲しみも、先輩を好きだった気
持ちも、楽しかった日々も全部・・・そうしたら、楽になれるんじゃないかって」 椋平はそう言って目を閉じた。そして次にそれを開けた時には、
瞳に力強さが戻っていた。 「もしかしたら、海が私の思いを聞いてくれたから、ここで大麻くんに会えたのかな」 「椋平・・・・・」 椋平
はニコッと笑うと立ち上がった。 「ほんとにありがとう、大麻くん。まだ、時々は悲しくなるかもしれないけど、こんな風に泣いちゃうことはな
いと思う。・・・あ、でも、クラスのみんなには私が失恋したってことはナイショだよ?」 悪戯な瞳で見上げられて、俺はどぎまぎして視線を逸
らした。 「当ったり前だろ」 「うん、ありがとう。じゃあ、また明日」 元気よく俺に手を振って去っていく椋平の後ろ姿を見送りなが
ら、俺は苦笑いと共に溜息をついた。 椋平が恋を捨てたこの海辺で、俺は初恋を拾っちまったらしい。 黄金色に染まり始めた空と海面を
背に、俺も歩き出した。 出来ることなら、拾った恋を捨てずに済むようにと、心の中で呟きながら。
Fin.
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