カンパイ


 ロブスターをトマトソースで煮込んでガーリックで風味付けしたソースに、行きつけのパスタ店で仕入れた平打ち麺を絡める。瑞々しいレタスやトマト、色とりどりのパプリカを添えたサラダにイタリアンドレッシング。滅多に使わない細身のワイングラスを二脚、そしてワインクーラーにはシャルドネが一本。
「お、今日はご馳走だな。なんかいいことあったのか?」
「ううん、ただパスタが食べたくなっただけよ」
 仕事帰りの主人のにっこり笑顔。わたしは何気なくそんなふうに答える。ほら、やっぱりパスタにはこの組み合わせじゃないと、なんて付け加えて。その声の向こう、ベビーベッドで小さな娘がすやすやと穏やかな寝息を立てている。
 わたしは、目の前に座る愛しい主人に心の中で謝りながら、ふと零れ落ちそうになる涙をぐっとこらえていた。
 今日は、かつてわたしが心から愛した、あのひととの大切な日。
 誕生日やクリスマスなんかで、ふたりでお酒を飲む時、あのひとはグラスを合わせる前に必ず「カンパイ」と告げた。それが漢字や平仮名でなく、なぜか片仮名のイメージでわたしの耳に、心に染み入ってきた。今でも鮮明に思い出せる、よく響くバリトンの声。
 つまらない諍いが元で、決定的にすれ違ってしまったふたりの気持ちは、その溝を埋めることなく別離を余儀なくされた。わたしの一部は今も、部屋のドアが冷たく閉まる音と膝とを一緒に抱えたまま、二度と訪れることのない街の片隅で蹲っている。
 あのひとのことを一緒に背負わせるには、主人は優しすぎた。付き合い、結婚し、出産に至るまで、一切を引き出しにしまったまま、それでも毎年この日だけは、あのひとの大好物だったこのメニューを共にしてもらっている。
 ごめんなさい、あなた。
 でも、もう今年で終わりにするからね。
 忘れたくはないし、決して忘れられないと思うけれど。
 気持ちの整理、つけなきゃね。

 主人がグラスを傾ける。「乾杯」

 ――ねえ、今日が付き合い始めてから、ちょうど十年目の記念日だったんだよ。

 三分の一ほどを飲み干し、ふぅと天井に向かって溜息。
 滲んだ視界の向こうに、懐かしいあの笑顔と「カンパイ」の声。

 ――愛する主人と娘に恵まれて、わたしは、とても幸せです。
 ――だから心配しないで、あなたもどうぞ……安らかに。

――了――


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