初めての・・・
修学旅行の終わりを告げる先生たちの声が東京駅の改札出口で響く。 俊也とあきのは点呼を終え、今岡先生に報告し、そこで解散となった。 「・・・お疲れさん。大丈夫か、あきの」 智史がじっとあきのの顔色を窺う。 「・・・うん。少し、疲れたかなっていうのはあるけど大丈夫。ごめんね、
心配させて」 苦笑して、あきのは智史に応えた。 「じゃあね、あきの」 「気をつけてね。また火曜日」 そう言って声をかけてくれた実香子や理恵に笑顔で手を振り、あきのは微かな溜息をついた。 やはり、昨日の寝不足が祟ったのか、疲労感は否めない。特に、これから人気のない家に帰るのだと思うと、
気持ちも沈みがちになる。 「・・・お前んち、今日は?」 今日は土曜日。一般的な仕事の親なら休日である確率が高い。 あきのの家族のことを、智史はあまり知らない。両親がいて、きょうだいはいないことと、母親は実は継母で、実母は12歳の時に既に亡くなっていること、父親、継母共に多忙らしく、あまり家に
いないらしい、ということくらいしか知らなかった。 尤も、智史の方も自分の家族のことなど、あまり話してはいない。なんといっても、つき合いが始まってまだ2日程しか経っていないのだから、ある意味当然とも言える。ただのクラスメートでは、あまり突っ込んだ話はしなくても支障がないのだから。 「うん・・・誰も
いない。父もお母さんも仕事の関係で大阪なの。お母さんは昨日、今日が仕事で、父は昨日だけだったらしいけど、おつき合いとか、色々あるんじゃないの」 あきのにしては珍しく棘のある言い方で、智史は僅かに眉根を寄せた。 「・・・修学旅行から帰るってのに、親は不在かよ・・・・」 智史の家では考えられないこと
だ。 確かに仕事の関係で父親の安志が不在の時はある。けれど、それも帰宅が遅くなる、という程度のもので、泊まりでの出張などは滅多にない。幼稚園教諭の母・知香は園の出勤日以外は家を空けること自体が皆無に等しかった。 家に戻れば母か妹たちのどちらかが迎えてくれる、それが当たり前の環境で育ってきた
智史には、あきのの家庭環境は信じ難いものだった。 ましてや、あきのは本調子ではない。幾分かはマシになっているとはいえ、昨日の朝には倒れたのだ。そんな彼女を、1人きりの家に帰して平然としていられる程、智史は冷酷ではない。 「・・・ちょっと待ってろ。電話してくる。送ってやるから、勝手に帰んなよ」
智史はそう言うと、公衆電話に走り寄り、自宅の番号をプッシュした。 3度くらいのコールで繋がる。 「・・・智史だけど。母さん?」 『あら、お帰り、智史。今どこなの?』 「東京駅だ。これから帰る」 『判ったわ。お父さんはこれから出かけちゃうけど、待ってるからね』 「・・・何、親父、出かけんの」
『ええ。・・・そうそう、智史、あんた、何かやらかしたんじゃないでしょうね? お父さん、今岡先生に呼び出されたんだけど』 知香の言葉に、智史は眉を引き攣らせる。 「なんだそりゃ。俺は何もしてねーぞ」 『そう? ならいいけど。まあ、今岡先生の声が沈んでなかったってことだから、そう悪いことじゃな
いだろって言って出ていったけどね』 自分のいない所で先生の口から安志に告げ口のようなことをされるかもしれないと知ると、面白くはないが、智史はとりあえず本題に入ることにする。 「・・・なあ、友達、1人連れて帰ってもいいか?」 『え? どうしたの、智史』 「そいつんち、親、仕事でいねぇってことら
しいし。それに、そいつ昨日、ちょっと体調崩しててさ。誰もいねーって判ってる家に1人でまんま帰しちまうのもどうかと思って」 『・・・智史にしては随分気を遣ってるのね。いいわよ、丁度お父さんの分の夕食が余ることになるし。それで、なんていう子なの?』 知香の問いかけに、智史はひとつ息を呑んだ。 「・・・
あきの。椋平 あきのだ」 『・・・・・・・え? 智史・・・・・聞き間違いじゃなければ、女の子、なの?』 知香の反応はある程度予測していた範囲のものだったが、やはり、あまり嬉しくはなかった。 「・・・悪いかよ」 『いえ、そうじゃないけど・・・・・判ったわ。とにかく、待ってるから、気をつけて帰ってきなさいな』
「ああ。じゃ、後で」 受話器を置くと、智史は大きな溜息をついた。 仕方がないこととはいえ、帰ってからの追究を思うとうんざりしてくる。知香はともかく、妹たちの好奇の目は免れないだろう。 とはいえ、やはりこのままあきのを1人で帰すには忍びない。 智史はあきのと、自分たちの鞄の側に戻った。
「行くぞ、あきの」 「あ、うん」 智史は2人分の鞄を両肩に担ぐ。 「あ、智史、いいよ、私のは。自分で・・・」 「無理すんな。それより、悪ぃが俺の土産の袋、持ってくれるか」 「あ、うん、勿論。・・・ごめんね」 済まなさそうに俯き気味になるあきのに、智史はその頭をポンと叩く。 「気にすん
なって。俺は男だからな。こんなモン、何でもねーよ」 「・・・ありがとう」 智史とあきのはゆっくりと歩き出し、最寄り駅に繋がる電車に乗り込んだ。 15分もすれば降りる駅に着く。 智史とあきのは学校帰りに2人が別れる交差点に向かって歩いた。 「ねえ、智史、聞いてもいい?」 「・・・何だ」
「うん・・・智史のお父さんって、今岡先生の先生だったんだって?」 「おお、よく知ってんな。・・・もしかして、俊也の奴か」 「うん・・・清水くんが話してくれたの、旅行中に」 「・・・今岡になんか言われたのか? 俺のことで」 「うん、まあね・・・『今度何かやったら家庭訪問だって言っとけ』とか何とか、先生が清水く
んに言ってね、私がどういう意味なんだろうって思ってたら、教えてくれたの」 「・・・ったく、今岡の奴・・・そんなこと言ってたんか」 智史の苦虫を噛み潰したような表情を見上げながら、あきのは微かに笑った。 「・・・でも、そんな風に今岡先生に慕われてるってことは、いい先生なんだろうな、智史のお父さんって」
「・・・さぁな。俺は親父が教師してるトコなんて見たことねーし、判んねーな」 「・・・おうちでのお父さんって、どんな感じなの?」 「うちでの親父は・・・厳しい方じゃねーか? 悪いことでもしようモンなら、容赦なく殴られるぜ、俺は」 「そ、そうなの?」 「ああ。飲むとよく喋るし、酒は強いほうらしい。めんどくさ
がりだけど、根っこは真面目なんじゃねーか? 後、偉そうにしてっけど、実は母さんには頭が上がらないみたいだぜ」 「へえ・・・」 智史の父親という人物は、あきのにとっては羨ましいと思えるような父親像らしい。 あきのが知っている『父親』という存在は、仕事のことしか頭にない人間だ。母が危篤に陥った時でさ
え、仕事を優先していた。息を引き取る母を看取ったのは、病院の看護師と医師、そしてあきのだけ。父が母を見たのは、母が遺体になって自宅へと戻ってからだった。 その時の悲しみというのは、とても言葉では言い尽くせないものだった。あきのにとって、父親は『冷酷、無慈悲』な機械のような存在だ。 その父が連れ
てきた継母の倫子のことは好きになれたが、倫子が何故父と結婚しても良いと思えたのかはあきのにとって、未だに謎だった。 「・・・お前、大丈夫か?」 唐突に智史に問われ、あきのは目を瞠る。気づくと、いつも自分たちが右と左に別れる交差点まで、やってきていたのだった。 「あ・・・もう、ここなのね」 「・・・あ
きの」 智史が溜息をつく。そして、あきののすぐ前に立ち、彼女の瞳をじっと瞰下した。 「家、誰もいねーんなら、俺んちに寄ってけ」 「・・・・・え? ええっ!?」 あきのは半ば茫然と智史を見上げた。 「このまんま家に帰ったら、お前、まともにメシも食わねーかもしれねぇだろ」 智史の指摘に、あきのは
僅かに視線を泳がせる。 「・・・やだなぁ・・・どうして、解っちゃうの?」 「調子が戻ってねぇんだから、その位見当がつく。だが、そりゃあ返って身体によくねぇからな。うちで晩飯食ってから帰れよ」 「そ、そんなこと!」 あきのは慌てた。 智史とつき合いだしてまだ2日。当然、智史の家に行くのも、家族に会
うのもこれが初めて、ということになるのに、いきなり食事を、なんて考えられない。 「ダメよ、智史。私、いきなりそんな厚かましいこと、出来ないよ」 「母さんの許可は取ってある。親父は今岡と飲むってことで出かけてるらしいし、遠慮なんかしなくていいぜ?」 「そ、そんな・・・だって、いきなりよ? 智史のお母様
に会ったこともないのに、そんな申し訳ないこと・・・」 「・・・あきの」 智史はじろり、とあきのの瞳を見据えた。 「折角戻ってきた調子を落とす気か? いいから来い」 拒否は許さない、そんな強い調子で言い切られ、あきのは口を噤んだ。 強引ではあるが、智史は結局自分を心配してくれているのだ。それに、
誰もいない家に帰るのが心細いのも事実。厚かましい人間だと思われるのも嫌だが、1人で過ごす時間が短くなるのはありがたい。 「・・・本当にいいの? 智史」 おずおずと尋ねるあきのに、智史は小さく笑った。 「・・・良くなかったら始めから言わねーよ。こっちだ、あきの」 あきのは智史と共に交差点を右に折れた。
緊張と不安と期待で、ドキドキする気持ちを気取られぬよう、出来るだけ胸を張って。
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