菜園日記2025年3月
2025/03/02 厳寒の2月が終わり、3月に入りました。 朝からの雨が止むのを待って畑へ。 畑は、相変わらずムクドリの被害で、特にアブラナ科の野菜は穴だらけでした。 他の畑の方も同様のようです。 先週、影も形もなかったカリフラワーの頂花蕾が大きくなっていて、ちょうど収穫頃となっていました。急に暖かな日が続いたので、大生長したのかもしれません。 雨で畑はかなり濡れていましたので、ダイコンや葉物野菜などを収穫して、退散いたします。 ・・・・・・ 2025/03/15 本日は天気予報より早く、昼前から雨となりましたが、畑の契約更新がありましたので、昼から畑へ。 先週は、小旅行のため畑はお休みでしたので、2週間ぶりとなりました。 雑草がいろいろと伸びていましたが、雨の中、作業はままならず、傘をさして、ダイコン、ネギ、ブロッコリーを収穫して終わりといたします。 その後、契約を無事更新して帰宅いたしました。 ・・・・・・ 2025/03/23 急に初夏のように暖かくなった日曜日です。 畑は最近の陽気で、雑草の天国となっていました。 一番西側の畝を整理して、腐葉土を入れ、スコップで荒起こししておきます。 この畝からは。最後に、ネギ10株ほど、ブロッコリーの側花蕾10数個、小さなキャベツが収穫できました。 他は、葉物野菜などを採り、ダイコンも終わりとします。 今年の冬は厳寒期が長かったためか、ダイコんも大きくならず、ブロッコリーなども遅くなって小さな頂花蕾をつけるという感じでした。 水やりをして退散いたします。 |
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このコラムでは、今まで私に生じたことや考えたことなどについて駄文を書き連ねてきましたが、最近高校時代の仲良しグループと実に久しぶりに再会したこともあり、やはり高校の卒業式のことを書いておかなくてはと思うようになりました。 といいますか、そのことについて今まで書いていなかったことが自分でもある意味不思議なのですが、それなりに「温めていた」想い出の1つではありました。 次第に記憶の薄れてきた部分もあり、そろそろ書いておきたく思います。 私が京都の公立高校に入学したのは1970年の春のことでした。 若者の世界的な「異議申し立て運動」の最盛期でもあり、勤労者や大学生等に留まらず、高校生も中学生も左翼であれ右翼であれ、政治的な運動に浅からずコミットしていた時代でした。 政治的な領域だけでなく、文化的歴史的な状況、社会的な在り方の全てに疑問符がつきつけられていました。 私の親しみある音楽の世界では、ロックにしろフォークにしろ、社会的な変革あるいは革命こそがテーマであった時代でした。 現在の若者からすれば、音楽がそのような方向で強いメッセージ性を有していた時代があったなんて信じられないことであるかもしれません。 日本の1970年はまたいわゆる安保の年でもあり、安保闘争に一定の結果がでるとともに広範な学生運動も勢いを削がれた反面、いわゆる過激派が攻撃的な活動を強めていく状況も生まれ、「異議申し立て運動」の様相も大きく変わっていきます。 実は、私の大学のゼミ論の1つは、この時代のアメリカの社会状況とRock音楽についての研究でしたが、ここではこれ以上は触れません。 上記の状況描写等もかなり簡略化した記載であり、誤解を生じる余地もありますが、ご了解よろしくです。 さて、私の入学した当時、京都の公立高校は一種異様な「自由さ」の中にありました。 世界的な「抗議運動」の最中であったという状況に加え、当時の京都府・市の政治的な特異性も大きく関係しています。 その状況を描くには、かなりの文字数を有することとなりますが、具体的な雰囲気などについては以前にもここに書いたことがあります。(お時間のある方はご一読ください。) https://www.eonet.ne.jp/~moriakio/2024/saiennikki2404.html まぁ他府県の、特に年代の違う方には簡単には信じられないような世界でもありました・・・ そのような中、私が高校を卒業したのは1973年の春のことでした。 卒業にあたり、何か記念のことを・・・と考えた私たちは、卒業式にちょっとしたイベントを実施しようといたしました。 その具体的内容は、卒業式の最中に、天井から垂れ幕が降りてきて、ご参加の皆さんに楽しんでもらおうというものでした。 従って、そこに政治的意図はなく、学校に対する反抗的な意志もなく、単に我々の「面白さ」を求めた記念的な悪戯イベントでした。 その垂れ幕の文章は「卒業証書 チリ紙と交換します」というものに決まりました。 当時の写真なども残ってはおりませんが、この文章で間違いはありません。 厚手の模造紙を切ってつなげ、巻物状にします。 そこにこの文章を私が書きました。 私は、書道的な才能は全くありませんでしたが、以前に漫画を描いていたこともあり、ロゴ的な字を書くことは好きでした。 その巻物の上部には壁面に留めるための厚紙を、下部には重しを付けておきます。 このイベントの企画・実行犯は私を含め4名の同級生でした。 卒業式の前日の夜中に、卒業式の会場である体育館に忍び込みます。 さすがに当時も夜間には校門は閉められていますから、学校を取り巻く金網をよじ登っての侵入です。 まぁ、我々は何回もこのようにして夜中の体育館でテニスをしたり、夏はプールで泳いだりもしていました。 今だから言えますが、一度は食堂でウドンを作って食べたこともあります。 現代の高校であれば、警備会社が飛んできて我々は警察に引き渡されているでしょう。 さて、この垂れ幕をどのようにしてステージ上で開花させるのか。 我々の作戦としては、巻物を演壇の上部に設置して、巻物が開かないようにタコ糸を回して留めます。 そのタコ糸を演壇横の体育用具室まで引き回し、その床に釘で打ち付けます。 そして、そこに時限装置を仕掛けて適切な時間にタコ糸を切り、巻物がパラパラと下に降り文章が現れる・・・というものでした。 時限装置には、蚊取り線香を使うことといたしました。 引き回したタコ糸の最後部に、蚊取り線香を当てがっておき、火が回ってタコ糸が切れると巻物がほどかれて展開するという作戦です。 最大の難所は、下から見ても分からぬように、演壇の上部に巻物をセットすることでした。 体育館の緞帳の裏側、演壇上の最も高い位置ですから、かなりの高さがあります。 用具室には幸い、高い脚立が置いてありました。 しかし、かなりの高さですので、その上に登って作業をするのには勇気がいります。 その時「俺は、電気屋の子どもだから、高い所の作業は慣れているよ」と一人の勇者が立ち上がり、この最難題のセッティングは無事完了いたします。 やはり高校生も4人寄れば文殊の知恵&技術であります。 そこから、タコ糸を要所要所をピン止めして用具室へと引き込み、床に止めて蚊取り線香をセットいたします。 セッティングは完了です。 テストなしの一発勝負です。 しかし、結果が全然ダメな失敗事例でしたら、ここにこんな文章を書いてはいません。 私はこーいう「一発勝負」にはなかなかの運を持っている人間でありました。幾多の下らぬ「一発勝負」に運を使っていなければその後の人生は眩いばかりのばら色に輝くものとなっていたと思うぐらいの一発に強い「運」ではありました。 (・・・と、一応当企画実行犯のリーダーとして「運」だけの自慢を少ししておきたく存じます。) あとは、時間を見計らって蚊取り線香に点火しましたら準備は完了です。 当時、蚊取り線香の燃焼速度の実験もしたように思うのですが、その具体的記憶はありません。 いずれにしても卒業式の開始時間、それに先行する点火時間までにはまだ時間がありましたので、4人はいったん解散し、点火時間に再集合することといたしました。 このことがしかし、この作戦遂行に当たって最大の危機を生むこととなります。 確か4人のうち3人は、そのまま家に帰るわけでもなく、廣澤ノ池に行って、とりとめのない話などをしていました。 廣澤ノ池は京都が誇る名勝の1つではありますが、近辺に住む我々的には普通の遊び場の1つでした。 その時には既に明るくなっていたと記憶していますから、3月のこととはいえ6時ぐらいにはなっていたのでしょう。 そこからそれぞれ自宅に戻って仮眠をとります。 ・・・のはずが、私はすっかり熟睡してしまい、そのグループの1人が「おい、もう卒業式は始まっているぞ」と起こしにくる有様でした。 私の家から学校までは歩いても5分ほどの距離ですが、この時は流石に全速力で向かいます。 いそいで学校の体育館に向かい、体育館横から用具室へと侵入し、蚊取り線香に点火いたします。 その点火位置は適当な勘だけでした。 こーいう場合の私の「勘」がいかに優れていたかについては、アホな繰り返しになってしまいますので、書きません・・・ まぁただの自己満足的自慢話ではあります。 (この作業中、用具室の表側で控えていた吹奏楽部の後輩は何かゴソゴソ音がすると中を覗いていたようですが、彼はそれを誰にも報告しなかったようです。彼の怠慢さは当作戦の成功に大きく役立っています。この後輩の話は後日、教師を通じて知りました。) 用具室から、体育館の正面に回り、卒業式に参加いたします。 初めに書いたような雰囲気の時代、学校でしたから、卒業式に遅れて2人が入ってきても、とりわけ注意もされることもなく、また卒業生の座席も決まってもいない会場でした。 もちろん今のように卒業式用の晴れ着を着るでもなく、制服はもともとありませんから、私の姿も前夜からの作業着?のままです。 下級生が卒業生を送るために出席するということもなく、後方に父兄が少し並んでおられました。 今のように、あるいは他府県の式のように、全学年、全父兄参加の中、卒業証書が粛々と授与されるような一大儀式とは全く異なる光景です。 実にタイミング良く、演壇ではちょうど校長先生が我々に送る言葉を話しておられました。 短めにセットした点火装置は見事に役割を果たし、その校長先生のお話中に先生の斜め後方に垂れ幕が音を立てて降りてきました。 この時しかし、私は「さすが校長先生!」と感心したことを今もはっきりと覚えています。 自分のすぐ横にばらばらと音を立てて垂れ幕が下がってきたのにも関わらず、そちらに眼を向けることもせず、動揺した様子を見せることもなく、校長先生はお話を続けておられました。 流石!です。 (今考えましたら、考えなくても、校長の真上に落ちてこなくて幸いでした。それは明らかに事件となります。) 参加しておられた父兄の中には、朝、私を起こしにきた4人組の1人のお母様もきておられて、後日「もうビックリして卒倒しそうだった」と言っておられました。 お気持ちをお察しいたします。 しかし、自分の息子がその一味であったことについては、その後も気づいておられませんでした。 父兄の方で当日の写真などを撮った方がおられたら、ぜひ見せていただきたいものです。 (考えましたら、学校関係者は写真を撮っていたでしょう。そんなことに今気づきました。誰か記念に提供してくれないでしょうか!?) その後、卒業式は何事もなかったかのように進行しました。 我々の企画したイベントも何もなかったかのように黙殺されていました。 垂れ幕は取り除かれることなく、最後までそのままでした。 式終了後、卒業生は各クラスの教室に戻り、そこで担任の先生から一人一人が卒業証書を受け取りました。 後日、担任の先生のご自宅をクラスのメンバー数人と訪問し、卒業記念の食事会をする機会がありました。 その時先生は、あの垂れ幕の文字を見て、私が書いたものとすく分かったと言われました。 流石、国語の先生です。 私の癖のある字体をよくご存じでした。 まぁそんな時代でした、 今でしたら、処分されて卒業も取り消され、場合によっては警察案件となっているかもしれません。 しかし、我々にとって(実に勝手ながら)、高校時代の大きな大きな大切な大切な想い出の一つではあります。 ・・・・・・・・・・・・ 涙涙の卒業式を心待ちにしていた同級生諸君、厳粛な式典で子どもの新たな旅立ちを祝おうとしていたご父兄の皆さま、卒業生に贈る言葉を真摯に考えていただいた校長先生、そして、式の準備等々にご尽力された(しかし、簡単な仕掛けに誰も気づかなかった)教職員の皆さま方に、深く反省の意を表したく思っております。 |
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