70%の反乱


 今、私の目の前の安っぽいテーブルに、なみなみと水道水が注がれたコップがある。じっと見つめているだけで、鼓動と息遣いを除いては微動だにしていないこの状態では、当然のことながら水面はわずかな揺れも見せない。なぜ私がこのような偏執的な行動をとっているのか、そのことについて少しお話ししようと思う。

 科学的に解明の仕様がない謎の現象というのは、どれだけ信じる人がいなくても発生するものである。チリからアルゼンチンへ瞬間移動した兵士、幽霊船マリー・セレスト号、バミューダ・トライアングル……。数多いオカルティックな出来事の中でも、近年一際世間を騒がせているのが人体発火現象≠ナある。
 全く火の気がないにも関わらず、突如として薄赤い火柱を上げて人が燃え上がる。骨も残らないほどの凄まじい高温を発しているのだが、周囲のソファやカーペットなどには焦げた跡ひとつついていない……。この不可思議な炎の犠牲者になった人間は数知れない。これまでの長くも短い歴史の中で、世界各国で数例しか報告されていなかったのだが、ここ数年で急激に増加し出した。それも日本を始めとした先進国ばかりで、である。
 買い物をしていて、スーパーの中で突然燃え尽きた主婦。皮肉なことに、4000℃まで耐えられる特殊耐火スーツの試着実験中に、スーツごと灰と化した消防隊員。よりによって、スポーツクラブのプールで泳いでいる最中に、大量の水蒸気を残して消え去った企業の中年男性。可燃性の有機溶剤を扱っている業者の社員は、作業中に「体が……」と呟くや否や、パシュッという火薬が爆ぜたような音と共に蒸発したが、周囲の薬品類には引火すらしなかった。
 物理学者や科学者は皆一様に首を捻るばかりで、こじつけや強引な理論すらも品切れのようだった。「何らかの作用で、ごく局所的かつ強力な静電気が発生した」というのに、彼らの統一見解としては落ち着いたようだが、釈然としない感は拭い切れなかったようで、公式発表のスポークスマンの表情も曇りがちであった。原因不明の恐怖に人類は怯え、パニック寸前までいったのだが、
「結局、事故だって地震や雷みたいな天災だって、自分で防ぐことなんて無理なんですよ。この人体発火現象にしたって、それと同じですからね。びくびくしたってしょうがないと思いませんか」
 誰が言ったのかは忘れたが、どこかのバラエティ番組でそんなことをちらっと口にした人気アイドルのお陰で(かどうかは疑わしいが、多少は貢献しているだろう)、徐々に沈静化したのだった。
 そして現在、この事件の続報としてワイドショーで割かれる時間は少しずつ減っていき、新聞の記事の面積も縮小されて、巷の話題にもあまり登らなくなった。無論、発火現象が姿を消したわけではなく、むしろ増えつつあるような気がする。しかし、もう世間の感覚が麻痺しているのだろう、隣人が被害に遭ったと聞いても驚かないほどになってしまった。慣れというのは恐ろしいものだとつくづく感じたものだ。

 今、私の目の前に、その犯人がいる。
 多分、世界中の誰もこの事実には到達していないだろう。
 私がそのことに気付いたのは、昨晩の残りのおかずを温めているときだった。
「チーン」
 幾度となく聞いた、この何気ない音が、私に閃きをもたらしたのだ。

 電子レンジの機能をご存知だろうか。
 この世に存在する「物質」というのは、例外なく「分子」という単位から構成されている。固体というのは、この分子が規則正しく並んでいてあまり動かない状態、液体は分子同士の間が大きくてそれぞれが可動な状態、気体は分子が自由に動ける状態を指す。そして、この分子の運動を活発にさせ、分子同士がぶつかったり擦れたりして発生する熱エネルギーで物質を温めるのが、電子レンジの機序なのだ。

 人間の体の70%は水分でできている。もしこれらの水分子が、レンジで温められたときのように激しく動き回り、莫大な熱量を体内で生み出したとすれば……。
 タンパク質と脂肪とカルシウムでできた人体など、跡形もなく消え去ってしまうだろう。

 復讐。
 或いは怒り。憤り。
 意志を持った彼等が人間に抱く感情は、そんなものだけかもしれない。
 川を汚し、湖を汚し、海を汚し、挙げ句は雨までも排ガスによって汚しているのだから。
 私は、傍から見れば気が狂ったとしか思われないだろうな、と考えながらも、小さなコップに満たされた彼等に向かって深々と頭を下げた。
 そして、心の中で「すまなかった」と、端的に、しかし精一杯の誠意を込めて呟いた。

 こぷん。

 静かに、水面が揺れた。


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