WOLF HALL
16世紀のイギリス、国王ヘンリー八世からの信任を厚く受けて、当時の宮廷を専横的に牛耳って名を残した政治家トーマス・クロムウェルの自伝的歴史物語である。英国史の知識が全くない、キリスト教の教義や諸行事に不案内なため、当時の時代背景やキリスト教に関する情報を仕込まねばならず、何度もウィキペディア(フリー百科事典)の検索作業で通読を中断された。また、随所に表れる人間の心理描写、気象・風景描写が著者独特の文学的表現の所為で難解であること。場面が現在(当時)と過去、大陸とイギリス、家庭と職場(宮中や法廷)など目まぐるしく転変すること。そして何よりも主人公クロムウェルが常に三人称の"he"で語られており、文頭のHeが主人公なのか、他の登場人物なのか混乱して、文脈が繋がらずに何度も前後を読み直さねばならない等、久し振りに読解に手こずった物語であった。
若死にした兄王太子アーサーの妃キャサリンを王妃としたヘンリー八世は、王妃の侍女アン・ブーリンとの婚姻を成し遂げるために、王妃との婚姻関係の無効をローマ法王に願い出るが、当時の(今も?)キリスト教は離婚を認めていないし、イギリスはローマ・キリスト教の辺境の一教区に過ぎず、ローマ法が国法に優先したので、聞き入れられなかった。クロムウェルはイギリスのキリスト教を「イギリス国教」として、ローマから独立させるという奇策を打ちたて、国王を国教会の長とすることで、婚姻の無効を成し遂げた。当時も今も、政治というものは権力者の都合で体よく改革を成し遂げてしまうものと改めて思い知らされるのである。
折から、ドイツに端を発したルターの宗教改革の思想がイギリスにも伝わり、この改革活動を異教徒として弾圧する旧守派の勢力も侮れず、大法官トーマス・モアの取り締まり、刑罰は非情を極め、国教会の長たるヘンリー王の温情で以って減刑に奔走するクロムウェルと対立する。確固たる信念を持つモアはイギリス国教会の分離独立をも認めず、クロムウェル率いる政権から反逆罪として逮捕される。クロムウェルの再三の説得にもかかわらず、モアの信念は固く遂に斬首の刑に処せられる巻末の展開は圧巻である。
現代は個々人の表現の自由が許され、このような極刑のないことに改めて安堵するが、いつ又、このような暗黒の時代が来るとも限らず、昨今の懐古的な政権運営の流れには警戒せざるを得ない。
個人の生活を覗けば平凡な家族の良き家長であり、父であるにもかかわらず、権力に取り入って出世を志ざせば、万人を恐怖させるほどの辣腕を振るう政治家に変身するのである。如何ような難問題も工夫を凝らして、解釈を正当化出来るのである。昨今の現代政治に照らし合わせて、非常に示唆に富んだ警鐘に値する名作である。
お馴染みイギリス2009年度ブッカー賞作品。 推薦度 5.0