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 ベランダに干したまま忘れたハンカチがパリパリに固まってしまうほどの、吹きすさぶ凩が頬を切り裂くような、そんな一夜が明けた。この冬一番の大寒波に泣かされた、あるいは感謝したカップルも多いんじゃないかな? 泣かされたのは寒さに弱い人、感謝したのは内気な恋人同士。え、どうしてかって? だって、それを口実に手をつないだり、腕を組んだり、寒空の下で身を寄せ合ったりできるじゃない。ちなみに、私は泣いた方。だってホントに寒かったんだもん。
 今日は十二月二十五日。世に言う『クリスマス』は今日で打ち切り、街中のクリスマスセールも、明日には歳末大感謝祭に早変わりしてるんだろうな。でも、私のクリスマスはこれから。昨日までの三日間は、残念なことにアルバイトで丸々潰しちゃって、恋人同士で過ごすクリスマス・イヴは夢と消えた。連日の疲れが溜まってて、いつまでも布団の中の温もりに身を任せていたい気分なんだけど、それは明日以降の楽しみに取っておいて、気合い一閃、体を覆うぬくぬくの繭を無理矢理引き剥がす。途端に部屋の冷気が、掛け布団と敷き布団の隙間から水みたいに流れ込んできて、思わず「ひぃぃぃぃっ!」って悲鳴を上げてしまった。華の乙女(これって死語?)にあるまじき声だわ、と自分で反省。
 カーテンを開くと、露だらけの窓の向こうに、鉛を被せたような暗い空が覗いた。昨日からずっとこんな天気で、朝に凍ってた水たまりがそのまま一日をのんびり過ごしてる。もっとも近所の小学生に踏み割られたりしない限りは、だけどね。
 エアコンが働き出すまで待ってるほど、私はのんびり屋さんじゃないの。一度は全開にしたカーテンで再び景色を隠して、一瞬だけ冷たい空気を我慢してぱぱっと着替えを済ませる。最初のうちはひんやりとした感触を伝える服やジーパンも、じわじわと私の体温を蓄えていく。その間に、氷みたいな水で洗顔。真冬だろうがなんだろうが、顔は水で洗うもの、というのが私の数少ない主義の一つ。ぬるいお湯で洗ったりしたら、洗面所で第二の眠りに突入してしまいそうだから。
 そこまでの毎朝の行事(?)を終わらせて、やっと一息。リビングの床の大半を占めるホットカーペットのスイッチを入れ、投げ出した足に膝掛けをぱさり。米俵みたいなクッションにもたれかかって朝一番の牛乳を飲む。白い液体が流れ抜けるのが、喉や胸の奥の筋肉がきゅっと引き締まるような感触で伝わってくる。
 何気なくつけたテレビでも、今年最後の書き入れ時に気合い充分の商店街の皆様が、開店前の準備に大忙しの様子を映している。私や、彼の姿をそこに重ねてみる。昨日まではそんな風に過ごしていたんだなあ、と、火事場のように大わらわな状態のお店を思い出した。
 私の恋人、福永繁(ふくなが・しげる)君は、「バイクの後部座席に乗って走ってみたい!」という私のわがままを実現すべく―即ち、運転免許の教習所代とバイク代を捻出すべく、この冬は私以上にバイトに精を出す毎日を送っている。十三日から始まった冬休みの間、郵便局と家庭教師の掛け持ちでほぼ連日働いてるみたい。電話口でも、なんとなく疲れて張りのない声で、その忙しさがある程度わかる。あんまり体の強い人じゃないから、無理すると体を壊しそうで心配。今日会ったら言ってあげよう。
「あなたが無事でいてくれるのが、何よりの贈り物よ」
 ……自分で言ってて赤面しそう。そもそも私の一言が原因なのに、かなり勝手なこと言ってるのかも……。
 と、とにかく、今日は久しぶりのデート。やっぱりクリスマスの前後、せめて一日ぐらいは一緒にいたいから、二人ともかなり強引にこの日の予定を空けた。もっとも私の場合は、本当に忙しいのは昨日までで、今日は比較的(あくまで比較的)暇な日なので、休日願いを出してもあまり嫌な顔はされなかったけどね。
 完全にくつろいだ状態でパンをかじりながら、部屋を出るまでの時間を確認する。身支度を整える順序を起きたてののーみそでシミュレートし、「よしっ」と一声、私は立ち上がった。
 程良く暖まった部屋着を惜しげもなく脱ぎ捨て、肌着のままでクローゼットから余所行き用の服を取り出す。『女を美しく見せる』なんて言われて久しい黒を中心に、ぐっと落ち着いた洋服に身を包んだ。普段は滅多に履かないスカートも、長すぎず短すぎないように気をつけながら慎重に選ぶ。背中半分ほどに広がる髪を手早くうなじで纏め上げ、そのまま化粧台に直行、ごく薄目に、でも特別念入りに……。最後に、厚手のダークブラウンのロングコートとふわふわのマフラーを羽織って、準備完了。やっぱり特別な日のお出かけぐらい、ちょっと背伸びしておめかししてみたいじゃない。彼はファッション関係には無頓着だから、多分いつもと全く同じ普段着で現れそうな気がするけど、ま、いっか。
 部屋中の電気を消したことを確認して、さあ、出動!

 私は二年前、この山奥に移転したばかりの私立K大学の近くに、学生向けに新しく建てられたワンルーム・マンションで一人暮らしを始めた。最寄りの駅まででさえ、市バスで二、三十分はかかってしまう極めて不便な場所に、私は住んでいる。対する繁君は、ここから山一つ向こうにある隣の県から、電車とバスを乗り継いで二時間近くかけて自宅通学を敢行している。その彼が原付の免許しか持ってないので、二人で出掛けるときは基本的に電車が主な移動手段になる。
 私が彼に中型二輪免許を取るようにおねだりした理由の一つが、この電車。どこへ行くにも切符を買って、人混みに揺られて移動するのにちょっとうんざり気味だったし、線路やバス路線沿いの場所にしか行けないから不便で仕方ない。だったら自動車の免許でも良さそうなものだけど、車を買うにはお金がかかりすぎるし、何より私自身が、車よりもバイクに憧れてるから。……やっぱり、かなりわがままかな、私って。
 今日もまずは、バスで山を降りて(?!)駅まで行き、そこから電車で待ち合わせの**駅へ。重苦しいまでの厚い雲に覆われた空から、体が一回り縮んでしまうような冷たい北風が吹き込んでくる。コートの前を合わせながら玄関の鍵をかけると、入れ違いに隣の部屋のドアが開いた。大学のクラブの先輩で、何かとお世話になっている人だ。
「お早うございます」
「お早う、合原(ごうはら)さん。……あら、随分めかし込んでるじゃない。デート?」
 私は「ははは……」と笑ってごまかした――つもりだった。
「そうよね、クリスマスだもんね。昨日も遅くまでバイトしてたみたいだし、彼氏――福永君だっけ?――に会う暇もなかったんでしょう。今日ぐらいサービスしとかないと、彼、拗ねちゃうかもよ」
 ……ばればれ。とかくこの先輩は、仲がいいだけに私のことをよく知っている。
「それはそうと」先輩は、それまでの楽しそうな笑顔を一瞬にして曇らせた。
「戸締まり、ちゃんとした方がいいわよ」
「え、どうしたんですか、急に?」
「昨日の夜、この五号棟で泥棒騒ぎがあったじゃないの」
 バイト疲れで爆睡してた私には、なんのことだかさっぱりわからない。先輩は呆れた顔で、
「知らないの? 昨日……いや、もう今日か、夜中の二時半ぐらいに、私とあなたの部屋のベランダの間にある古い型の雨樋、あれに掴まって、この二階まで上がってきてたの」
「え、嘘!?」
 先輩は苦々しげに綺麗な顔を歪めて、続けた。
「たまたまカーテンがちょっと開いてたのよ。そこから見えたの。暗がりな上に、マスクとかマフラーで顔はわからなかったけど。私に気付いたら、慌ててスクーターか何かに乗って逃げてったわ。年末で実家に帰ってる下宿生も多いから、留守の部屋を物色してたんじゃないかって、警察の人は言ってたけど」
「……恐いですね」
「今日は私、一日中暇だから部屋にいるし大丈夫だと思うけど、暴漢だったりしたら大変だから、あなたも気をつけてね」
 首が折れたみたいな勢いで、かくんと頷いた。ほとんど無意識のうちに、掛けたばかりの玄関の鍵を確認する。
「ま、とりあえず今日は楽しんでらっしゃいな」
 廊下を歩く背中に、聞こえよがしな「あーあ、私も素敵な恋人、欲しいなあ」という声が届いた。

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