迷える人
「ねえ先輩、やっぱ深夜の病棟見回りって、不気味ですよねぇ……」
「まあね。あなたも慣れればどうってことなくなるわ」
先輩の白衣の袖を掴んだままで、私は暗いヴェールのかかったような廊下を進んでいた。手にしている懐中電灯の光が、薄闇を放射状に切り裂いている。あまりにも静かな空間に、私と先輩の声だけが響いていた。
夜の病院や学校というのは、昼間とは全く違う顔を見せる。特に病院は、上から出るか下から出るか(つまり、玄関か霊安室からかってこと……)という場所柄か、そういう手合いの話には事欠かない。とかく、私は怖がりなので、心霊現象が多発するという噂がまことしやかに流れているトイレの前を通る時なんか、首が真っ直ぐ前を向いたままで固まってしまった。
つい最近、ガス漏れで小規模の爆発事故騒ぎがあって、未だ改装中の給湯室の前を通り過ぎたところで、ふと動きが止まった。
「……先輩、ここって確か『出る』って評判の四つ角じゃないですか……? あの世とこの世の境界線がこのへんにあって、時々向こうからすり抜けてくるとかなんとか……」
ゆっくりと、こっちを振り返る先輩。懐中電灯が顎の下にあった。こ、怖い。
「や、や、やめてくださぁいぃぃぃ……」
「ぷっ、なあにその声は。大丈夫よ、大丈夫」
ぺた、ぺた、ぺた。
「ふゃあっ」
不意に足音が聞こえて、妙ちくりんな叫び声をあげてしまった。
「こんばんは」
見ると、先輩がおじいさんに挨拶していた。私も慌てて頭を下げる。薄緑の入院着を揺らしながら、おじいさんはひょいと頭を下げた。そのまますれ違い、ぺた、ぺたというスリッパの音が遠ざかっていく。
「後ろ向いちゃだめよ」
「えっ?」
前を凝視したままの先輩が、小声で囁く。
「あの患者さん、先週亡くなってるのよ……」
ひっ、と喉の鳴る音。自分のものだとわかるのに少し間があった。スリッパの音は、聞こえない。
四つ角を左に折れる時、つい、目をそちらに向けてしまった。
さっきのおじいさんが、手をこちらに伸ばして、何かを言おうとしていた。
「やだっ!」
私は慌てて耳を塞ぎ、目をぎゅっとつぶったまま、慌てて廊下を曲がった。
「昨日もか?」
「ああ、昨日も出た」
「かわいそうになぁ。未だに自分達が死んだこと、わかってないんじゃなぁ」
「わしはあの新人さんに、短い間だったが世話になったからのう。不憫でしょうがないんじゃ。あのガス爆発で、世話焼きの先輩看護婦と一緒に亡くなってしもうて、両足も吹っ飛ばされて……」
「そのことを教えようとしても、いつもいなくなってしまうんじゃなぁ……」
無言を肯定とした老人は、四つ角に供えられた二つのナースキャップを、そっと撫でている。
――了――
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