年代の記憶はあまり定かではありませんが、小学ニ〜三年生の頃だったように思います。のどかな町を少しばかり騒がせた、ある日の珍事とでも…
次々と催されるこの地の夏祭りも終りに近い頃、確か住吉神社のお祭り(すみよっさん)、宮島神社のお祭り(みやじまさん) の前後、潮時は丁度大潮の頃でした。
当時の郡中港は、…今はひっそりと遠慮がちに、如何にも内港的な佇まいの静かさですが…中々どうして、地産品の積み出しや必需品の積み下ろしで、目を見張る活況でした。
入港する船(総べて木造船でしたが)からの荷役作業は、沖仲仕(町の人は皆 なかせ と呼び親しんでいました)の専業みたいでした。
重い荷積みで軋む大八車の轍の音が、早朝から町中に活力を漲らせるリズムを刻んでいました。
郡中港と書きましたが、町の人は港をそんな風には呼びません。港は"はと"です。それも波止場の"波止"ではなくて、"波戸"の"はと"だと念押しされます。波戸…はと…はて?
"波止"ではなくて"波戸"にこだわるのは、" 港は単なる波止めなんてもんじゃない " といった、繁栄する町の姿に意識を込めた呼び名、"はと"だったのでしょう。
" 海も波も戸で仕切れば、そこはわし(我)らの町ぞ !! 港はこの町の一部ぞ !! "
活気に満ち溢れていた当時、なかせの行き来する町中の賑わいを映す"はと"のトーンは、忘れられない懐かしい呼び名です。
「はと行こやー…」
「はとで待っとらい…」
「どこぞ?… 牡蠣船のとこか?… 汐湯の前か?… イケカンのとこか?…」
(イケカン(池貫):製陶工場)
「違がわい! 彩濱館の前じゃがなー…」
船荷の積み込み・下ろしは、岸壁と船縁とに渡しかけた、分厚い一枚板の渡し板子の上を往き来する、なかせの肩頼みでした。不安定に軋み揺れる渡し板子、体のバランスに集中したなかせの動き、その動きを支える逞しい筋骨、岸壁沿いの荷役広場に並ぶ大八車…当時の町や港の活気は、子供心を引き込むに十分な喧騒と活力に溢れたものでした。
忙しく立ち回るなかせと、荷積み用大八車で何時も賑わっていたのは、はとの入り口からイケカン前あたり迄の荷役広場でした。
大型木造船は大方この岸壁に横付けされ、荷役中の船の向うには、次の荷役待ちの船が何艘も停泊しています。港の活況はそのまま、当時の繁栄する町の活力を映していたと思います。
「ボラが入ったぞー…」
「ボラが入ったんじゃとー…」
甲高い声と一緒に一人また一人通りを駆けぬけて行く。長い柄のたも(たも網)を担いだ人、投網を束ねて肩に背負った者、新町辺りの漁師さんかもしれない。
また一人、今度は手釣り道具を抱えこんだ青年が小走りに進むが、その表情は意外と緩んでいて、急いで…というには程遠い…
小走りなのに、何となくゆったり愉しそう…町のイベントは急がなくても逃げはしない…
"そう言えば、去年の夏も、大潮の時にボラの群れがはとに紛れ込んで来よったなー"
よく事態が呑み込めないまヽに、声掛け合って後を追う少年達も、その数が少しづつ増え始めた。
「何処ぞー…」
「はとに決まっとらい!…」
「はとの入り口は閉めたんかー?…」
「さっきなっ…網で閉め切ったゆうて…濱で云うとったが…」
一人また一人と、てんでにはとに向う大人達が、とぎれとぎれの言葉を交わす。後追いする子達にも、おぼろげながらはとでの事態が掴めてきた。
" そうか !! ボラの群れがはとに入り込んだんかー !! "
もう説明なんか要らん。子達は一斉にイケカン下を目指した。
そこははとの入口のすぐ横、石積みや荷台などがあちこち散乱していて、はとに起こっている事を知るうってつけの観察地点…子達はよく知っていた。
岸壁に繋がれ荷役中の船や待ち船の間は、伝馬舟が自由に出入りできる水面が確保されており、港の中央部辺りに停泊中の船は、うまい具合にこの日は二三艘ほどです。
駆けつけた子達が見守る"ボラ獲りの舞台"、港内の準備は万端の様でした。何かわくわくと次の動きを期待して、子達は港内に視線を泳がせます。
だけど、舞台の動きは意外なほど淡々と緩やかで、初めは何だか少し拍子抜けの感じすらしました。
そんな中で伝馬舟の数が次第に増え、舟に乗りこんだ人達が右に左に打ちつづける投網漁を、少年は飽きもせずじっと見入っていました。
陽射しが少しだけ傾きかけた所為でしょうか、大八車の荷台から見下ろす海面は少し黒っぽく沈んできます。
船べりから全身を揺するようにして投げ拡げられる投網の躍動は、大きく明るい円錐形の線模様を伴って、円形の波紋を水面に描き続けます。
投網を手繰り揚げる度に、ボラの白い腹が重なり合い、その豊漁振りに岸壁からは嘆声が洩れます。
傍らで岸壁に腰を下ろし、釣り糸を垂れている人も少なくないのですが、その動静など誰一人気にする気配もありません。それ程あの日の投網ボラ漁は圧巻でした。
幅五十米に満たないはとの入口を魚網でふさぎ、ボラの退路を遮断しての投網漁ですから、まるで釣堀での投網ゲームみたいなものです。
"魚網で塞いだ はと の入口"? 入港の船が来たら、一体どうするつもりだった?
少年は投網が捉えた白いボラの腹より、投網が描く空中の網の躍動と、海面の波紋の拡がりを、飽きもしないで追い続けていました。
波紋は夕暮れの海面に、キラキラ眩しく拡がり、迷いこんだボラの群れも、次々かき消されて行くみたいでした。
大潮の所為か、この時期に一度ならず二度も、小さい港に紛れこんだボラの群れ…
港の入口を網で閉ざしボラの退路を絶ち、入港するかもしれない船の入口を閉ざす…
悠々急きもせず漁を愉しむ人、眺める人、チラリ見しつつも荷役大事と励むなかせ…
歓声と嘆声…見入る子達と大人達…投網が敲く水面の音…無為の静寂が流れる…
人の「ひと」らしい生活のリズムは、こんな動きの中で、ごく緩っくりと育っていった…
ぼら(鯔):いわゆる出世魚で、おぼこ・すばしり〜いな〜ぼら〜とど、
慣用句「とどのつまり」の由来、「からすみ」は大形の鯔の卵巣からつくる。
" 新川で栽培されるさとぎは、当時沖縄や台湾から入荷していたものとは、全く別の品種だったように思います。
台湾ものは太くて節間隔も短く、紫っぽい色調でした。これに較べて新川ものは、やや細めで節間隔も長く、青竹のような色調でした。甘味は台湾産よりやや淡泊です。"
これは 日々是好少年 からの引用です。
少年期の さとぎ と たきごみ の追想を補足してくれる記事が、最近の新聞(朝日)に紹介されました。関連する部分の一部を引用させて頂き、所感なども交えました。
和三盆糖といわれる江戸時代の白砂糖は、阿波・讃岐地方で独自に造られて来たもののようです。原料の砂糖黍は、「竹蔗」または「細黍」といわれ、四国の在来種と言われます。この「竹蔗」の根には糖分が多く、収穫は刈り取りでなく引き抜きで、根のついたまま搾ります。
砂糖黍の絞り汁を大釜で煮詰める時、汁のアク抜きやちりを除くために、牡蠣殻の灰を入れます。
アク抜きをした上澄みを煮詰めたものが白下糖、秘伝の「研ぎ」・「圧し」技法で蜜を抜いたのが白肌の和三盆糖、盆の上で三回「研ぎ」をしたのが「三盆」の由来とか。
…伝来技術というものは、表わす言葉の由来も含めて奥は深いです…
因みに往時、和三盆糖の製造は、「しめこ」と呼ばれる人々が専業的に携わっていたらしく、酒造りの杜氏に似て砂糖造りも職人集団の専業だったようです。
「しめこ」は徳島県の山間地の人達で占められていたそうですが、さしずめ "酒の丹波杜氏" に対する "和三盆の徳島しめこ" と云ったところでしょうか。
"大方の「しめこ」さんは、高知県との県境に近い大歩危・小歩危辺り出身の人達で占められ…" なんて勝手な想像を回らしていると、これはもう朝ドラ誕生の素材をスケッチしている気分です。
数十年も前、少年の心に残る・・・新川の 「さとぎ と たきごみ」 の残像・・・は、この和三盆糖の原料になる 「竹蔗 と 白下糖」 の生産現場が、この伊豫の地・新川で細々と生き残っていた姿だったのです。