侍の死

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「葉月(はづき)くーん」
「んあ?」
 背もたれの上一辺に上半身の重心を預け、だらんと頭を向こう側にぶら下げた格好で、その呼びかけに間抜けな返事をした僕は、天地逆で小走りに駆けてくる杉原理沙(すぎはら・りさ)の姿を認めた。てってってっ、と近づいてくるのはいいのだが、途中で真っ平らなはずのリノリウムの床に蹴躓いている。相変わらず器用な娘だなぁと思う。
「えへへ、こんなところにいたんだ」
「どしたの?」
 向かいの席に腰を下ろしたので、頼りない腹筋を駆使して(大袈裟か)体勢を戻す。先端が目に入るのでとても鬱陶しい前髪と、新調したせいか少しくらっとする眼鏡が、地球の重力に従って普段あるべき位置に戻ってきた。
「うん、ちょっと相談したいことがあって……」

 ここは僕が通う大学の学生食堂。友達が軒並み選択しているパソコンの講義中なので、普段に比べて随分閑散としている。本当は僕も出席したかったのだが、選択希望の用紙の提出日を勘違いしていて、学生課に持っていった時には既に期限切れだったという、実に僕らしいドジを踏んでしまったせいで、毎週この時間は暇なのだった。いつもなら、誰もいない部室でのんびりミステリに浸っているところなのだが、春先の本棚整理中で部屋は修羅場と化しており、今日の放課後、部員総出で片付けてしまわないと入れないような状況なので、空調バリバリで快適そのもののここを臨時で使っている。え、図書館? どうも静か過ぎるのは苦手で……。
「ふーん、理沙ちゃん、情報科学選択してなかったんだ」
「私、コンピュータ系って全然苦手で……」
 来週からはこの時間、食堂で読書タイムに切り替えしよう。
「今、大丈夫?」
 貫井徳郎の初文庫化作品『慟哭』があと少しなので読み切ってしまいたいところだったが、すがるようなくりくりの眼差しと、可愛く見えるように計算されたような角度で傾げられた首には、その誘惑もあっさり無力化してしまった。栞を手早く挟んで鞄に突っ込み、
「いいよ。相談したいこと、って言ってたよね」
「うん、相談っていうか、お願いかな」
「お願い?」
 軽く頷き、一つ小さな溜め息をついて、彼女はこう切り出した。
「葉月君、羽野浩一郎(はの・こういちろう)って聞いたことあるよね?」
 時代小説の世界ではかなり異色の若手作家ながら、斬新な切り口の物語で一躍人気を博している羽野浩一郎の名前ぐらいは、ミステリ以外にはほとんど無頓着の僕でも知っている。特に、表舞台には決して名を出すことなく、主君への忠誠を胸に抱いたまま誇り高く死んでゆく男達の生きざまを朗々と謳い上げた『隠密』シリーズは、渋いキャスティングでテレビドラマ化もされ、そこそこの視聴率を稼いでいると聞く。確か少し前に芥川賞も受賞していたはずだ。
 パーティーの席でも、インタビューの写真でも、作品の著者近影でも、果ては普段着に至るまで、着物や絣(かすり)、紋付き袴などを好んで着ており、さすがに帯刀や髷を結ったりはしていないものの、凛々しい風貌や若さに似合わぬ風格などから、『侍』の渾名がついている。
 ――いや、ついて「いた」というのが正確か。
「勿論。この間、ワイドショーを随分騒がせてたじゃないか。殺されたんだったっけ?」
「うん。それで、その時に現場にいた人の中に、雑誌記者がいたの、覚えてない?」
「あ、いや、そこまでは……。あまりテレビ見ないもんだから、情報には疎いんだ」
「いたのよ。でね、その雑誌記者っていうのが、私のお姉ちゃんなの」

 話が長くなりそうなので、カップのオレンジジュースを二つ買ってきた。当然、片方は彼女の前にさり気なく置いておく。小さな「ありがとう」という声と微笑みが得られるのなら、安いもんだと思う。
「お姉ちゃんからの又聞きだから、ちょこちょこ足りない部分もあるかもしれないけど、取り敢えず全部話すね」
 紙コップを暖めるように両手で包み込みながら、彼女は黒い瞳をこちらに向けた。



 その日、車窓の向こうを流れる田園風景を眺めながら、私はデスクから言い渡された取材内容を反芻していた。先日『隠密シリーズ14・影の使者』で芥川賞を受賞した若手作家、羽野浩一郎へのインタビュー。ただそれだけのことなのに、何か得体の知れない不安が心をよぎる。
「私、あまり羽野先生の小説には詳しくないんですけど……。間崎(まさき)君のほうが適任じゃありませんか?」
「まあまあ。これも勉強だと思って行ってきなさい」
 調子のいいことをほざきながら、いやらしい薄ら笑いを貼り付けたセクハラスケベ部長の顔を思い出してしまい、背筋に寒気が走った。鳥肌まで出てるかもしれない。
 大体、あのオヤジの魂胆は見えている。女を使って機嫌を取り、好印象を植え付けておいて、あわよくば連載なんかをゲット、というところだろう。髪と一緒で、考え方も薄い。もし体を要求されでもしたら、退職覚悟で売れっ子作家を張り倒してでも逃げてやるつもりだ。
(あんなクソオヤジの思い通りになんか、ならないからね!)
 知らず、激情が顔に表れていたのか、前に座っている小さな女の子が、怯えたように隣の母親の袖を掴んでいる。私は一つ息を吐いて気持ちを落ち着け、精一杯笑ってみせた。唇の端が引きつっていたのを見られてしまったかどうかは定かではない。

 小さいくせにやたらと重い荷物を肩から下げ、のどかさ豊かな駅に降り立った。シーズンから微妙に外れているせいで、バスターミナルは随分と寂しい。そこにぽつんと一台のワゴン車が佇んでいた。助手席側のドアにもたれ掛かっていた人物が、私を見つけて近づいてくる。後ろに束ねた髪の先が、テンポよく左右に揺れてちらちらと首筋から覗いている。ジーパンにトレーナーというラフな格好だが、目がぱっちりしていて可愛らしい女の子だな、と思った。
「サンライズ出版社の、杉原加寿美(かずみ)様ですね?」
 声を聞いて驚いた。ハスキーな、という風に取れるかもしれないが……。
「あ、はい、そうです。あなたは……」
「羽野先生の助手をしております、丸岡円(まるおか・まどか)といいます」
 ぴょこんと頭を下げた。その拍子に、Vネックトレーナーの襟元に差していたボールペンが、ちぃん、という高い金属音を立ててアスファルトに転がった。それを拾うたおやかな仕草と指先、華奢な体格、全身を包む雰囲気、どれをとっても女の子≠ノしか見えない。
「失礼なことを聞くようだけど……あなた、男の子?」
「はい。よく間違われますが」
 慣れているのか、不愉快な顔一つ見せずにっこりと微笑み返した。はっきり言って、そこらの本物の女の子より数倍は女性っぽい。女の私が見とれてしまうほど美形だ。
「お荷物、お持ちしますね。どうぞお乗り下さい」
 私のバッグを軽々と片手で持ち上げ、ワゴンの後部座席にそっと置くと、私が助手席に乗り込むのを待ってドアを閉めた。

 華奢な腕だが、運転技術は確かだった。曲がりくねった急勾配の山道をすいすいと登ってゆく。さすがに乗り心地は快適とは言い難かったが……。舌を噛まないように注意しながら、羽野の仕事場である山荘への道中、円君に色々質問してみた。
「助手って言ってたわよね。どういう経緯でそうなったの?」
「僕、『隠密』シリーズの大々々ファンなんですよ。それでファンレターを出したんです。そしたら返事を下さって、何度かそういうやり取りをしている間に、仕事場に遊びに来てみないか、とおっしゃって下さったんです。もう嬉しくって、飛び上がっちゃいました」
 この顔で「僕」という一人称を使われると、なんだか妙な気分だ。
「へーえ、それでそのまま」
「はい。先生、独身でしょ? 身の回りの世話をしてくれる人がちょうど欲しかったとかで。僕、力仕事はてんで駄目ですけど、家事は得意なんですよ」
「性別間違って生まれてきたわよねぇ……」
「あはは、よく言われます」
 屈託のない横顔。
「ところで今日は、あなたと先生のお二人だけ?」
「いえ、実は、先日の芥川賞受賞を祝して、内輪でホームパーティを開くことになってたんですが、それと今日の取材がちょうど重なっちゃったんですよ。すいません……」
「え、いいの? 私なんかがお邪魔して……」
「はい、それは大丈夫です。パーティと言っても、先生とごく親しい人との夕食会みたいなものですから。先生と僕、杉原様の他に、あと二人だけです」
「様、はいいわよ。なんかくすぐったいから。さん、で充分」
「あ、はい、ありがとうございます……もうすぐ着きますよ」
 曲がりくねった林道が少し開け、前方に瀟洒な山荘が姿を現した。
「最後に一つだけ、いい?」
「何でしょうか」
「あなた、何歳?」
 ぷっと吹き出しそうになるのを堪えて、円君は言った。
「十九歳です」

 ただいま戻りましたぁ、と円君が家の奥に呼びかけている。外見もさる事ながら、内装もなかなか洒落ている。ここの主人のセンスなのか、それとも円君の趣味なのかはわからなかったが、いずれにしても心地のよい空間であることに間違いはなかった。
「どうぞ、お上がり下さい」
 いつの間にか、玄関マットの上に女性来客用と思しき可愛らしいスリッパが揃えられている。この子、主夫(主婦?)に欲しいわ、と本気で考えてしまいそうだ。
 階段から降りてくる足音にふと顔を上げると、噂通り袴姿で現れた人影があった。
「ようこそいらっしゃいました。始めまして、羽野浩一郎です」
 すっと右手を差し出す。甘いバリトンに魅せられたように、その手を握り返した。暖かく柔らかい、大きな掌だった。
 改めて廊下に立ち並んでみると、かなり上背がある。坂本竜馬のような散切り頭、不精なのかポーズなのか判然としないまばらな顎鬚、それでいてどこか人を惹きつける、優しい表情。写真などで見るよりも更に若く、そして整った顔立ちの男性だった。
「どうかされましたか?」
 不思議そうに目を覗き込まれる。どうやらぽーっと見とれていたらしい。頬が熱くなるのを感じていた。
「あ、いえ、あの、失礼しました……」
 見ると、羽野の背中の向こうで、円君が必至で笑い声を堪えている。私は膨れっ面で一つ睨んでやった。

 応接間のドアをくぐると、ソファに座って煙草を吹かしている男性が一人、大きな焦茶色の本棚を眺めている男性が一人、目に入ってきた。
「お待たせしてすいませんね。こちらが最後のお客さんです」
「あ、サンライズ出版の杉原です」
 ぺこりと頭を下げた。ソファの男が「よっこいしょ」と年寄り臭く立ち上がって、ヤニで黄色くなった歯を見せた。
「こりゃあ別嬪さんが来られましたな。私、光学社の編集者で、平谷克(ひらや・まさる)と申します」
 顔を正面に向けたままの奇妙なお辞儀で、男はそう挨拶した。光学社と言えば『隠密』シリーズの発刊元であり、羽野のお膝元の出版社だ。ということは、平谷は羽野の担当ということか。額にかいた汗が床に落ちないように一生懸命ハンカチで拭っている。まだ春先だというのに、動くのも億劫そうな横幅の広いこの体型を見ているだけで暑苦しくなってくる。握手を求められなくて本当に救われた思いだった。
 もう一人は、本棚を埋め尽くしている色とりどりの背表紙の中から一冊を手に取り、ようやくこちらに近付いてきた。病的な白さの顔にあって、切れ長な瞳が印象的だ。
「はじめまして、中町(なかまち)といいます。ご存知でしょうか」
 中町……中町……。頭の中で繰り返すうちに、一つの名前が浮かび上がってきた。
「もしかして、本格ミステリの『天の災厄』シリーズで有名な、あの中町望(のぞみ)さんですか?」
 すると男は、その暗めな表情からは想像できないほどにこやかに微笑んだ。
「ありがとうございます。有名というほど売れてはいませんけどね」
 中町望。新人賞などでは無冠ながらも、持ち込みのデビュー作が光学社から好調なヒットを飛ばし、その後『天の災厄』シリーズでファンの心をがっちり掴んだ、推理小説界若手のホープである。露出が少なく、謎のヴェールに包まれた部分が多いというミステリアスなところが、またマニアの好奇心を掻き立てているようだ。私も現物は初めて見たが、首筋に垂れた後れ毛を纏める仕草が妙に色っぽい。
「先生、僕の本、読んで下さってるんですね。嬉しいです」
 中町は、手にした本を掲げて羽野に笑いかけた。
「もちろんさ。どうも私は歴史物しか読まないというイメージがあるらしいが、実は推理小説も大好きでね、とりわけ君の作品は気に入ってるよ」
「過分なお言葉で恐縮です。つい先日、光学社さんから出版していただいた新刊を数冊持って来てますので、皆さんにお譲りします。あ、もちろんサイン入りで」
 不意打ちに思わず笑ってしまった。羽野と歳はあまり変わらないように見えるが、貫禄が段違いだ。はっきり言って、大御所と新人の組み合わせのようで面白い。
「さて、円、そろそろ夕食の準備を頼む」
「はいっ」という元気な返事と共に、円君はキッチンへと姿を消した。見送る羽野の顔は、まるで子供を見る父親のようだ。そしてこちらを向いた瞬間、それは作家のものに早変わりした。
「その間に、杉原さんのお仕事を済ませてしまいましょうか」
 私も思わず「はいっ」と大きな返事をしてしまい、一拍置いて三人の爆笑を誘った。


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