『近代能楽集』 in LONDON
自分でもとても不思議な気分で、今このレポートを書いている。去年の暮れまで、
自分が藤原竜也に惚れこんでロンドンくんだりまで出かけることになろうとは、
思いもしなかったかったからだ。
人には巡り合わせというものがある。
今まで何10本という芝居を見て来ても、私には藤原竜也と出会う機会がなかった。
今回のツアーに参加することを耳にした知人からは
「なぜ今ごろはまったの?○さんにしては遅いわねぇ」と、実にまっとうな疑問を返された。
なぜ今ごろ…と言われると、面目なくて返す言葉もない。やんちゃ盛りの頃の彼の言動に、
柄にもなく戸惑ったと言うのが正直な理由で、結局今まで一度も彼の芝居を見ずに
来てしまったのだ。実にもったいないことをしたものである。
初めての観劇がロンドン公演、この思ってもみない豪華な出会いに、はて、冷静な感想
など抱けるのかと危惧したが、ロンドンのこなれた観客が、そんな思いを軽く吹き
飛ばしてくれた。彼らは日常生活のごく自然な営みの中に観劇を取り入れており、
それはハレの場所には違いないが、過剰な思い入れのないリラックスした空間なのだ。
チラシもアンケートもなく、開演近くまで飲み食べ寛ぎ、まるでその延長のように
劇空間に入り込んで行く。時にはまるで自分が出演者のように緊張する我々の観劇とは
質が違うのだ。
だからこそ、そんな彼らを異空間に引き込んでいくには巧みな技を必要とし、
なまじな演出・演技では感動などしてもらえそうにない。非常に手強い客だと言える。
おまけに台詞の英訳はプロンプターで舞台上方に現れる。
笑いのタイミングは明らかにずれる。感動しろと言うほうが無理だとさえ思えてくる。
藤原竜也の芝居は初めてでも、『近代能楽集』という出しものは、私は今まで何度も見てきた。
どの物語も、三島独特の流麗な台詞が演じる側にも観る側にもかなりの想像力と知性を要求し、
決してやさしい話ではない。
『卒塔婆小町』は壌さんの当たり役であるが、壌さんにとっては手馴れた芝居でも、
相手によっては輝き方が変わるというということを、まざまざと実感した。
横田さんの詩人はまだまだ浅いように思う。第三者が見ている他人事のように、彼の演じる詩人は
小町から遠いところにいた。
さて、20分の休憩をはさんで『弱法師』。
NHKのスペシャルで稽古風景や本番をちょっとずつ見せられ、半分見た気になっていた私の頭を、
彼は軽々と打ち砕いた。育ての親に「狂人」とまで称されてから現れる俊徳には、
観客のすべての視線が注がれる。だから、よほどのインパクトがなければ、そこで勝負はついてしまう。
しかしそんな杞憂は全く必要なかった。
彼が登場した途端、舞台に光が射したかと思うほどの見事な存在感だった。
伸びやかで、よく通る声。長身で美しい立ち姿。美しいのに、どこかそら恐ろしい…。
人を食ったような、大人をなめきった話し方。そして徐々に現れる心の闇。
「絶叫演技」といった表現で評されているのを読んだことがあるが
(実は私もそれを一番恐れていたのだが)
絶叫というのとはかなり違うような気がした。
勝手にトランス状態になられては観客は置いてけぼりを食らうばかりだが、
そんな上滑ったものではなく、もっと奥の深いところで彼は悲しんでいるように見えた。
俊徳の寂しさが俄に迫ってきて、意外にも胸が震えた。上手いとか下手とかの領域を、
とうの昔に超えてしまっている。
心身共に健康な少年が「一度この世の終わりを見た人間」を演じることの難しさ。
10代でここまで演じきれる人は、ほんとうに彼しかいないと思う。
呆然と席にしばりつけられた状態で、芝居は終焉を迎えた。
一瞬の間を置き、割れんばかりの拍手。手馴れた「ブラボー」の声が飛ぶ。
『卒塔婆小町』のアンコールにはなかった熱気が充満していた。
ブラボーと叫んでいるのは、イギリスの大人の男性たちだ。
乱れた髪のまま、裸の上半身に軽くシャツを羽織った藤原竜也が、風のように登場する。
それだけで場内が沸く。官能の極みである。明らかに疲れてはいるが、真中に立って
お辞儀をする姿には風格さえ漂う。なんて美しいのだろう!
ポツリポツリとスタンディングオベーションが始まる。
周囲を見まわして、それらがむしろイギリス人(男性が多い)であることに驚く。
我々はかなりいい席で見せて頂いたが、一箇所に集まっていたため、
果たして自分達がスタンディングをしていいものか、迷いがあった。日本人だから、
と思われたくない…彼に対する気遣いと、ファンなりのプライドがあった。
アンコールを重ねるうちに、拍手はますます強くなり『卒塔婆小町』のメンバーも壇上に並んだ。
ついに藤原竜也が舞台袖をチラッと眺めて走り、蜷川幸雄の手を引いて出てきたところで、
客席は総立ちとなった。舞台上方から花がパラパラと降ってきて舞台を彩った。
出演者達がそれを拾って客席に投げた。高橋恵子さん、素晴らしいコントロールだった。意外。
芝居を観始めて20数年になるが、こんなに感動したアンコールは初めてだった。
自分の観劇歴の中で最高と言えるものに、やっと私は出会うことが出来た。
藤原竜也は笑顔というより「きつい!」というような表情で客席を見ていた。
その顔はもう19歳ではなかった。
この人を小さな世界に閉じ込めてはいけないと、あらためて思った。