ぬくもり
とても優しかった彼が、突然私の前から姿を消した。なんの前触れもなく、本当に突然に、「僕は卑怯者だ」という一言と、腕の中のわずかなぬくもりだけを残して。
三日三晩泣き明かした後、彼のお母さんから電話があった。受話器の向こうから聞こえてくる、すすり泣きの声。
長期旅行と偽って大量のモルヒネを手に入れた彼は、一通の置き手紙を机に残して家を出た。「どうか探さないで下さい」とだけ記された真っ白な便箋。綺麗に片付けられた部屋の所々に、痛みや叫び声をこらえるために立てた、柱や畳の爪跡が生々しく刻まれていた。
健康だけが取り柄だ、といつも言っていた彼に突きつけられた、末期癌の診断。
私の前では、そんな素振りはまったく見せなかった。いつも通り、優しく、とても優しく接してくれた。哀しみや、恐れや、絶望の感情なんて、微塵も感じさせなかった。
彼のことは私が一番よく分かっている、なんてとんでもない自惚れだった。彼の苦しみ、痛み、何もかも全部知らずに、当たり前のように「いつまでも一緒にいられる」と気楽に考えていた。それが辛くて、悲しくて、悔しくて、また泣いた。いつまでも、いつまでも泣き続けた。
あれから、彼がどうなったのかは分からない。新聞やニュースも欠かさず見ているが、どこにも彼の名前はない。
誰にも見つからない場所で、ひっそりと逝ってしまったのかも知れない。そう思うと、また涙が溢れてくる。泣きすぎて、そんなもの涸れ果ててしまったと思っていたのに。
その反面、心のどこかで、ひょっこり彼が帰ってくるんじゃないか、と願っている。奇跡が起こって、あの元気で優しい声がまた戻ってこないか、と。
机の上の写真立てには、私の方を向いて、日だまりのような暖かい微笑みを浮かべている彼がいる。いつもと変わらない、いつまでも変わらない笑顔。
そして、彼は帰ってきた。
彼が以前、ベッドの中で私に囁いた。「いつも君のそばにいる」と、小さな小さな声で。言った後に、顔を真っ赤にして照れていたのをよく覚えている。
そう、彼は帰ってきてくれた。私のそばに、私の中に。
そっと掌をお腹に当ててみる。感じるはずのない鼓動、聞こえるはずのない息づかい。
もう悲しまない。悲しくなんかない。
彼が一緒にいてくれるから。
どこかほっとするぬくもりが、優しく私を包んでくれた。
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