Dance


「先生、この子が昨日からずっと、こめかみの辺りをトントンしてるんですけど」
 そういって母親が連れてきた一歳の女の子は、なるほど確かに右手を甲のほうに曲げ、掌底でこめかみを軽く叩き続けている。くりくりとした瞳が、少し傾いた頭と同じ方向に寄っていて、なんとなく困ったような気持ち悪いような、そんな表情だ。
「はーい、じゃあちょっとお耳見せてねー」
 プールや海には行きましたか、シャワーをかけたりしましたか、などと質問しながらペンライトを穴のほうへ向ける。と、耳の一番奥に、何か黒く細かいものがびっしりと鼓膜を覆っているのが見えた。ははぁ、と思い当たる。今までも数度診たことのある症状だ。
 細いピンセットで少し摘まみ、持ち上げた。小さな胡麻に似た粉がぱらぱらとこぼれてくるので、左手で受けてじっくり見た。やはり思ったとおりだ。
「お母さん、ちょっとこれを」
 差し出した聴診器を、戸惑いながら耳につけるお母さん。その先の部分に、左手に乗っている粉を近づけた。
「……あら、これ、昨日あたしが弾いたピアノの曲だわ。こっちは車で聴いてたCDのポップス、あとは……テレビで流れてたクラシックと、パパの下手っぴなギターかしら?」
「時々あるんですよ。小さなお子さんの耳には、たくさんの音が入りきらなくて詰まってしまうんです。音楽を聴かせてあげるのはいいですけど、ゆっくり、少しずつにしてあげてくださいね」
 ちょっと耳内の壁を擦ってやると、小さな小さな音符たちがぱらぱらと剥がれた。全部を取ってやらなくても、通路を開けていれば、鼓膜を介してまた自然と奥に流れていくだろう。
 女の子はすっきりした様子でかわいい笑顔を見せた。もうこめかみを叩く動作は治まっていたが、今度は体をリズミカルに楽しげに揺らしている。入り込んだ音符による副作用だと説明して、薬も出さずに診察は終わった。
「お大事にしてくださいね。――はい、次の方どうぞー」

―了―


次の方


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