ふわり


 涙を我慢しながら、悠に電話した。
 絶対に弱みを見せないつもりだったのに、寂しさとか悔しさとか哀しさとか、そんなものに負けてしまって。声を聞いたら、奥底から何かがぶわっと溢れてきて、喋ることができないくらい泣いた。しばらく黙っていた悠が、こう言い残して電話を切った。
「紗夜、今から行く」
 何かの冗談かと思った。携帯も繋がらなくなり、私は呆然とそれからの時間を過ごした。
 そして、部屋のチャイムが鳴った。
「来た」
 ドアを開けると、両手に紙袋を提げた悠がすまし顔で立っていた。
「ちょ、ちょっと悠、あなた仕事は?!」
 慌てて問う私の横をすり抜けて部屋に入りながら「休み」とあっさり言ってのけた彼は、狭いワンルームの片隅に陣取って荷物を広げ始めた。使い込んでくすんだ色のコーヒーメーカー。黒光りが味のある真鍮製のミル。ラベルのないペットボトルに満たされた水は、しょぼくれた蛍光灯の光をも煌きに変えている。
 からからから。気持ちいい音を立てながら、焦げ茶色の豆がミルの中に消えていく。
 ごりごりごり。悠がハンドルを回すたび、挽きたての素晴らしい薫りが部屋に流れる。
「何があったんかは知らん、詳しく聞くつもりもない。やけど、紗夜を元気にさせるための方法やったら、僕が一番ようわかってる……と思う」
 かたん。小さな引き出しに満たされた珈琲の粉を、そっと私の鼻先に持ってくる悠。胸の奥まで息を吸い込むと、全身がふわりと幸せな空気に包まれた。
 こぽ、こぽ。挽いた豆の焦げたような薫りもいいけれど、蒸らされて芳醇な匂いを放つこの瞬間が、私はたまらなく好きだ。幼なじみの悠は、そのことをよく知ってる。だからこそ、こうして自慢の珈琲セット一式を携えてやってきてくれた。深夜だというのに、大阪から東京まで何時間も車をかっ飛ばして。
「ん」
 白一色の無骨なカップが、湯気まで美味しそうなモカを湛えて目の前に鎮座している。窓の外はまだ暗闇。真冬の寒空に夜明けを期待するには、五時ではまだ早過ぎた。
「モーニングコーヒー、なんて洒落込みたかったのにな」
「贅沢言うなや」
 二人してカップを両手で包み込み、冷えた手を温めながらぶつけた。
「乾杯」
 涙を一滴浮かべた珈琲は、自分が間抜けに思えるくらいに、胸のつかえをいともあっさりと流し去った。
 舌が痺れるほど熱くて、心が痺れるほど美味しかった。

 あの日の一杯が、それからの私をずっと支えてくれた。
 何か辛いことがあるたびに「ふわり」を思い出して、翌朝から明るく笑うことができた。
 嫌で嫌で飛び出した実家に、久々に帰ってみようと決心した時、大阪に着いたら真っ先に悠に会いにいこうと決めた。
 お父さんの喫茶店を手伝いながらは大変だろうけど、バリスタになるための勉強、頑張ってるかな。
 きっと変な発音になってると思うけど、ドアを開けたら一番に言ってやるんだ。
「久しぶりやね。いつもの、頼むわ」ってね。


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