Balloon
「おかーさーん、あれー」
いつもの元気な「ただいまー」より先に飛んできた一言で、わたしはテーブルに伏せていた顔を上げた。いつの間にかうたた寝してしまったらしく、額を指でなぞると、よれたセーターを押し付けた跡が残っている。無意識のうちにそれをこすりながら玄関に出ると、重そうなランドセル片手に庭木を指差す春菜の姿があった。
「どうしたの?」
ふいと目をやると、低い枝にパステルブルーの風船が一つ。長く垂れた紐の先に、白い封筒のようなものがくっついている。頼りなく木枯らしに揺れる様は、大きな支えを失った今のわたしとよく似ていた。
梢に絡む紐を解き、封筒を外す。と、強い突風に風船がさらわれた。あ、と漏れた声が届く間もなく、小さな水色が灰色の空に消えていった。娘はそれを残念がるでもなく、ランドセルを玄関に放り出して駆け出していく。
「あやかちゃんちにあそびに行ってくるー」
気をつけてね、と叫んだ。久しぶりに大きな声を張り上げた気がした。
リビングに戻り、封筒を開ける。紐と封筒を繋いでいたものか、ホッチキスの針が右隅に残されていた。中にはかわいいうさぎのイラストが入った便箋と、わたしがいつも飲んでいるものと同じ銘柄の、ドリップコーヒーのパックが一つ。
『このてがみをよんだ人が、げんきになれますように』
薄いピンクの便箋には、見覚えのない拙い文字でそんな一文が記されていた。
――あの子ったら、もう……。
世界が滲んで、テーブルに落ちた涙も見えなかった。
あの子は、幼いなりに必死で考えたに違いない。毎日暗い顔をして落ち込んでいるわたしを元気付ける、いい方法は何かないものかと。
(お母さんの大好きなコーヒーが、遠くのお空から届いたら、どんなに素敵だろう)
そんなことを思いつき、自分が仕掛けたこととばれないように策を巡らせ、そ知らぬ顔で一芝居打ったのだ。
もし本当に、あれが誰かの飛ばした風船なら、我が家の庭木の低い枝に引っかかる頃には既にガスがほとんど抜けているはずで、風に煽られた程度で空高く飛んでいくとは思えない。きっと近くのスーパーあたりで配られていたのだろう。癖のある筆跡を隠すため、手紙の文章は友達に頼んで書いてもらったのだろうか。普通なら届かない枝に紐を絡ませるために、教科書で一杯になったランドセルを踏み台にして、一生懸命に手を伸ばす娘の姿がありありと目に浮かんだ。
そして案の定、食器棚にある箱からコーヒーパックが一つ減っていた。
あの子のくれたあたたかさを逃すまいと、カップを両手で包み込んだ。一口すするたびに、胸から全身へと幸せが、元気が広がっていく。
――よくこうして、二人でゆっくり過ごしたよね。
再び零れそうになる涙を拭い、顔を上げる。誰もいない向かいの席に、主人の姿が浮かんで消えた。
――春菜の優しさが詰まった風船、あなたにも届いたかしら?
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