最後のメール


 あの時、僕は何を話そうとしたのだろうか。

 大学の研究室で、後輩の学生達を指導する立場だった頃、ある女性と付き合うことになった。「恋に落ちた」などと青臭い台詞を吐くには、僕は少し歳をとり過ぎていたし、そんな甘い香りのするような付き合い方でもなかったように思う。

 他人(ひと)には言えない秘密を共有することは、ある種のスリルを感じた。しれっとした表情で「先生、これはどうなんでしょう?」などと質問する彼女を見るにつけ、込み上げる笑いを抑えるのに必死になったものだった。そしてその後の二人きりの時間は、そんなことをネタにして笑い合えた。

 彼女の卒業と、僕の他大学への助教授就任決定をきっかけに、あやふやな交際は終わりにした。どちらからそれを告げたのか、今でもよく覚えていない。

 卒論提出後、大学に来なくなった彼女と連絡を取ることもなかったが、卒業式後の謝恩会で顔を合わせた時、知らず、僕の口からこんな言葉が出てきた。
「この後、教員だけでちょっとした飲み会がある。
でも、早めに切り上げるから。もう1回だけ、部屋で待っててほしい」
 戸惑いながらも彼女が受け取ったのは、あの日、返してもらった部屋の鍵。

 一体、僕は何を話そうとしたのだろうか。
 彼女に何を伝えたかったのだろうか。

 答えの出ないまま、先に退席させてもらったにも関わらず、部屋に戻ることもできずに街をさ迷い歩いた。
 どれくらい時間が経っただろう。がらんとした僕の部屋に、彼女の姿はなかった。
 残されていたのは、キーホルダーがついたままの鍵と、一枚のメモと、彼女の香り。

 ああ、そうか。
 もやもやしたままだったから、気持ちを吹っ切りたかったんだっけ。
 君のことが、本当に好きだった。いや、今でも好きなんだって。

 今こうして、あることを彼女に伝えようとしている。
 学生時代と変わらない、以前のままのメールアドレスに、たった一言だけ。

「結婚しました」

 届くかどうかわからない手紙。これも、僕らしい。
 送信ボタンと共に、心の片隅にあった彼女の欠片をそっと押しやった。


――了――

Go Back  To Home