秋祭り:お神輿さん


前哨戦
 年毎に繰り返し迎える秋祭りは、子達にとって胸おどる亢奮の行事でした。祭りは毎年10月15〜16日が恒例だった様に思いますが、16〜17日かも知れません。

 子達が亢奮する理由はもう一つあって、祭の翌日は小学校の運動会と決まっていたのです。

 秋祭りは、小学校秋季大運動会の謂わば前哨戦でした。
小学校の大運動会は、現在では想像もできない、町中総揚げの一大行事なのです。



 ボタン:スタートピストル  学校に運動場が無かった頃の運動会は…亡母の言を借りますと…  

"昔は水を抜いて干上がった八幡さんの池の底よ…、その次に五色濱の広場になったんょ"

 樋を抜いて池を干上げ、乾いた池底を運動会用の運動場に衣替えさせる里人の智慧には唖然とします。
町の人々は池の土手に腰を下ろして見物したそうですから、まるでギリシャ・ローマ時代の円形劇場:近代田舎版といった所でしょうか…

 運動会の会場が五色濱の広場に移ってからは、楽隊を先頭に全校生徒が小学校を出発し、町内を行進しながら五色濱会場に向かったそうです。町内催しでの運動会の位置付けが、想像できようと言うものです。

 秋祭りと運動会が近づくにつれ、子達の亢奮は日一日と掻きたてられていきます。
運動会を秋祭りの翌日に設定したのも、 "弁当やおやつ造りの負担を少なくしたい" 、働く町内の人達が考え出した生活の智慧だったでしょう。

 
 年に一度だけ買ってもらえる真っ白い足袋ぐつは、子達の昂まる気持を象徴する必須のグッズでした。祭り前夜の子達の枕元には、真新しい足袋ぐつ・鉢巻き用の豆絞り(日本タオル)・肩に襷掛けする真鍮の鈴一式・少し厚手の白い運動シャツ・膝頭の隠れる半長の白パンツなどが、折り目正しく畳んで置かれます。

風見鶏
 「いよいよ明日!…お祭り!…神輿の宮出し、遅れんよう…せなー!」

 着るもん、持つもん、履くもん…よっしゃ 〃 〃 …はよ寝よっと!…」




 お神輿さん 
 半世紀あまりの空白に目を瞑って、小学低学年坊主の頭に残る昭和十年前後の「おみこっさん」の残像を繰ってみます。

 あれから半世紀余り、その間の祭神輿の流れは全く知りません。それが反って、少年時代の残像の純度を、そのまヽ保って呉れているかなどと、勝手に独り合点しながら…

 夏休みも終り、涼しい秋風が吹き始める九月も半ばを過ぎる頃、放課後の子達の足は自然と八幡さんに向かいます。子達のお目当ては、八幡さんの森での普段の薮こぎ遊びではありません。

 秋祭りが近づくと、八幡神社本殿前の神楽殿に、大・中・小三台の神輿が保管倉庫から持ち出され勢揃いします。子達はこの三台のお神輿さんを一日も早く間近に眺めたいのです。



タイトルボタン   神楽殿   タイトルボタン


 (註)
 この神楽殿のある八幡さんの御社は、伊豫ヶ丘古墳群の小高い丘の上にあります。丘の麓の鳥居をくぐり、斜面に沿って設けた石段を上りきると、丘上の広場といった感じの境内に出ます。

子達が思いっきり遊ぶ自由空間でもあった鎮守の森に囲まれた境内は、意外な程に明るく広々としています。
 石段は立派な御影石(おそらく大島産の石)で築かれており、五十数段の石積みはかなり勾配が急で、駆け上る子達の息遣いも結構乱れるほどです。
 石段を上りきった正面が本殿ですが、左右に狛犬を配した本殿の入口正面に神楽殿が配され、手前に下足揃えの横長い踏石があります。昇殿して四周を仰ぐと、天井近くの欄間に幾つか奉納絵が掲げられていました。
 左右の狛犬は大きい石造りの台座の上にどっしりと構え、かなり立派な造りです。御替地郡中地方の経済的な繁栄に、江戸時代中期〜明治初期の一世紀以上に渉って大きな貢献をした大坂商人、砥石問屋和泉屋佐十郎さんほか船問屋の方々の寄進と聞きます。
 狛犬に並んで印象に残っているのが、日露戦争当時を描いた奉納絵です。激戦地の二百三高地の攻防絵図に違いないと、子供の頃は勝手に想像していました。
敵陣を砲撃中の大砲と、負傷した敵兵を介護する日本の兵隊さんの姿が、同じ絵の中に描かれています。
花は桜木・人は武士
 戦争していても、負傷した兵隊さんは、敵も味方もこうして助けて上げてる! 

 奉納絵の描かれた時代は勿論でしょうが、これを眺める昭和初期の子供達や大人達にも、捕虜を虐待するなどの感覚は、誰一人欠けらさへ持ち合わせていなかった気がします。

あの頃までの日本人には、武士道の良い側面が、薄れたとはいえ受け継がれて来ていたに違いありません。
     
 二百三高地の攻防戦では、松山の二十二連隊が乃木軍主力部隊の一つでした。その所為もあってか、この時のいくさで、愛媛県人にも多数の戦死者が出ました。

多くの郷里の戦死者の霊に捧げるため、この絵が奉納された事は間違いないでしょう。
 神楽殿がこの建物の本当の呼び名かどうかはよく知りません。少なくとも雰囲気はその名の感じなので、通称にさせて頂きます。


 
 三台の神輿が神楽殿に並ぶのは、祭りに先立っての 「おみこっさん」 の蟲干しと補修・化粧直しの為です。

 向かって右奥に四角さん、その手前が青年みこし左側に子供みこしと、並び順は例年決まっていました。

 四角さんはどっしりと四角に構え、見るからに貫禄と重みを感じさせる大人の神輿です。 子供心にも何か威圧されるような重量感が伝わりました。鳳凰を模った屋根の飾りには、祭の神事を高くから睥睨する輝きがありました。

 四角さんを担ぐのは、荒くたい濱の 漁師さんや波戸の なかせさんが大方で、これに町の威勢の良い大人達が加わります。





タイトルボタン  タイトル:大人社会の青年達  タイトルボタン


 
 青年みこしは四角さんを一回り小さくしたもので、担ぎ手は当時の青年団に属する若い衆でした。徴兵検査の年令が一応の区切りだったかと思うのですが、二十歳台半ば位までの青年も、この青年みこしのグループに居た気もします。 

 当時の大人社会は、二十歳代半ば辺りまでの青年を中々すんなりと一人前に扱っては呉れません。青年達も仕方ないか…みたいに、自分達の立場を、何となく甘受していた気もするのですが…

 大人社会を構成する人達の役割は、現在では想像もできない程の重みがありました。大人の人達はその責任の重さを一手に背負う容で、日々の仕事を精力的にこなしていたのでしょう。

 子供時代の記憶を手繰っても、大人は本当に良く働いていました…四六時身体を動かし続ける…そう表現したくなるような後姿が印象的でした。

 夕涼みを兼ねた夏場の縁台将棋…一喜一憂する他愛もない笑い声が、昼間の疲れを癒す彼等のささやかな娯楽を包みます。仕事を終えた大人達が寛ぐ町筋には、昼間とは別な顔とゆとりが感じられました。

  一目もニ目も置く何かを、大人社会に感じていたと思います。子供や青年達は、そうする事が当然みたいに、大人を尊敬していた時代です。



 神楽殿の横にやってきた子達は、例年通りの仕草で神楽殿の手すりに顎を載せ、脚立に腰掛けて化粧直し作業中の "おいさん" の手許に見入ります。子達の通称では、"おいさん"は "しんちゅ(真鍮)磨きのおいさん"です。

 右手のボロ切れを、左手に持った缶の中に時々突っ込みながら、おみこっさんの真鍮金具を一つ一つ丁寧に、ピカピカに磨き上げていきます。磨き上げられた金具は、眩い黄金の輝きでした。

「おいさん! きれなるなー… きれいわー… 金じゃー」
「きれーかー?  よぉ光っとろー  ピカピカにするけんのー」
「周りにぶら下がっとる飾りも…  みな磨くん? 」
「おー みな磨くぞー…子供みこしも磨いちゃるけんなー…心配すなー…」

 手すりに顎を載っけた子達は、しんちゅ磨きのおいさんのこの一言に、祭の日を想い安堵の顔を見合すのでした。

     「遊ぼー! 池の土手行くぞー!…」



 祭の朝は早い。宮出しに遅れたら大事! 誘いの声に次々飛び出す子等は、次第に群れを脹らませながら八幡さんへ急ぐ。肩に斜交い掛けした鈴が少しづつ違った音色でリズムを奏でます。
誰かが、 「ワッショイ…わっしょい…」 少し明るみかけた空に向かい大声で掛け声を口にした。

     「ワッショイ・わっしょい!…ワッショイ・わっしょい!」
     「わっしょい・ワッショイ!…わっしょい・ワッショイ!」

     「ワッショイ・わっしょい!…ワッショイ・わっしょい!」
     「わっしょい・ワッショイ!…わっしょい・ワッショイ!」

 急き立てられるように…掛け声は次第に昂まり…足取りも何時しか小走りに…足並をそろえた子達は八幡さんの森を目指します。
豆絞りの鉢巻き姿の頬を紅潮させ、石段下の鳥居を潜ると、一気に五十数段を競うように駆け上ります。

 駆け上った社殿正面には、真鍮磨きのおいさん達の手入れの結晶、ピカピカ神輿さんが待ち受けます。

     「おみこっさん…宮出しー! … はよー…はよ来んかっ!…」 

 
お神輿さんの宮出し 勾配が急で五十数段ある八幡さんの石段は、宮出し・宮入れに関わる担ぎ手にとって、一番の腕の見せ所でした。とりわけ大きくて重い四角さんの場合は、怒声に似た激しいやり取りの連続でした。

 石段の端っこの方で、おそる恐る成り行きを見守る子達も、喧嘩腰みたいに飛び交う怒号の真剣さに圧倒され、黙ってこぶしを握り締めるだけでした。

 重い神輿を大勢掛って、斜め下向きに急な石段を抱え下ろす宮出しです。石段の幅に較べて担ぎ棒が長すぎる所為か、真横に抱き抱えては下ろせないのです。重い神輿を前下がりに抱え下ろす作業は、子達にも握り拳が汗ばむほどのスリル溢れるものでした。

  担ぎ手の大方は、振舞い酒の威勢もあってか、長い石段を滑り落ちかねない程の勢いです。子達はじめ見物衆の誰もが思わず後ずさりする一瞬です。

 終戦後からは今日まで、残念ながら一度もこの宮出しの光景を見る機会がありません。
どんなメンバーがどのような段取りで宮出し・宮入りをやっておいでなのか、何とかもう一度観てみたいものです。

 青年みこしと子供みこしの宮出し・宮入れは、四角さんと較べると楽なものです。担ぎ棒を横抱きに抱えたまヽ石段を下ろせるので、四角さんの宮出しのような苦労は殆どありません。

 子供みこしは別にして、四角さんに較べてそれ程小柄でもない青年みこしですが、スマートな造作の印象が強くて、軽快な若者の練り姿なのに何となく物足りない感じでした。


アイコン:青年 
 あれは秋の祭ではなくて春祭りだったかも知れません。
国鉄の線路堤と交叉する梢川沿いの地道を、二十名足らずの担ぎ手の一団だけの青年みこしが、勢いよく走り抜けて行きました。その姿を二階の教室から校庭越しに眺め、妙に印象深く記憶に刻まれています。

 地元青年団中心の練りだったのでしょうが、ただ勢い良く走り去った感じだけが残こりました。

 当時の青年団は、大人と子供との狭間で、どちらつかずみたいな存在?そんな気がします。

 やがてお国の爲にとかの言辞に翻弄されていく世代、そのギャップのもやもやを予感し、何かを探ろうと挑戦し始めていた世代、そんなお兄さん達の気持など知る術もない子供達の一人でした。

「俺達の事も忘れるなっ!! 

 自棄糞みたいに疾走って…! と呆れて眺めていたのは、子達の浅はかな勘違いだったかも知れません。




境内の餅撒き
 八幡さん秋祭りの宮出しの事など書きとめながら、確か昭和十一年前後に境内で催された、餅撒き行事の情景をふと思い出します。

 郡中町・村公開の境内での餅撒きなど、滅多に催されるものではありません。私にもたった一度の経験ですが、当日の記憶は意外に鮮明です。

 公開餅撒きの催しは町中に知れ渡っていました。町・村の氏神様つまり八幡さんに関わる何か、例えば本殿の改築・改修とか、社殿の新築或は屋根の全面的葺き替えなど、かなり大規模な工事の完成を祝う行事だったのでしょう。

 当日は広い境内一杯の人だかりでした。人波のうねりは子供達を押し潰さんばかりで、人波の怖さを初めて経験したような気がしています。

 人波の中では、濱の漁師さんの姿が一層目立ちました。漁具の大きい たもを持ったいかつい姿が、人波の其処彼処に見られ、その周りは人いきれで熱気さえ漂っています。訳のわからない怖さを感じて、私は人波の端っこの方に避けていました。

イラスト:見上げる子供達 本殿・神楽殿に向かって左側から、拝殿正面を取り囲むように餅撒き用の舞台が誂えられ、張り巡らされた紅白の垂れ幕が行事の賑わいを盛り上げていました。

 境内の人波は数百人を数え、撒き台に姿を見せた関係者も二・三十人は居たでしょう。幾つもの大形の三宝みたいな容れ物に、丸餅が山積みされているのが見えます。


「あの餅全部撒くんじゃろか?…えらい仰山なこと…」


 餅撒きが始った別に何の合図もなく、突然餅があちこちに降り始めました。!

 餅を拾う人も必死なら,餅撒きの人達も懸命でした。沢山の参列者全員に戴いてもらおうと、投げ手は 180°の全力投球です。漁師さんが十数人も たもを手にしてきた意味が、やっと判りました。

 
 餅は勿論当時の貴重な食品でしたが、それ以上に人々が必死になる理由が、私にもやっと分かってきました。撒き餅を手にした人達が、餅を拾う合間に未だ柔らかい丸餅の尻を指で開いているではありませんか。餅の中に様々な当たり籤が封じ込められていたんです。

  当たりには、硬貨(一銭、五銭 偶に十銭 時に大枚五十銭がその侭入っている)と賞品(一等から五等までの当り券)があり、当時としては相当な大盤振る舞いの餅撒き行事でした。

 私は人波がおとろしくて端の方に避けていましたが、その辺りに居る人々の足元にも次々と丸餅が転がってきます。拾い上げようとした途端に下駄に押し潰される餅も多いのです。

 

 人波を避けていた子供らでも、二つ三つ〜五つ六つは拾い上げることが出来ました。撒く餅の量も多く、撒き手の心配りもあったお蔭でしょう。

餅撒きの景品
 確か四つ五つ拾った餅の中に、一銭が入ったのと、三等賞と書かれた紙切れが入ったのが有りました。

 ドキンとした私は、当たり紙券を持って未だ続いている餅撒き広場を抜け出し、拝殿右手の賞品交換所に急ぎました。紙切れと引換えに渡された三等賞は、城戸の "削り節" の入った進物箱でした。

 家でも喜んでもらえそうな賞品を貰ったのに,私は何故だか無性に恥かしい気持ちに襲われ始めます。理由はよく分かりません。"削り節"の箱を小脇に抱えた少年は、大急ぎで八幡さんの裏階段を駆け下ります。

 アイコン:指輪 道々に出会う誰一人そんな小学四年少年の姿など気に留める筈もないのに、少年は少しうつむき加減に化粧箱を抱え、一目散に家路へと急ぐのでした。

 後日この時の事を綴り方に書きましたが、何故だか担任の高橋先生から予想もしないお褒めを頂きました。

「この賞品を貰って帰り道での気持ち、 "恥かしかったので急いで" というところ、
正直な気持ちがよく伝わってくるよ…」

 神社境内で地域の全氏子を対象にしたような一大餅撒き大会、心温まる行事の一齣の記憶を辿ってみました。昭和十一年の春か秋の頃、地域の発展を発信し続けていた町:郡中の、隆盛を示すある日の悠々イベントだったのでしょう。



イラスト:段落の区切り


 
お神輿さんの町内練り 宮出し神輿は石段下の鳥居をくぐり、ここで町に向かう本練りの態勢を整えます。

 四角さんの後に付いて走りたい子達もいます。下手にうろうろしていると、怒声に弾き飛ばされそうなので、後ろ周りを取り巻くようにして、じっと様子を伺います。

 八幡さんを出て緩い下りの田圃沿いの道を、貫禄のある四角さんが緩っくりと練り始めます。

 練り神輿に負けまいと、後ろから追っかける子達も必死です。

 八幡さんから町までの道中は結構あり、棚田沿いの地道を縫うように練る神輿さん…今なら差詰め、ビデオ片手に走りまわる好事家が、 "絶好のカメラアングル" を求めて走り回る事態でしょう。

 村の松本小学校を右手に見ながら練り進み、国鉄の線路堤を越えると町の小学校です。小学校を左下に見ながら梢川沿いを走り抜け漸く町中に入ります。

 四角さんに続いて青年みこし、最後が子供みこしです。子供みこしの前後は、青年団のお兄ちゃんがガイドし、担ぎ手はいっぱし兄さん気取りの小学五・六年生と高等小学校のお兄さん生徒達です。
交代したくて待ち構える子達が神輿を囲み、鉢巻・たすき・足袋ぐつ姿で続くのは、低学年のガキ伴走集団です。

「わっしょい…ワッショイ…わっしょい…」

 明るい色に染め上げられた飾り綱に片手を添えて、神輿の安定を取りながら伴走するお兄さん達は大変です。中に交じって団扇を腰に差し、見様見真似で差配している?かの子達も居ます。
数年後の青年みこしの.担ぎ手は彼等で決まりでしょう。

 町中に入ったお神輿さん三台は、伊豫鉄郡中駅前の広場で一服し一息入れます。
八幡さんから町までの長い道程の練りは、中々の重労働です。神輿も担ぎ棒の前後を支持台(台の持ち運び役は大変です)上に載せられて一服します。

 神輿が台上に収まると、時と場所に関係なく皆んなで神輿の屋根を "ポカポカ…ボカボカ…" と叩き合います。同時に四隅の飾り綱を引っ張って、綱に取りつけた大鈴を鳴らします。
担ぎ手はこれでやっと安心・ご放免です。

     アイコン:子供達    お弁当    イラスト:お接待さん    アイコン:お弁当    アイコン:子供達    

 青年みこし、子供みこしも同じように四角さんの脇に陣取ります。

 休憩に入った神輿と担ぎ手さんの周りを、何時の間にか大勢の白エプロン姿のご近所のお接待さん方が取り囲みます。
大きい寿司桶には、いなり寿司・ばら寿司の握り・押し寿司・握り飯・時に赤飯の握り・たくわん・姿焼き・裂きするめ等などが並び、お茶の他にコップ酒もたっぷりと用意されています。

 子達にはお握り・たくわんなどの他に、波せんべい・塩せんべい・動物ビスケット・飴玉・グリコ・森永キャラメル等などが紙袋一杯です。質素な普段の生活に慣れている子達にとって、お接待の品々は本当に嬉しいものでした。




 当時の郡中町は、伊豫郡内は勿論、経済的には中予地方いや県内屈指の隆盛を誇っていた時代でした。
 この隆盛のシンボルが郡中港:通称 "波戸" の活況でした。
 回漕店を中心にした海運業、"波戸" を取り囲むように立地する製材工場、「削り節」に代表される加工食材、近隣の農山村からの "びわ、みかん、なし" などの豊富な果物類、さらには町内に店を構える卸し業者が、全国規模で集・出荷する県内向け必需産品の数々…
 町の経済活動の活況は、"波戸" と町中を行き交う "なかせ" と "大八車" の賑わいに代表されていたでしょう…。
 こうした町内経済を主に仕切ってきたたのは、御替地後にこの地を開拓し、町造りを手掛け、灘町・湊町の繁栄に繋いだ町家衆の存在があります。
 町家衆は遠く大坂商人の協力なども得ながら、三百年余に及ぶ意欲的な経済活動を展開し、夫々の分野で町発展の強固な素地を造り上げてきました。
 昭和十年前後と言えば、町内の経済活動が最盛の活況にあった時期ではなかったでしょうか。町の子達にも、活力と発展の気概・自信に満ち溢れた我が町という印象が、自ずと植え付けられて行った気がします。
 町に住む人達、訪れる人々の会話にも、日々の生活への自信と活力が漲っていました。確かに元気一杯の町でした。


                         

 町中の練りに備えて一休みした三台の神輿は、四角さんを先達に町中の練りに向かいます。練りの道順や練り込む町家は、例年略々決まっていた様です。

 湊町と灘町の町筋には、家の奥行きが数十メートルもある町家相当数が軒を並べていました。発展を続けてきた町の活性を象徴する独特な町並みです。。
町内の経済活動に様々な形で貢献してきた町家の人々には、何も無かった牛飼ヶ原の荒れ地に、郡中町を立ち上げた開拓者的な自負があり、格式を大事にし尊重し合う気概は根強いものがありました。

 四角さんが練り込むのは、こうした町家の中の主だった家々です。
家々の入口土間に練り込みますから、入口は相応の広さと高さが必要です。幸い大方の町家は間口が四〜五間以上あり、高さも十分で土間も広く取ってありましたから、神輿さんを受け容れるには十分な建屋構造でした。
青年みこしと子供みこしは、夫々が四角さんのお伴神輿の立場で、練り込む町家の外で待ちます。


波(並み)煎餅・姿焼き・ばら寿司の握り

 


 神輿の練り込みが予定されている家々では、朝早くから受け入れ準備に追われ大忙しです。

 その年の無事や商売繁盛を祈念する御祓いの御神酒、振る舞い酒、ばら寿司の握り・きつね寿司または海苔巻き握り飯・するめや町の名産姿焼きなどのつまみ、湯茶の接待準備、採り箸に採り皿・菜箸に割り箸等々…使い捨て容器など無かった当時の事とて、受け容れ準備は結構大変でした。

 本神輿(四角さん)の受け容れ・接待は、すべて表の店の間に準備します。

 青年みこしや子供みこしの担ぎ手、伴走する大勢の子達に振る舞う品々も蔑ろに出来ません。小っさい子達には、小袋に入れた "波せんべい" を配るのが我家の恒例でした。
因みに広場の岡本菓子店製の "波せんべい" は、厚みもあり適度な砂糖味は絶品で値も安かった。普段わが家でも、この "波せんべい" がお八つの定番でした。

 子達向けの菓子入り小袋は、店入口に設けた吊り上げ式大戸の上に纏めて載せます。店に顔出しする子達一人一人に手渡すには、ここが一番手っ取り早くて便利な置き場でした。

 本神輿の町内練りは、広場を通って先ず湊町に向かいます。
何軒かの町家に練り回った後、突如甲高い歓声と共に、四角さんが威勢よく店の前に表われます。担ぎ棒を手許に降し、前後左右を取り囲んで慎重に神輿を店内に繰り入れ、建屋に当てないよう注意しながら、出来るだけ土間の奥まる位置まで進めて呉れます。

 頃合を見て、元締めみたいなおいさんの張りのある大声が響き、次いで… 

 " よいやっ…よいやっ…よいやっ… "

 胴揺すりに近い胴上げを二度三度繰り返すと、土間の前後に支台を置き、慎重に本神輿を載せます。神輿を載せると同時に担ぎ手の皆さんは、申し合わせたかの様にお神輿さんの屋根を "パタパタパタ………" と、自棄糞みたいに叩き合います。続いて

" おーっ… おーっ… "
両手を二度・三度、中途半端に翳し挙げます…
「 ご苦労さん… お疲れさん… 」

  待ち構えた家族一同の労いの挨拶…続いて、笹竹の笹だったか・ナンテンの葉っぱだったかを挿し込んだ大型のお神酒徳利を手にした父親が、お神酒の酒を神輿に二度三度とふり掛け,商売繁盛と家内安全を祈願します。

  お神酒徳利を置く間もない感じで,大急ぎの接待が始まります。神輿に伴走してきた子達へのご祝儀菓子袋の手渡しは、家の子供等の受持ちです。

  もう何軒も町家を練り回って来ていますから、大人も子達も皆なが皆接待を受ける訳でもありません。それでも店先は人の出入りで暫時ごった返します。

  神主さんが一緒に入ってきて、神輿に向かって短い祝詞を上げていた記憶が一度だけあります。その年に何かがあって、特別にお願いしたのかも知れません。

 接待が一段落した頃、元締めみたいなおいさんに、親父がご祝儀袋を手渡します。これを潮に本神輿は次の町家へと向かい、青年みこしと子供みこしも続きます。町家への練りを終ヘると、神輿は藤村石油前の狭い道を浜の方に向かいます。
濱の湊神社(私達は恵比寿さんと呼んでいましたが)で午前中の練りを打ち揚げ、午後に備えます。

 午後は灘町の練りに向かいますが、湊町の子達の神輿伴走は、大方が午前中で終えていたようです。
それでも壽楽座前の広場でお接待を頂いた記憶も有りますから、午後のお菓子貰いの遠出に、灘町まで足を伸ばすことも何度か有ったのでしょう。


イラスト:壽楽座

 今は壊されてしまった(昭和三十年代末頃?)と聞きますが、芝居小屋 "壽楽座" は全国的にも胸を張って誇れる、郡中町の凄い歴史的建造物だったのではないでしょうか。本当に残念です。
 本格的な回り舞台や幅の有る重厚な花道を備え、花道横の桝席や舞台を取り巻く様に配置された二階席には、木製の瀟洒な手摺の仕切りもありました。
 芝居が立つ日を報らせる大屋根上に突き出した小さな櫓太鼓楼、木戸銭を払う小屋入口手前にあった人溜まり用の広場、下足番前入口土間のさり気無い空間、建屋全体を包む瓦屋根構造の独特な風格など…どれ一つ取っても、町家郡中との一体感を主張するに相応しい、素晴らしい建造物でした。
 幟を立てた寿楽座前の広場で、当日芝居掛けする出し物の宣伝に出向く "チンドン屋" の出発準備姿は、通学途次の小学生を立止ませる愉しい見物でもありました。
 壽楽座での印象深い出し物は、何と云っても "デコ(人形)芝居" でしょう。デコ芝居見物は皆弁当持参でしたが、終演の三十分くらい前になると、子供はただ(無料)で入れて呉れました。
 戦後の食糧難の時、有名な中央歌舞伎の一座(猿之助?)の公演もありました。いくら地方に、当時不足していた食料を求める意図があったにしろ、寿楽座という舞台小屋無しには、実現しなかった公演でしょう。
 壽楽座の取り壊しを聞いた時、得るは百年失うは一瞬という歴史的喪失感みたいなものを、呆然と感じてしまいました。取壊すには余りにも惜しい、郡中町の誇れる歴史的資産だったのに…
 私には終戦間もない頃、町の人々の沈んだ気持ちを少しでも明るくしようと、町の青年有志が立ち上げた楽団 "青空楽団" の事が忘れられません。 "青空楽団" の旗上げ公演がこの寿楽座であり、娯楽に飢えていた当時の町の人達に、熱狂的な元気づけの場を与えてくれました。当日の凄い亢奮の様子が,今更の様に思い出されます。 "青空楽団" のリーダー木村さん・・・通称はTさん、有難うございました。 御元気なんでしょうか?


お神輿さんの喧嘩 最近よくTV放映される "神輿の寄せ練り" のような観光的な定番イベントとは違って、記憶に残こる神輿の喧嘩は、郡中町つまり八幡様の神輿と隣接する町村神輿との正味の "みこしげんか" でした。

 はっきりと思い出せる喧嘩は二つ位ですが、何処かで毎年の様に繰り返されていた様に思います。

 神輿の喧嘩ですから当然相手神輿が要ります。小学低学年の頃、昭和十年前後の記憶を辿る訳ですが、相手方が何処の神輿だったか、はっきりとは思い出せません。

 お相手は郡中町を取り巻く町や村しかありませんから、松前町か郡中村又はその周辺に限られます。祭りもお昼の二時〜三時頃になると、近隣の町村共あらまし町・村・集落内の練りも終え、一杯機嫌の担ぎ手さん達が良い気分の捌け口を探り始めます。

 よく分からないのは、郡中町周辺地域の祭りが、お宮さんが違うのに同じ日に行われていたらしい事です。そうでないと、喧嘩相手の神輿がその日宮出ししている筈も無いでしょうから…

 松前町か地蔵町だったかはっきり記憶しませんが、当時間違い無く一度は、この隣町との"みこしげんか" がありました。郡中村の稲荷神社?かの神輿とも大競りの大喧嘩をやった筈です。


 余談になりますが、郡中町のある伊豫郡はもともと松山藩の御領地だったのです。所が松山藩内にあった大洲藩の飛び地・風早郡等との領地交換で、伊豫郡と浮穴郡が大洲藩領地になりました。

 それ以後は近隣地域の人々からは御替地などと呼ばれ、住民夫々の権利関係の帰属や配分等をめぐる争いが、絶え間なかったと聞きます。
漁業権をめぐる松山藩松前町との争い等はその典型例で、紛争は長く続き、粗くたい住民気性もあって、松前町との対立は時に危険を孕む場合もあったようです。


見出し:喧嘩:湊町篇
 確か昭和十年前後です。町内の練りを終えた担ぎ手さん達は、一杯機嫌も手伝って持て余した精力の捌け口でも探したかったのでしょう…

 休憩場所の壽楽座前から、何処という当てもないままに四角さんを担ぎ出しました。ゆらゆら…ゆっさゆっさ…と、最初は練りの大役を無事に済ました気分を、ゆっくりと味わいながらの練り戻しに過ぎませんでした。

 暫くして顔色を変え殺気立った面々に担がれた四角さんが、新町の方から仲田酒造店前辺りまで駆け戻ってきます。担ぎ手の面々が口々に呶鳴りまくります。 


「やられたー」…「加勢…はよ呼んできて!」
「大急ぎで綱!…はよ持って来んかー!」 

 どうやら新町の外れ辺りまで遠征して、松前町の神輿とやりあったか?、多勢に無勢で大分小突かれたらしい。

 松前町の神輿はそのまヽ新町の辺りで一服している様子…

 加勢が次々と駆けつけ、太い綱を神輿の屋根から胴下を通して襷掛けし、襷掛けした綱の周りをもう一方の綱で、何重にもグルグル巻き込んでいきます。捲き終えて固定した綱は後方に長く伸ばし、後退用の引き綱に仕立て上げます。

「来たぞー…はよ!前上げんかー…なんしとるんじゃ!…」 

 どうやら守りの対応が一瞬の遅れをとった様です。

" ドーン…ズーズーズッ " 

 遠巻きに見物している子達にも聞こえる程の音がして、胴突きを食らった神輿から何やら飛び出ます。
してやったりと相手神輿は、半鐘櫓の下辺りまで一気に引き下がり、新川の方にゆっくり引き上げます。

「いかん…御神体が出てしもたー!
はよ拾ろわんかい!…罰ち当たるぞー!…わやゃー」  

 こんな事もあろうかと,万一を心配して近くに控えていた若い神主さんが、大急ぎで御神体を受け取り、神衣の袖に包み込みます。

     「おーぃはよっ!人力車呼んだげー…誰でもかまん…車屋その先にあろがー…」

 当時の郡中町には未だ "人力車屋"さん が営業中で、湊町の "車屋" には車が確か三台在りました。伊豫鉄郡中駅前と灘町それに栄町にも"車屋"が一軒づつあり、夫々二・三台の人力車を常駐させていました。

 大急ぎでやって来た人力車に、御神体共々乗り込んだ神主さんは、

     " ヒュー…フュー…"・・・ " ヒュー…シュー…" 

とか聴きとれる…お祓いの祝詞みたいな、澄んだ声を長々と残して、大慌てで八幡さんへとご帰社?です。


 背筋を伸ばし御神体を白無垢の神衣の袖で覆い隠した神主さんが、幌を畳んだ人力車に乗り、一段高い目線で人波を掻き分けるように、駆け抜けて行った情景が忘れられません。

 神輿に御転座願った御神体を、外界それも衆人環視の中に晒すなどは、以てのほかの大事だったのでしょう。

 御神体不在の神輿に、担ぎ手・勢子連中の信仰心が多少緩んだとしても、責めるのは酷でしょう。なんせ漁業権を始めとして、隣町松前と事毎に張り合ってきたお替地衆の意地も、久しぶりに頭を擡げているのです。

 半鐘下から先を見据える形で、馬通し(馬繋ぎ)のある西岡砥石店前辺りに陣取った四角さん、愈々本格的な合戦?準備に取り掛かります。

「あの綱…運動会の綱引きの綱ちがうん?」

 子供の目には、そう見える程の太いロープを使ってのお神輿御本体の防護が始まります。

 二本づつ十字に襷掛けしたロープを、もう一度グルグル巻きする容で、神輿本体を補強していきます。
屋根上の鳳凰飾りは取り外し、担ぎ棒も一渉り長手の戦闘用?の棒(当時は、こんな物まで準備していたのか…)に取り替えられます。

こんな太い綱をグルグル巻きすれば、相手に胴突きされてもきっと跳ね返せる…そんな心強さを感じながらも、子達は震え上らんばかりの興奮に包まれます。

 四角さんは、まるで綱の鎧を纏ったみたいでした。最後に二・三本の巻き綱をしっかり束ねて、引き綱も補強し後方に長く伸ばします。引き綱は突き合った神輿を素早く引き戻し、次の攻撃態勢を整える大事な役割を担います。

「来たぞー…来た・来た!」 
「どっちぞー? 何処におったんぞー…新川の方じゃてー…
    先っきは…いんかったじゃろげー…いたんかー?」
「増福寺前の道向いて…線路越して来よった!」
「あそこら辺の…どこぞに隠れとったんじゃろげ…」

 先ほど小競り合いした松前町のらしい神輿が、突如激しい競り声を響かせながら、目の前にやって来ました。

 お大師さん前の半鐘下辺りまで来て、壮んに挑発的な気勢を挙げます。担ぎ手や従う勢子の人数も増え馬鹿になりません。     " やられるー " 

と思う暇もなく、咄嗟に神輿を取り囲む…肉弾戦と言うより、これはもう神輿の人海戦みたいです。

     「先挙げー! 一杯じゃー! もっと寄れー…寄らんかい!」

 神輿後ろ側の担ぎ棒の両側に張りつく担ぎ手、片足掛けで神輿の屋根に取り付く者など混乱を極めます。神輿前方の戦闘用担ぎ棒は斜めに天を指し、まるで咆哮するお神輿さんです。

 担ぎ棒の先で相手神輿を突き破り、先程の意趣返しを試みるつもりです…見れば相手神輿も同じ格好です…それどころか…相手神輿の屋根上には人一人が取りつき、扇子を口に咥えいきり立っています。

「行けーーー…」  ドズーン  「引けーーー…」 … ズーズ・ズーー 
「突けーーー…」  ギシ・・ガジー  「下がれーー…」 ズ・ズーー・ズ …  

 担ぎ棒を空に向けて角突き合わせ、引き綱で地道の上を滑らせて引く。この繰り返しは一体どのくらい続いたのでしょう…

 激しかった神輿の喧嘩、怒号の中での角突合う攻めぎ合いも、疲れの果てての両成敗みたいなフィナーレを迎えます。

 三々五々と家路を辿る子達に、"今年の秋祭りもこれで終りか…" 一抹の寂しさが過るのでした。 


 
見出し:喧嘩:灘町篇 
記憶に残る灘町の神輿喧嘩は、湊町での喧嘩より一年か二年後の秋祭だったように思います。

 湊町での神輿喧嘩は、御替地郡中町と隣接する松前町との因縁争いめいた事が、多少とも遠因にある気もします。でも灘町での喧嘩は、そんな因縁めいた原因も考え難くいので、喧嘩の発端がよく分かりません。

 お相手は、隣村の稲荷神社さんのお神輿か、或は森・三秋辺りからのお神輿さんだったかも知れません。

 国鉄南郡中駅前通りと本通りの交差点辺りから、郡中郵便局前辺りにかけて、亢奮しきった二台の神輿が攻めぎ合い、黒山の人だかりで身動きもできない状態でした。

 人だかりに恐れをなして私は、婆さんちの大屋根に上り棟瓦に馬乗りになって、文字通りの高見の見物を決めこんでいました。
突然座敷の庭の辺りから、祭りに来ていた叔母のけたたましい呼び声が響きます。

「はよ皆な降りといでなっ!なっ!…はよおー!はよおー!」

「皆で表の戸押しといき!…はよっ!はよせな!…戸が倒れこんでしまうゎ!」

「友達もおるんじゃろー皆お呼びなっ!友達も連れて、皆ではよ降りといでなっ!」 

 通りに面した十枚近い引き戸は、喧嘩見物の人で商品が危ないからと、早々に閉め切ってはいました。

 引き戸が押されて内向きに軋み膨らみかけています。家中の者が総出で、外れそうな戸を必死で押さえている最中です。支えになりそうな物は全部使いきり、親父や兄貴などの顔は、緊張しきって蒼白です。もはや神輿喧嘩の見物どころではありません。

 
 旧郡中港入り口辺り
 やがて激しい怒号・掛け声・喧騒の波が去り、大波の引き落としの喩えそのままに静まり返ります.。折角家の真ん前で繰り広げられた神輿の喧嘩を、その一瞬も観ることなく、その年の秋祭りは幕引きを迎えました。

 秋祭りにお呼ばれして来た叔父・叔母達や大勢の従兄姉妹達も、思わぬ大仕事に付き合わされただけの、神輿の喧嘩見物になってしまいました。

  この日の神輿喧嘩の決着は、どうやら吾が町の勝ちとか聞きましたが、これには大変な後刻談があります。

「おーぃ!…神輿が浮いとるぞー!…青年神輿じゃー…波戸ぞー…」
「製材所の裏辺りぞー … プカ・プカ気持ちよさそに浮いとらいっ…」
「どしたんぞゃ…」
「四角さんが喧嘩しとる間に…やられたんじゃと…」
「あいつら…えらいことやり逃げしよって…くそったれがー…」
「はよ引き上げな…沈んでしまうぞ!沈んだら…どもこもならんぞ!」

 私は濱の子ら二三人と連れ立って、波戸に落された青年神輿の見物に走りました。

 見慣れた青年神輿さんは、K製材とF製材の裏辺りの船止め水面にプカリ・プカリと浮き漂っていました。上から見下ろした青年神輿は、まるで子供神輿が浮いてるみたいに小さく見え、一人ぼっちのはぐれもんみたいで、何だか少し可哀そうでした。

 秋祭りと神輿の喧嘩は、其の年々の祭りの終盤を飾る行事みたいですが、本気の喧嘩神輿はそう度々行なわれた訳ではありません。
昭和十年前後の郡中町と其の周辺の町村には、お互いを喧嘩神輿に誘い込み、御互いの生活のエネルギーを体感し合ってみようといった気概が、人々に満ち溢れていたのかも知れません。

 郡中町は確かに、地域の中核としての溢れる活力に輝いていました。町内の人々の動きはダイナミックで、生活の自信に満ち溢れ、交流する人々の賑わいがありました。皆んな好い表情をしていました。

 町内を駆け廻る当時の子達は皆、溌剌と発展し続けるふる里の姿を、直感的に肌で感じ、幼き日々の記憶に焼き付けてきたと思います。


 前のページへ
ページの頭へ
次のページへ