LET THE GREAT WORLD SPIN
先ず、表紙を開いた扉の裏に「人生はいろいろある。でも我々はすべての人を知るわけもないし、全てを経験できるわけがない。それが世界というものだ」とアレクサンダル・ヘモン著「The Lazarus Project」からの引用に引き込まれる。そして、プロローグ。ある朝、ニューヨークの空を見上げて、出勤途上の人が、みなはっとして息を呑んで立ち止まり釘付けになる。私は9・11の同時多発テロの大惨事現場かと緊張するが、そうではない。同じ世界貿易センターのツインタワーに張った鋼鉄製ロープを伝って、一人の若者が決死の綱渡りをやってのけるというこれも実際にあった1974年の大事件の現場である。しかし、この小説でこの青年が主人公ではない。この現場を見上げる人たちが、多種多様な人種で様々な階級の人たちであって、ニューヨークという街はコンのような人で構成されている混沌とした処だとして、様々な人生を語り始めようとしているらしいと感じて読み出して見ると。文体、語彙・スラグが独特で、私のような貧弱な読解力ではなかなかに難しい。でも、詩的だと思われる美しい文章に引きつけられるから妙である。
全体は、どの登場人物が主人公かと思って肩入れすると裏切られる。主人公は存在しない、オムニバス風に次々と話題は変わっていく。でも、登場する人物に興味が湧くと、順にそれぞれの人となり、日常を語りだしてくれるので、興味が削がれることはない。
1974年夏、たまたまの偶然のイタズラで綱渡りと同じくらいに危機的な日を過ごした人たちの様子が淡々と語られているのである。当時アメリカは泥沼のベトナム戦争で多くの若者を失うとか、ニクソン大統領がウォーター事件の失態で辞任に追い込まれる等の暗い影を背負っていた時代である。そんな時代を映すかのように、登場人物たちも?望のなかで苦しんでいる様が窺える。
アイルランド出身でニューヨークの貧困地区ブロンクスに暮らし、同じ街に住む売春婦たちに慕われながら極貧を甘んじて受け入れる修道士のコリガンと、彼を追ってアメリカに渡ってきた兄のキアランの生い立ちから語られる。キアランは、「どうしてストイックに生きるのか、もう少し良い所で暮らすように」とコリガンに詰め寄るが、コリガンは神の道引きの実践こそが我が勤めと意に介さない。ところがコリガンはこの綱渡りの日に自動車事故で同乗していた娼婦のジャズリンとともに亡くなる。
その事故を引き起こした車の所有者ブレインとララの夫婦に視は移る。夫ブレインの考えで、ひき逃げを決め込もうとしているが、ララは日に日に罪の意識に苛まれる。中西部出身の大金持ちの娘で、ソーホーでのきらびやかな生活に飽きたらない思いを抱く彼女だったが、良心の呵責に苛まれてキアランにすべてを打ち明けることとなる。
綱渡りの様子も気になる。著者はサービス精神に溢れている。はるかカリフォルニアのコンピューターハッカーが、有料電話回線のプログラムをくぐり抜けて、ニューヨークの公衆電話に無作為に通話回線を繋いで、たまたまその電話ボックスにいた人から、同時進行で綱渡りの様子を聞き出すことに成功する。
次はベトナム戦争で息子を失った母親たちの集会だ。ここで知り合う白人のクレアと黒人のグロリア。綱渡りが行われた日、マンハッタンの高級街の豪華マンションに暮らす上流階級のクレアを、ブロンクスの荒廃した公営アパートで生活する下層階級のグロリアが訪問する。二度と会うまいと思うが、階級と貧富そして人種の差を超えて、同じ悲しみをを持つ者同士が互いに結びつく話である。そして、その日、地方判事のクレアの夫は、世界貿易センターへの家宅侵入や騒乱罪で逮捕された綱渡りの男を審理したのである。そこで、再度、著者のサービス。綱渡りの男がツインタワーに人知れず、どのような方法で鋼鉄製のロープを張ることができたかの顛末をも語ってくれるのである。
また、その前の審理で、お互い同じブロンクスの公営住宅に暮らしているグロリアの隣人であるが、顔をエレバータで偶に合わす程度の仲の売春婦母娘ヘンダーソンとジャスリンの審理も行っている。38歳にして二人の孫を持つヘンダーソンを苛むのは、娘ジャズリンを自分と同じ仕事につかせてしまったことだ。娘の罪も背負ってジヤスリンは釈放されるが、その直後、娘に前述の自動車事故である。
最後は残されたヘンダーソンの二人の孫娘、ジャズリンの娘たちである。私しかいないとの思いから、グロリアが孤児となった二人の育ての親となり、クレアが伯母の役割を演じてくれたようである。時は経ち、2006年。アイルランドに帰国したキアランを成人した娘が訪れている。そしてコリガンと母ジャスリンの衝撃の事実を知る……。
荒んだ気持ちの登場人物たちが、やがては和んでいくように、9・11の大惨事をも和ませようとする温かい物語である。もちろん私の心も和まされました。
推薦度4.5