歴史 玉川湖沼の変遷
大山祇神が鎮座された「淀川の御島」付近の地形の変遷です

 4~5000年前の河内湾

 梶山彦太郎氏の研究による4〜5千年前の淀川の流れと大阪湾の古地理図です。
 当時は三島江付近は大阪湾の入江の中心部(茨田緒口1 4500±80年)でした。


 仁徳天皇時代の淀川の御島付近
  (古墳時代初期)

 仁徳天皇が大山祇神を朝鮮半島の百済から招致され、淀川の御島に鎮座された頃の三島江を中心とした湖沼の想像図です。

 三島鴨神社の初めてのお社は淀川の川中州(摂津の御島)にありました。

 桧尾川(安満川)・芥川・安威川(玉川)による玉川湖沼と淀川とが流す土砂が堆積して出来た川中州で、それは唐崎(韓崎)・枚方(白肩)あたりから下流の三島江(玉江)・柱本(柱松)・茨田におよぶ大きなもので、大山祇神のお社を設けたことによって尊敬して「御島」と書いたようです。

 東対岸には玉川湖沼と淀川との合流点で、王都難波を守るために仁徳天皇による日本最初の本格的な治水土木工事による「茨田堤」があります。

 たびたび水害に遭ったでしょうが、後に 三島江(玉江)に遷座されました。

高槻市立今城塚古代歴史館編
 平成23年秋季特別展図録「三島と古代淀川水運-今城塚古墳の時代-」
森田克行「三島と古代淀川水運(U)より

 今城塚古墳時代の筑紫津付近

  (古墳時代後期)

 森田克行氏による今城塚古墳時代の筑紫津付近の地理図です。
 大山祇神が淀川の御島に鎮座されておおよそ250年を経て、土砂堆積と治水により水域も減少しました。
 明治中期の三箇牧地区(1885〜1889)

 大山祇神が、淀川の御島に鎮座されて、おおよそ1500年後の唐崎・西面・三島江・柱本村と番田・芝生村および対岸の出口村付近の地図です。

 明治元年・3年の淀川堤防決壊「八右衛門屋敷切れ」で田畑に堆積した土砂を取り除き集めた小さな砂山(ながやま)が唐崎と三島江の間に多数あります。