愛媛県伊予市一帯の地盤は、阿蘇火山帯脈の上に載っていると言われます。
地質の事はよく分りませんが、和歌山県から徳島県の吉野川沿いを東西に貫く、大断層の延長上にも位置していますから、地質的には多少変動し易い地帯に属するのかも知れません。
この所為か、記録がはっきりしているだけでも、百数十年前の大地震や太平洋戦争直後の南海大地震で大きな被害に見舞われ、その度に海岸一帯の地盤が少しづつ沈下しているようです。
扶桑木化石で知られる森の海岸から、五色浜〜郡中〜新川辺りまでに広がる海岸線のことなど、なぎ(和礁)の思い出など交えながら綴ってみようと思います。
昭和初期から終戦前後までの姿しか描けない私ですが、小学校の同期会に久しぶりに帰省し、その時に見た海岸線の変貌ぶりに、思わず息を呑みました。
遠浅の続く懐かしいあの海岸線、遠い昔の子達の想い出 なぎ(和礁)のある濱 は、幻の浜に変わっていました。
勿論海岸線が一気に消滅する筈はありません。
私が辿れない戦後の長い時期は、列島改造・バブル景気の狂気が、止めどもなく加速を繰り返した時代でした。吾がふる里に例外を求める訳にもいかないでしょう。
あの頃、日本列島の海岸線という海岸線は、その多くが熱病みたいに浮き足立ち、気付いた時には大方が消滅していました。
ふる里の海岸線物語も、どうやら空白に想像を交えながら綴るしかなさそうです。
濱の遠浅は、天変による地盤変化で、少しづつ沈下し消滅していったと云われます。でも、「…それだけなのかなー…?」 この考え方に、私は常々疑問を感じていました。
大きい地震などによる単なる地盤沈下だけではなくて、終戦を挟んで完成した、新しい郡中港の防波堤工事に伴う潮流変化の影響も、大きかったのではないでしょうか。
旧灯台から沖合いに延長された防波堤、旧港への開口を挟んで海岸線と平行に造られた一文字堤防、これらの人工の障害物が海岸沿いの潮流に影響しない筈はありません。
絶えず海砂を運び込んで遠浅の海を維持しつづけていた潮流が遮られ、新たな海砂の流入が減少或は止まった結果、遠浅を維持する砂の収支バランスが狂ってしまったのが、原因ではないかと思うのです。
つい数十年前まで 新川の松原 と呼ばれ地元で親しまれた、あの地域全体の大砂原は、気の遠くなるような年月をかけて形成され続けた土地、大自然からの贈り物です。
遠浅の続くふる里の海岸線は、この大砂原の延長周辺に造成された、浅海の一部と考えて間違いないでしょう。
地質規模の年月をかけた 新川大砂丘団地の一角・その海辺が、 なぎ(和礁)のある濱 の姿でした。
自然は長い年月をかけて、バランスのとれた形を、ゆっくりと造り上げます。
近代技術を手にした人間は、自然の形に自分達の都合だけでメスを入れます。
辺りを見廻して下さい!自然が造る形に直線は存在しません。
人間は直線を至上と崇め、直線的な造形が最高と錯覚し心酔しています。
ニ点間の最短距離が直線などとは、大自然は決して受け容れないでしょう。
なぎ に区切られて続く緩やかな勾配の浜辺、普段は町の人達が意識すらしなかったはま(濱)と引き換えに、伊予市発展の夢を載せた新しい郡中港は、ひたすら完成へと向かいました。
なぎ に話を戻します。
旧郡中港の出入り口を挟む形で、古い灯台に向き合って製陶工場があり、工場の周りは高い防波堤でした。
防波堤の基盤が切れる辺りは、堤防構築の際に投入された岩石で出来た小さな岩場です。叔母のお供で、よく岩のり採取に出掛けました。
岩場から砂地を挟んで最初のなぎが一番なぎ です。なぎは此処から十二番なぎ まで続きます。
一番なぎ から新川の海水浴場辺りまでの海岸沿いに、ほぼ等間隔でなぎが続き、十二基のなぎが単調になり勝ちな海岸線に変化を添えていました。
梢川の川口あたりが三番なぎ 、大谷川の手前辺りが十番なぎ だったように思います。
前後しますが、なぎ と言うのは、砂地の海岸線から沖に向かって、直角に突き出すように造られた、小舟繋留用の小型突堤みたいな岩積み構造物です。
長さは十数メートル、上頂部の幅はニ〜三メートル満潮時の水面からは、数十センチ上まわるほどの高さでした。
先の方に舫い綱を捲く石が、一段高く組み込まれています。
岩積みは緩い傾斜の浜砂面から、かまぼこ型に立ち上がって沖に伸び、先端は緩やかに傾斜して、海砂面に落ち込みます。簡単な造りですが、自然体を感じさせる構造物でした。
なぎ はかなり大きい岩を使って組み上げられていました。干満差の大きい砂浜に、十二基のなぎ をほぼ等間隔に構築するには、かなり高度の技術力が必要です。
重量物の運搬、足場、木組、基礎、岩石組み、構築後の自然沈下対策など等、現在でもそう簡単な作業とは思えません。
なぎ はいつ頃、どのような目的・意図で造られたものなのか…
誰が基本計画を立て、構造を設計し、どのような作業グループが請負い完成したのだろう。工期・工数・費用は…など、知りたいことは山程あるのに、何故か関連する話を聞く機会が一度もありませんでした。
聞きかじりでも残っていそうに思うのですが、変にミステリアス?です…
この辺りの事情をご存知の方が居られましたら、ご教示お願いしたいです。
いつしかなぎは、濱辺に造られた子達の遊びのポイント、海に戯れ海を学ぶ格好の足場、夏休みの貴重な水練道場となり、人々の夏の夕涼み台代りの交歓場へと定着していきました。
堤防下の岩場やなぎには、無数のゲジゲジが棲みついていました。あの辺りの岩場は、ゲジゲジには余程恵まれた住環境だったのでしょう。
ゲジゲジの集団は、海辺のアブラムシ群団さながら、縦横無尽に振る舞います。でも何故だか、陸で見かけるアブラムシの嫌悪感は無く、自由活発に動き回る海辺の生き物とだけ映りました。
『土の掃除屋ゾウリムシの一派が海に追われ、海の岩場掃除屋ゲジゲジに進化したんだとょ…』
『なるほど…道理で体の格好はそっくりじゃ!』 …なぎの独白…
海にはどうやら、人の感覚さえも浄化する力があるようです。
三番なぎで待っとらい! 四番なぎにしょー! ご飯すんでなっ!
灘町と湊町の境を小さな梢川が流れ、海岸に向かう川沿い道路の川口近くに、キリスト教会の建物がありました。
教会の牧師さんにはお子さんが3人いて、末っ子が同級生の松井聖君でした。走りが早く活発な少年で、よく一緒に遊んだものです。
当時の世相からは仕方なかったかとは思いますが、
「アーメン ソーメン かけゾーメン…
かーけたソーメン…うまくないー…」
などと、よく浜の子達にからかわれていました。
転校生いじめなどと言う大げさなものではなく、地元で云う軽いおちゃくりです。松井君は悪びれる様子など全く無く、いつも活き〃〃元気一杯でした。
ふっと淋しそうな表情を見せる時、聖君に
「遊ぼう!…家へ来いやー!」
「また…北海道みたいに…ジャガイモ焼こかー…」
などと声をかけ誘う事もありました。
お父さんの前任地は北海道だったそうです。
松井聖君…お元気なら是非にお会いしたい!
教会の隣は郡中町の役場で、向き合って町のお医者Fさんの建物と、歯医者Wさんの建物が並んでいました。
F医者さん家の玄関ドアーを開けると、鳥かごに飼われた嘴の黄色い真っ黒の九官鳥が、
"コンーニチワッ!…コーンァニーチワ!"
明るい御挨拶に歓迎され、診察の不安が少し和らいだ気分になりました。
この道路が海に突き当たる辺りが三番なぎ 、次の四番なぎ は梢川を挟んで湊町寄りでした。
四番なぎ 辺りから新川寄りの沖合いが遠浅で、波紋の残る広い砂の干潟は、子達の安心・安全な海の遊び場でした。
干潟の上には あまも など色んな海草が置き去りされ、あさり・はまぐりなどが面白い様に採れました。
引き潮の中を腰の深さ辺りまで沖にすすむと、数十尾ときに数百尾の小魚 あたまだし が海面に頭を出して群れ泳ぎ、海面を掌で叩くと一斉に頭を隠します。
間を置くと直ぐに頭を出し、平穏無事の態で群れ泳ぎを繰り返すのです。
この時の頭の出入りが愉快で、みんなで飽きることなく海面を叩きつづけました。
"消えたー…出たー…消えたー…"
… … …
"出ったー…消えたっ…出るぞーっ…"
… … …
顔を漬けて足元を覗くと、げろごちの大きいのと小さいのが、のんきに海砂の上に腹ばって、動く気配もありません。
小さいもんぶくが数十尾、ほかの雑魚に混じってきょろきょろ泳ぎ廻ります。
掬い取って息を吹き込むと、お腹パンパンになってひっくり返り、其の侭チリチリチリ・チリチリチリ・… …と元気よく泳ぎまわるのが面白くて……
子供時代の潮干狩りは、至極簡単な道具仕立てで出掛けます。
それでも子供なりに、小さいバケツの半分近い収穫を上げる事もありますから、貝類はかなり豊富に棲息していたに違いありません。
縦幅数センチ、横幅三十センチ位のしっかりした板に、三寸〜五寸の釘7〜8本を打ち抜き、釘の背側に重い長手の石を括り付けます。その板の中央部にT字型に引き棒を取りつければ狩りの道具は完成です。
出来上がった海砂用の釘熊手で、乾上った砂浜を、無暗やたらと引っ掻き歩き廻ります。でも耳だけはじっと澄まして、
"カチッ・・カリッ・・キリッ・・ギリッ・・キー・・・"
砂中を掻き分け進む釘が、貝に触れて出す音色に全神経を集中します。
音がした時が一瞬の勝負です。のんびりと音源を掘り探っていては、砂の中に潜り込む貝の速さには、とても追いつけません。
「やったー…とれたー…」
「おったー…とったぞー…」
歓声を挙げるのは、数回に一度くらいでしょうか。貝との知恵比べ根比べみたいな駆け引きが続きます。
そこは、子供でも十分に収穫できる海辺…遠浅の広い砂濱でした!
"聞きかじりを少し"
20万種類あると言われる陸生植物中で、唯一海中に生育しているのが、海草あまもです。 約一億年前、地球上唯一の大陸パンゲアが大分裂を始めます。この時パンゲア大陸に生育していた植物相も、分裂して行く大陸夫々の気候風土に順応しながら、気の遠くなるような年月の進化を試み続けました。
この分化・進化の結果が、現存する20万種の植物相だと云われています。あまもはパンゲア大陸分裂の際、浅い海辺に住みつくことで種の絶滅を免れた、海中に生育する唯一の陸生植物なんだそうです。
"あまも" 大切に可愛がってやらねば…
あまも の進化学説など聞いていますと、学究の方々は凄い想像力で対象の実証に取り組み、学説を確立するものだと感動します。 と言うか、少なからず唖然ともしますが…
水深数メートルの浅瀬と適当な潮の流れ…
躯体を支える砂地と日光をよく通す透明度の高い海水…
これが あまも の生育を快適に保つ条件だと言われます。一億年の間、海浜の浅瀬で生きる術を探ってきた海の陸生植物 あまも の主張でもあります。
還って欲しい自然や海辺環境への、単純明快な提言と云えます。 "良いですね!"
あまも は、そう遠くない昔、全国何処の海岸線でも見られた、極くありきたりの海草(今や植物なんですが…)で、精々海辺で子達が拾って遊ぶくらいでした。
なるべく長いのを何本か見つけ、幅1センチ足らずをくるくる捲いていきます。無くなると次を重ねて捲きつづけ、出来あがったあまも製巻尺の大きさを競います。
勝負がつくと次は、このあまも巻尺の一端をしっかり持って、 何処まで遠くへ投げられるかを競う…勝負はこれまで…まことに単純極まりない遊びです。
自然環境に就いて考えていると、昭和初期の自然が良い指標かも…そんな気がします…
「昭和初期の自然って?」
動きは緩やか、気持ちはゆったり、いま巷に喧しい自然回帰とかの自然は、意識すらしない周りに一杯でした。ひとびとは、豊かではない生活を、日々豊かに生きていました。
人生の早回し的な時間が欲しいなど、誰一人考えもしなかった。会話にオチを欲しがる等の馬鹿げたTV的発想は、人々の日常会話には無縁でした。
互いのま怠るっこさを気にする事もなく、ペースを認めて譲り・労わりあっていた。
人が「ひと」らしく生きて過ごす、緩ったりと流れ漂うような時間が、この時期には未だ流れていたように思います。そんな時代の自然って…一応はイメージは出来るのですが…
でもあの頃は、自然と言う言葉も、生活する場の環境も、日頃の意識にすら無かったと言うことでしょう。
「お天道さまが…」
「お天道さまに…」
「おてんとさん 見てるから…」
「おてんとさん 知ってるよ…」
「いい天気! 天道干…てんとぼししょー…」
思い出す懐かしい言葉です。
今は海辺の話しです。海辺の自然を考えます。
海水浴で立泳ぎする足首に、よく引っかかったあまもは今もありますか?
数少なくなった海辺ですが、砂浜に打ち上げられたあまもを見ますか?
あまもを捲き較べ、投げ競うなどの波打ち際での遊び経験はありますか?
小学低学年の子供が、浅瀬でヤスを片手に、手製の透視箱を覗き込み、真剣な眼差しで小魚を狙う。せめて、それに近い光景でも見かけますか?
なぎのある浜辺は、未だ少しは頑張って残っていますか?
幼い子達が海辺に戯れた、遠浅は残っていますか…干潟は健在ですか?
砂地の浅瀬で群れ泳ぎ、浅瀬の砂にへばり付いていた小魚達を目視できる所はまだ在りますか?
あまもの茂る海の草原の中で、小魚達は生きる営みのリズムを保ち続けました。
子孫を増やし続ける揺りかごの役目は、浅海のあまもがしっかりと担ってきました。
あたまだし、もんぶく、げろごち、あをぎぞ・あかぎぞ、きす、どんこ・・・懐かしい雑魚の群れ泳ぐ、浅海のパラダイスは、今や消えかかってはいませんか。ついこの間、僅か半世紀あまり前には、普通に見られた姿です。
海の浅瀬で遊ぶ子達の足許に、群れていた身近な生き物達ばかりです。
扶桑木の里の海辺に、昭和初期のような あまもの草原 を甦らせることは、もはや難しいでしょうか?
新しい世紀に向かって、ふる里に主張して欲しい…半世紀かけてでも実現して欲しい…テーマの一つと考えるのです。
"なぎのある濱・あまも茂る海辺"
町の多くの人達も忘れかけ、埋もれかけた遠い昔の濱の姿の中に、伊予市の新しいテーマの視点が、幾つか見つかりそうな気持ちです。
遠い昔の郷愁に過ぎない…と、濱や海辺の環境回復は諦めますか?
ふる里の らしさ を主張する21世紀の伊予市の目標に掲げるには、
やはり幻のテーマに過ぎませんか?
四番〜五番なぎ の辺りは、濱の漁師さん達の漁舟が多数、横並びに繋留される場所でした。潮が満ちてくると、横並びの漁舟と周りの海面一帯が、子達の隠れ水泳場に変身します。
繋留される漁舟は、時に十数艘から二十艘に及ぶ事もありました。発動機船は少なく、大方は一挺櫓・二挺櫓の手漕ぎのやゝ大きめ舟です。
舟はそれぞれ、艫から太目のロープに繋いだ錨を砂浜に打ち込んで停泊します。
砂浜から海中に、少し沈み加減に艫まで繋がるこのロープと横並びの漁舟は、犬掻き程度でしか泳げない水泳初心のガキには、絶好の水練場でした。
真夏の午後、真っ黒に日焼けした小ガキ達は、黒ネコ(当時の子供用海水パンツ、簡易子供褌?とでも、生地は少し厚手の黒色綿布)1本締めの裸で、いなせな兄ちゃん然と振る舞います。
砂利混じりの砂浜を、海をめがけて一目散に駆け抜け、水に足を取られて走れなくなると、てんでに勢いよく海に跳び込みます。
チラり後ろを振り向き、叱られそうな大人が居ないのを見届けると、犬掻きの手は目指す繋留ロープを探ります。ロープさえ手にすればもう大丈夫です。
油断すると沈みそうになる顔を水面に上げて、必死にロープを手繰り艫を目指します。
艫に手繰りつけば安心です。一息つくと舟べりに手をかけ、半ば中吊り状態の両足を海面にバタツかせ、全身を使って素早く舳先を目指します。
繋ぎあった舟の間から舳先にかけての空間が、浜辺に居る漁師さんの目に触れにくい安全な所だと、ガキなりに心得ていました。
舟の上には漁に必要な道具やら魚網・ロープ類など、大事な物がいろいろあります。これを小ガキどもに踏み荒らされてはかなわないから、見つかるとこっぴどく怒鳴られます。
チョッピリ怒鳴り声が柔らかい時は、ホッとして舟影に身を寄せ聞き流します。
舟によじのぼって、冷えた体を砂のつかない舟板の上で温めるのは、何とも心地の良いものでした。
見つかっては怒鳴られ、びっくりして立ち跳びで足から垂直に跳びこみ、舟の間に身を隠すスリルもまた、たまらない快感でした。
舟と舟との間を渡り泳ぎ、ロープを伝って潜り、怒鳴られては跳びこみ、立泳ぎしながらスキを見て舟によじ登り、日向ボッコならぬ舟板ボッコを決め込みます。
そんな一夏が過ぎる頃、子達は皆んな、誰に教わったでもない、自己流の泳ぎ技を身につけた、自称 ひとかどスイマー気分になっていました。
決して上手くはないが、波間を漂い掻き分け、我武者羅前に進み・潜り・泳ぐ フリースタイル黒ネコ群団 の誕生です。
なぎ涼み お姉さん達の泳ぎ
盂蘭盆
灘町から湊町そして新町にかけての町筋は、海岸線とほぼ平行に通っていて、町内どの家からも、海辺は直ぐそこでした。町家の人達愉しみの夏の夕涼みは、なぎで過ごす一刻無為の時間です。
「なぎー 涼みに行こか… 「…二番なぎぞ! 「行こ!…「泳いどろか?… 「誰がぞな…えー?…「誰じゃてー?… 「とぼけて…
若い衆の会話は、いつの世も時代も問わない。
浴衣・下駄履き姿で団扇を片手に、或は腰帯に差し、子達も一緒にそぞろ海岸に向かいます。暑い夏の宵、時の刻みも忘れ、誘われるまゝになぎの涼みを求めて、海辺に歩を運びます。
何かをしょうとではなく、暗くなっていく海を眺め、潮風にひと当りし、潮香に己が体を晒して帰れば満足でした。
子達のお姉さん、特に高等女学校(旧制)高学年のお姉さん達の夏の海水浴は、夕日も大方沈む夕方から始まるのでした。地方のお淑やかな年頃の子女の海水浴光景は、当時は先ずこんな状況でしたが、想像できます?
日焼けを避けたい気持ちも勿論あったでしょう。
数人のグループは次々と、なぎの間の海に何人か連立って入り、沖に向かって ゆーっくり 泳ぎ始めます。
夕方の砂浜に打ち寄せる波は、本当に静かなものでした。
パシャー…サラ・サラ・サーー…ツ、ツ、ツ、ツゥーー…
ひたひた… という感じとも違います。あれは波と呼ぶ代物ではないのかもしれない!
耳を澄まさないと波の音など聞こえない静けさの中、一人ぼっちみたいな黙りこくった時が流れます。
昼間あれほど賑やかに泳ぎ、遊びまくった子達の海とはまるで別世界の、重く気だるい薄墨色の波間、吸い込まれそうです。
時にキラりと何かを反射して光り、またもとの気だるさに戻ります。
バシャン…バッシャーン…、ズボッツ…ズボッ…
右手の三番なぎの突っ先きあたりから、四、五人の若者らしいグループが、次々跳びこみこれまた沖を目指します。
高等学校(旧制)のお兄ちゃん?…子達同士は判った様な表情を浮かべ、ニヤッと顔を見合わせます。
百米あまり沖合いにある一文字堤防への一泳ぎか?…
好意的に想像する大人達にも、ことの成り行きは何となく気がかりな一瞬だったでしょう
男女間の交際がままならなかった当時、 なぎの波間のローマンチックなローマンス…
なぎ の砂浜で行われた盂蘭盆の行事が忘れられない。
太平洋戦争の始まる年の2月に父が亡くなり、その年亡くなった新仏さんの灯篭を焼く、盂蘭盆最後の日だったと思います。(灯篭焼きの行事と、お盆の日取りとの関係は、勘違いしているかも…)
灯篭焼きの当事者にそう度々なる訳もないから、この行事がその年だけの催しだったのか、例年そうなのか、現在も行われているのか等は良く分かりません。
一番なぎ〜三番なぎ あたりの濱で焼くというので、読経を済ませ、その日までのお祭り用具一式を持って、家族総出で濱へ出掛けました。
子供心の驚きは新仏さんの灯篭の多さでした。
一年でこんなに沢山の方が死ぬのかとビックリし、灯篭や供物など一式を携えた家族・親族の多さに驚き、人いきれで埋る浜辺の異様さに、思わず母の傍に身を寄せた。
あの日は、宗派を問わない合同行事みたいでした。
すでに濱の一隅では火が焚かれ、その火を取り巻いて読経をあげるお坊さんは、二十人…もっと居たかもしれない。
灯篭・お供物を焼く激しい炎が、なぎの浜辺を昼間のように明るく照らした。
海辺で、あれほど高く・勢いよく燃え上がる炎を、目の前にしたことはなかった。少し怖かった。
お坊さんだけではなく、参列の人々も一緒になって唱えるお経が、唸りみたいに重苦しく炎を取り巻きます。皆と一緒に父を送るというより、まとめて死者を送るうねりの浪に圧倒され、激しく燃える浜辺の光景だけが頭に焼き付いた。
今もこの時のような盂蘭盆の行事が継承されているののだろうか…
一番なぎ〜三番なぎ辺りまでの砂浜が先ず埋め立てられ、新しく誕生した初期段階の郡中港を見る機会がありました。
新しい時代のうねりに引きずられ埋没した、日本各地海岸の縮図を見る想いで、視線の決めようも無く、築港岸壁を黙って歩きました。遠い昔をたどる術はすでに無く、空しく寂しかったです。
戦後郡中町復興の流れに何一つ貢献していない者には、古くて良いものの保存を声高に語れる場はありません。長い時の流れの空白に促されて、帰途につくしか無い自分が惨めでした。
重い足取りを元気付けてくれるのは、郡中駅に降り立つ時何時も肌に感じる、表現しようのない空気の温もりです。少年の真っ赤な頬を叩きつづけたふる里の風は、半世紀余の時の流れも忘れ健在でした。
海を背に眺める谷上山系の稜線が、幼い時の記憶を呼び醒まし幾重にも重なります。歩みが緩み、遠い昔の思い出が目線を駆け巡り、思わず稜線が霞みました。
新しい伊予市の発展を、何時も遠くから希いながら、 遠い昔子達同士が過ごし合ったふる里の姿を、何時も思い描いて来ました。
人が「ひと」らしく素朴に生きていた頃の姿を書き留め、今に映したい気持ちにも駆られます。
ふる里を後にした者の、単なる懐古の想いだけでページを埋めても仕方ない事です。
昭和の初期・遠い昔の子達の記憶は、新しい世紀に向うふる里への、備忘のメール便でもあります。時の流れのままに埋もらせたくない想いの一部でも、ページに残せたらと書き続ける積もりですが…