この噺をする時祖母は、川獺・かわうそ のことを何時も かわそ という。 慶応3年生まれの祖母の子供時代の呼び名と思うが、川獺が珍しくなかった当時の、ごく使い慣れた通称だったのでしょう。
お噺に入る前に、思い出すまま祖母の素顔に少し触れておきたい。
祖母は岡島屋という屋号の家に生まれた。生まれて間もない頃、当時としてはかなり大きい造りの母屋の新築が始まり、上棟式当日の祝いの餅まきには、赤いチャンチャンコを着せてもらい、櫓の上でお披露目してもらったそうよ・・・とは、幾度となく聞かされた祖母の自慢話でした。
郡中のような田舎町では、クリスチャンというだけで、当時は珍しい存在だったろうと思うのですが、祖母は若いときから大変熱心なクリスチャンだったようです。
クリスチャンと言うだけで胡散臭く見られた、太平洋戦争中のあの反米英思想の風潮の中でも、そんなのどこ吹く風の姿勢に徹していました。
「天にまします我らが神よ、今日一日が無事送れますように…一日が無事送れましたことを…
「食べ物をお恵みくださいまして…幸せな一日をお導き下さいまして…心から感謝いたします…
「明日もまた幸せな一日が迎えたれますよう…どーぞお導き下さい…アーメン…
お部屋の祖母に食事をお持ちすると、やおら、かなり擦り切れた大版の黒っぽい表紙の聖書を開き、小声で呟くように、その一節かニ節を読み上げます。終えると、老婦ソプラノとでも言いたい甲高い声で賛美歌を詠いはじめるのです。
子供心に、それが終わるまではお祖母さんの邪魔をしたらいかん…と神妙に控えていた自分の姿が、九十才台の天寿を全うした祖母に重なります。
以下は祖母 "こなつ" が娘時代のお話です。そのように聞きました。
町外れの川、話の内容から察すると現在の森の川(森川)の上流あたりでしょうか。昔の川筋がそのまま今も残っているとしたら、大平橋あたりか?など想像します。
ほろ酔い気分の若い衆何人かが橋の上に通りかかりました。
日はとっぷりと暮れ、お月さんに明るく照らされた田圃、草むらの匂い、川面のきらめき、過ぎる浜風…血の気の多い若い衆に、むらむらと…夜這い…願望のいたずら心みたいなものが、頭を過ぎり始めても可笑しくない時間帯です。
川の流れに殆ど手を入れることのなかったこの地域ですから、流れの蛇行する所は自然の川瀬となり、周りのやや深い淀みは葦が茂り自然の葦原でした。この川瀬の拡がりに月夜の煌きが加わって、若い衆の酔い心に幻想が芽生えるには、申し分ない環境だったかも知れません。
橋の上にさしかかった時、一人が言った。
「おゝ…あないなとこで踊っとるぜー…えゝ…ほらー」
「えっ…どこ?何処ぞな…あっ!誰じゃろ…行ってみよか…」
「いこ!行こ…いこや!…」。
なんの躊躇いもなく、若い衆たちは勝手知った地道をそそくさと駆けおりた。
近づくにつれ、姉さんかぶり・浴衣すがたの村のおなご(娘)らしい一団が、裸足で川瀬の水を蹴りながら盆踊りよろしく円陣を組んで、しきりに踊り舞っている。
瀬に駆け下りた若い衆たちが、ちょっかいの 一声・ニ声をかける。
振向いた円陣のおなご衆から、なよなよと舞うしなやかな手…
"おいで!…おいで!…"
招き揺れ〃〃招き揺れる。
若い衆の心は酔いうつつの中で、川瀬の宙に浮かび漂い、辺り一面を舞い彷徨う。
踊れや!…踊れ!…踊りまくれ!…
いつしか空は白み始め、娘らは一人また一人と踊りの輪を離れていく。片や輪の踊りの熱気に包まれた若い衆たちは、取り残されていくわが身に気付こう筈もない。
川瀬の水を蹴立て、葭原の茂みまで踏み分け踊りまくる姿は、まさに夢遊病者の乱舞だった。
田舎の朝は早い。
畑仕事や田んぼ仕事、近郊の力仕事などに出かける村人たちの目が、川瀬で踊り狂っている若い衆たちの輪に釘づけになり、点になっていったとしても仕方ない。
小夏婆さんからこの噺を聞かされた子供の頃には、別に気にも止めなかった。
でも、四国山脈を挟む隣県高知の四万十川に、今も生き残っている痕跡があったとか無かったとか騒がれたかわうそが、当時は町外れの森川あたりにさえ、かなりの数が群遊していたらしい事実は想像できる。
大変気がかりな かわそ噺 ではある。
自然環境という、人と自然とりわけ動物達との共棲のあり姿を考えるとき、この共棲関係が予想以上に早く、しかも身近で壊されている事に愕然とするのです。
小学校にあがる前後、あったかい日差しの縁側で母から聞かされたお話です。このお話をするお母ちゃんの顔は、ニコニコと本当に楽しそうに笑っていた。
話の前に、隣町松前町の おたたさん の事に少し触れておきたい。
郡中町と松前町は新川の松原をはさんで隣り合っている。古くは松崎町で、松山城に移る前に加藤嘉明の拠城があったが、城移しで町は次第にさびれて寒漁村になっていったようです。
やがて、町の人々は生活の糧を行商・出稼ぎに求めるようになり、浜でとれた生魚とその加工品の義助煮などを売り歩く、女行商人 おたた が誕生していったと云われています。
おたたさん: 近隣の人は おたた をおたたさんと親しみを込めて言う。彼女たちが行商に出掛ける姿は、今も決して忘れられない。
おたたさんは、ひと言で活動的、遮二無二でしかも明るく生きていく、働く人の「ひと」らしい活き方・姿の原点があった。彼女達の身全体に沁みついた魚臭には、汽車通学でいつも一緒に乗り合せる中・女学生はみな辟易した。
「あーたまらんゎ…たまらん・たまらん…」
などと云いながらも、真摯さの漲るおたたさんの活き様の凄さに、「ひと」の大切な何かを学んでいたと思う。
大風呂敷を束ねて捻り輪のよう丸めたものを頭上に置き、これをクッションにして一抱えに余る盥(もちろん木製のタライ)をバランスよく頭上に載せる。盥の中には、商品の生魚ほかがぎっしり詰まっている事はいうまでもない。
重くて不安定では・・・という他目の心配などどこ吹く風、片手をかるく盥の縁にあてながらヒョイヒョイと腰振りよろしくバランス歩行をする。中身はその日の家計を支える大事な商品、体はこけても盥はこかせてなるものかの気概が漲る。
余分なことですが、歩行の途中に催した時は、立ち姿のままで、おこし(腰巻)を絡げて道端で済ましていたとの事です。
私は中学生の五年間、郡中駅から松山市駅まで伊予鉄の「坊ちゃん列車」で通学した。
早朝の通学列車は、あのマッチ箱のような客車を十二〜三輌繋がないと、松山までの生徒を運びきれない。機関車「やえもん?」を前後に連結して、 "ピーポー・・・ピーポー" と汽笛の相鳴よろしく出発進行してい
太平洋戦争が始まり燃料石炭が不足してきた時の機関車「やえもん」の奮闘ぶりは、五年間お世話になりつづけた通学生の一人として、涙なしには語り継げない。
戦争が激しくなるにつれ、石炭は木炭ならぬ松材の薪に代替されていきました。薪火力の弱さは、出発進行時の蒸気圧を十分には昇げきれなかったかと思います。
双子の機関車「やえもん」の前後二輛が、力を合わせて重信川鉄橋の登りを一気に越せるかどうかは、乗客・生徒が学校に遅刻するかどうかの分かれ目でもありました。
重信鉄橋に差し掛かると、 シュッツ・シュッツ・・シュッツ・・シュッツ・・・シュッツ・・・シュッツ・・・・蒸気シリンダーの吐き出し音の間延びの度合いを、全乗客・生徒は互いの目と目を見合わせながら息をのみ耳をそばだてて聞き入ります。賑やかだった車内に静寂が流れる一瞬です。
シュッツ・・シュッツ・・・シュッツ・・・・・シュッツ・・・・・シュシュッツーーーーシューーー・・・・
今日もまた重信鉄橋越えは、やり直し未完のの憂き目を味わいます。
「ぼっちゃん列車」は、済まなさそうに機関車「やえもん」に前後をガードされながら、いま出発したばかりの岡田駅へと重信川堤防のスロープを静かに引き返します。
岡田の駅につれ戻された「やえもん」は見るも気の毒な形相です。石炭代わりにうず高く積み上げられた太い割り松の代替燃料を、焚口めがけて抛りこむは!抛りこむは!、でも気缶の蒸気圧は思うように上がらない。
"きゃろー!畜生!今度あのスロープを上れなかったら、生徒は遅刻だぞ!
こんな滓みたいな薪炭配給しやがって!"
" ピー…ピーポー… "
前後の「やえもん」機関車の相鳴応する汽笛がようやく響きわたります。
"きーてーきいっせーい しんばーしをー…"
今思い出しても、これはまさに伊予路を悠然と走る、明治の鉄道馬車そのものの姿だったでしょう。
あえぎ…喘ぎながらも何とか重信堤を登りきる。あとは一気呵成、遅刻ぎりぎりの生徒達を市駅まで送りとどけるべく、ひた走ります。
重信堤を登りきった「やえもん」と "やれ やれ" 顔の乗客には、窓外の風景がせめてもの慰めでした。
石槌山系の連山を背に、秀嶺谷上山系の緩やかな稜線が左右に流れ、その手前には手入れが行き届きよく整備された南北伊予村、岡田村辺りの田んぼが広がっています。
「 うしろの山に登ったら 山の向うは村だった 田んぼの続く村だった
つづく田んぼのその先は 広い広い海だった 青い青い海だった…」
ひねもすのたりのたり、動こうか動くまいか思案にくれたかの瀬戸海の一帯は、昭和初期の小学国語読本の一文に、ゆらりと身をゆだねたように眠りこけています。
せくなよ!、ゆっくり行けよ! 戦時一色といわれた当時にあっても、人の「ひと」らしいゆとりの息吹を忘れない、悠々一幅の絵画みたいに過ごす伊予路の里がありました。
石槌や ほとけ寝すがた 小春かな 東洋城
この通学列車のもう一つの大変は、同じ列車に松前駅から乗り込むおたたさんと、すでに席占めして、てんでに参考書など読みふけっている生徒達…汽車通学の中学生・女学生との車中の三十分間です。
彼・彼女達にとっての車中三十分は、大切な学習時間でもありましたから、きまって繰り広げられるおたたさんとのやり取りは、かけ引きの無言劇を見る思いの一幕でした。
言葉を交し合うなどという生易しさしい雰囲気は所詮望むべくもありません。
「そこっ!・・」「どっち!・・」「ちょっと・・ちょっ!・・」「こっち・・ほれっ!・・」
「生徒さん!・・べんきょっ?・・偉いなっ!・・ちーと寄れるっ?・・」
かねさん!おいでや!・・座れるよっ!・・」
おたたさんと生徒、おたたさん同士の声が車内に弾み、一頻り跳び交います。
生魚の匂いが漂う盥が、ただでさえ狭い通路をあらまし占領してしまう。お尻半幅程の隙間があれば、そこは体をねじ込むに十分なおたたさんの座席です。
でも、この喧騒そう長くは続かない。座席への潜り込みが一段落すると、一瞬の静寂、やがておたたさん達はやや抑えた声で、漁や相場の事・これから出向く売り先の事・帰りがけに買ってきて欲しい品々、お舅さんの悪口、なんでもありの世間話の諸々・・・決して聞きあきない話題が、車内をかけめぐります。
生徒達には,繰り返される日常の車中茶飯事とて、一陣の疾風が吹きぬけた後は気に留めることなく、目は再び書物に戻るのでした。
毎朝の一番発・二番発の「坊ちゃん列車]に乗り込んだおたたさん達は、市駅に着くなり、松山市内の行商をするグループ、市駅から横河原線や森松線に乗り継ぎ、道後平野の山手方面へ行商に出かけるグループに分かれます。
余談が長くなりすぎました。母がにこにこしながら話す「狐の尾っぽふり」は、この横河原方面の行商に出向いた おたたさん にまつわるお話です。
母が未だ娘時代、二つ年下の妹と二人して上林の知り合いを訪ねての帰り道での出来事です。
少し疲れたしお腹も空いてきたので、道沿いの棚田の土手に腰を下ろし、 「途中ででもお食べ」 と帰りがけに頂いたいなり寿司を頂く事にした。
「姉ぇーちゃん、後ろのお地蔵さん…お寿司一つ…お供えしとこかー…」
土手の後ろを畦道沿いに十五・六歩ほども行った所に、雑木と竹藪が入り雑じった疎らな繁みがあり、その手前の小川を背に地道沿いの石積みの上に、小っちゃな小屋掛け地蔵さんが祭られていた。
「えっ…あぁーあんなとこに…ほなー、二つもあげときや… 「うん…
お地蔵さんへのお供えを済まし、甘まーく煮上がった揚げ皮に包まれたいなり寿司をほお張りながら、たわいもない話に夢中になっていた。明るい陽射しの下で、若い二人姉妹の話し声はなんの屈託もない。
「なぁー…あの人どなんしたん?…行ったり来たりして…
ほら、あそこ!…鳥居の右…おたたさん違う?…」
気がついた二人が寿司を手にしたまま目を凝らす向こうで、盥を頭にのせた紛れもないおたたさんが、忘れ物でもしたかのように上林への道をスタスタ、 また納得したかのように横河への道をスタスタ。
右に行ったり左へ行ったり、時に立ち止まってじっと何か考え込む様子。
「帰り道からはずれとるわ…どしたんじゃろ…ちょっと訊いたげないかん違う…」
二人は顔を見合わせ立ち上がった。
「このーー…コラァーッーー!…コラァーッーー!…」
土手を一気に駆け上った姉(母)が、畦道伝いに小屋掛け地蔵さんめがけて走った。
先程お供えした いなり寿司をはじめ、いくつかのお供物を、二匹の小狐を伴れだった母狐?が、美味しそうに頂戴している最中だった。お供物を頂きながら母狐は、その太く長い尾っぽの先を右に左に向き替えしている。
よくよく眺めると、右に左に振り分ける尾っぽの動きに誘われるように、おたたさん も右へ左へと歩く向きを変えつづけている様子でした。
姉のおらぶ大声に驚いて、せっかく楽しい夕餉の膳を囲んでいた三匹の母子狐は、驚いて繁みに逃げ込みます。
おたたさん は?と振り向くと、盥のバランスをとり直すように一〜二度腰をゆすり、何事もなかったかの様に横河原駅の方へ向かって帰って行きました。
皿ヶ峯からの吹き下ろしが少し気になりだした。
「はよかえろぉー…なぁー…」
何事もなかった様に、二人はもう一度お尻の土を払い帰りを急ぐのでした。
「あしたー…雨じゃろか?・・・」 姉がぽつっと呟いた。