ブラック・コーヒー
裏口のドアを開けた。聞いていた通り、鍵はかかっていなかった。
道路側の窓や入口に厚手のカーテンを引き、外から淡く遮蔽された店内。少しのずれもなく整えられた椅子や砂糖壺。並べられたグラスは、照明を浴びて輝かんばかりに磨き上げられている。見慣れた光景だった。テーブルを拭いていた男が、蝶番の軋みに気づいてこちらを振り返った。
あんなに愛した男だったのに、結局顔を覚えられなかった。目や口など、それぞれのパーツははっきりと思い浮かべられるのに、いざすべてを組み合わせようとすると上手くいかない。私の記憶にある彼は、いつも顔だけ薄暗いヴェールがかかっている。
「やあ、そろそろだと思ってた」
どこか引きつったように見えた笑顔は、普段と違うトーンの声と重なってぎこちなさを増す。ハンドバッグを握り締めた私は、わざと他人行儀に礼をしてみせた。
「コーヒー、煎れるよ」
男は、それに気づかない振りでもしているのか、何事もなかったようにカウンタの奥へと消えた。今の今まで布巾をかけていた席に座り、俯き加減でじっと待った。大好きな……いや、大好きだったあの香りが、張り詰めた空間を緩やかに漂う。
――彼女にも、そうやって得意のコーヒーを作ってあげてるの?
喉まで出かかった言葉を、辛うじて飲み込んだ。
「砂糖、一杯でよかったよね」
並べられた二つのカップ。端に置かれた砂糖壺から掬い取った白い粉を、片方だけにさらさらと注ぐ。
私は、砂糖だけを入れる。
彼は、何も入れない。
彼女は、どうやって飲むんだろう。
目の前に、ソーサーとカップがぶつかる、かちゃんという音が置かれた。取っ手を右のほうに向ける几帳面さも、変わらない。白磁のカップに満たされた、黒い液体。何か怨念を思わせる、底の深い漆黒がそこにある。
「……でさ」
彼の口が動くのとほぼ同時に、奥にある電話が鳴り響いた。昔の十円電話に特有の、耳障りなベル音が充満する。
「行けば?」
努めて冷たく言い放った。彼は困惑を瞳一杯に湛えながら、席を立った。
「もしもし……あれ?」
受話器の向こうからは、ツー、ツーという音しか届いていないようだった。
テーブルに戻ってきた彼の顔が、一瞬強張ったように見えたのは、錯覚ではないはずだった。
「……ちょっと、お手洗い」
わざと置き去りにするような口調で、席を立った。
備え付けの鏡に映った自分を見る。逆に動く像が、口紅を直していく。青白い顔に、映える朱が不気味でさえあった。
テーブルに戻ると、彼の表情は幾分和らいでいるふうだった。言葉を発しようとするのを手で制して、
「乾杯、しましょう」
とカップを持った。彼もそれに倣い、目線の高さまですっとカップを上げる。
「二人の過去に」
かちん、と合わせたカップを、それぞれの口に運ぶ。こくん、と喉を鳴らすと、彼の薄い唇がにやりと歪んだ。くくく、という押し殺した笑い声が漏れてきた。
そして、
私がしたことは、携帯電話でこの喫茶店に電話をかけたこと、その瞬間に彼のカップとスプーンの位置を、ほんの少しずらしたこと、それだけ。
そう、それだけで、病的なほど神経質な彼に、何が起こったのかを想像させるには充分だった。
床に倒れ伏している彼を見下ろしながら、白磁のカップに紅の噛み跡を残す。
涙を一滴浮かべた黒い液体は、かけらほどの罪悪感を喉の奥に流し込んだ。代わりに、心地よい苦味を舌に残した。
――たまには、ブラック・コーヒーも悪くない。
――了――
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