騎士達と共に
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その日は、朝から何か不吉な予感のオンパレードだった。
寝起きのぼーっとした頭のせいで階段を踏み外して、おまけに下駄箱に右足小指をオフセット衝突して三十秒ほど硬直した。蛇口を勢いよくひねりすぎて、自分の体もろとも周囲を水浸しにしてしまった。出かけるときに靴紐が左右同時に「ぶちっ」と見事な音を立てて弾け切れた。よく見たら愛用の自転車がパンクしていた。仕方なく歩いて駅に行こうとしたら、目の前を親子連れの黒猫が大挙して横切っていった。駅に着いてから定期券を忘れたことに気が付いた。乗り込んだ電車が人身事故に出くわし、満員の車両の中で鮨詰めにされながら二十分余り立ち往生する羽目になった。挙げ句の果てに、そうまで苦労して着いた大学の一時限目が、無情にも休講だった……などなど。
そういった経緯もあり、僕はまともにその後の講義に出席する意欲を根っこから削がれてしまった。断っておくが、普段の僕は至って真面目な学生で、講義をボイコットするなど実に珍しいことなのだ。頻度として、週に四、五時限ぐらい(ちなみに、僕の選択した講義は全部で十一コマである)。
そんなわけで、僕は昨日近所の書店で買い込んだ推理小説のうちの一冊を鞄から取り出し、人気のない学生食堂の白い椅子に腰掛け、おもむろに一ページ目を開いた。創元推理文庫から出版された、北村薫さんの『空飛ぶ馬』だ。我がクラブ内でも相当高い評価を得ており、読んで損はないと勧められての購入だった。
紙コップのミルクティーを一口飲んで、小さな氷をガリッと噛み砕く。準備万端、今まさに最初の一行を読み出そうとしたその瞬間、
「あーっ! 葉月君、こんなところにいたの!」
後頭部から入り込んで、脳髄を経て三半規管に直接響き渡るような大声で名前を呼ばれ、ささやかな至福のひとときは脆くも打ち砕かれた。
僕がその方向を振り返るより早く、甲高いヒールの足音が近付いてきた。ついさっきは離れた場所から聞こえてきた声が、今度は頭の真上から僕を貫く。
「呑気に本読んでる場合じゃないでしょ! なんで食堂でぼーっと油売ってるのよ!!」
「……そんな大声出さなくたって聞こえてるよ、夏ちゃん」
背もたれに寄り掛かる格好で後ろを見る。腰が伸びて気持ちいい。ずり上がったフレームレスの眼鏡越しに、腰に手を当てて仁王立ちで僕を見下ろす大西夏美(おおにし・なつみ)の怒った顔が逆さまに覗いた。襟首に届くポニーテールが、怒鳴る勢いでゆらゆら揺れている。
「別にいいじゃないか、来てみたら一時限目が休講だったんだから。夏ちゃんもそうだろ?」
「なあに馬鹿なこと言ってるのよ。今日の休講は先週から知らされてたじゃない。ろくに講義にも出ない、たまに出席すれば本を読んでるか居眠り、そんなことしてるから肝心なことを聞き漏らすのよ」
溜息と共に一気に文句を吐き出した。相変わらずはっきりものを言う娘だ。
「……? だったら、なんでこんな時間に学校にいるんだい?」
「あぁーのぉーねぇー……」
呆れ果ててがなり立てる気力も失せたようだ。小さな子供を言い含めるときのような、なんとも間延びした喋り方になっている。
「先週言われたことを、もう忘れたの? 今日は一回生が全員休講だから、この時間に部室に集合しろって先輩が召集をかけたでしょう?」
――しまった、すっかり忘れていた。
グラウンドの隣に備え付けられた、プレハブよりはましという程度の建物が、校内に三十余り存在するクラブの部室の集合体、通称クラブハウスだ。三階建てで、一階と二階の大半を運動部が、残りを文化部が所有している。一つの部につき一部屋で、使いようによっては広くて快適な空間に早変わりするが、僕が所属するクラブはそうはいかない。部屋のほとんどは本棚で占められているので、テーブルでも置こうものならたちまち身動きがとれなくなってしまう。そのせいか、この部室は他にはない絨毯というものが存在する。少ない部費をこつこつ貯めた先輩達の涙ぐましい努力の結晶だ。
入り口の横には、黒地に白い文字で『推理小説研究会』と記されたプレートが張り付けてある。いわゆる『ミス研』というやつで、僕はこのクラブの部員である。
夏ちゃんに引きずられるようにして――いや、実際引きずられていた――、その部室へと向かう。と、視界に三つの人影が見えた。六つの冷ややかな視線が僕に突き刺さる。
「山武葉月(やまたけ・はづき)、二十五分の遅刻につき厳罰を下す!」
厳かな口調でそう言いながら、一人が僕を羽交い締めにし、残る二人が側面に回った。
「やっちまえー!」
背後からの号令を皮切りに、僕は腹の皮が弾けるほど脇腹をくすぐられた……。
数分後。
「ま、これぐらいで許してやるか」
羽交い締めから僕を解放しながら、森下和博(もりした・かずひろ)が言った。僕はいつももっちゃん≠ニ呼んでいる。高校こそ別だったが、小・中学校の九年間を共に過ごし、大学で再会を果たしたという筋金入りの腐れ縁だ。逞しい体つきをしているので、鍛え方の足りない僕ではまるで歯が立たない。背後から両腕を固められては、なおさら成す術がなかった。
「あー、楽しかった! 葉月君っていじめがいがあるんだよねー」
破顔一笑とはこのことか。僕への罰を一番面白がっていた増川幸奈(ますかわ・ゆきな)がとびっきりの笑顔を見せた。つい最近、「暑いから」という理由だけで、二の腕に届きそうなほど長い髪をばっさりボブカットに変えてしまった。そのせいか以前より心持ち幼く見える。
「後で全員にジュースおごり決定だな、葉月」
分厚い眼鏡を光らせて、藤林雅樹(ふじばやし・まさき)が僕の寂しい懐をえぐる一言を発した。今年の新入部員の中では、いわゆる期待のホープで、先輩からも一目置かれている存在だ。まだ日の目は見ていないものの、自分で推理小説を執筆して投稿を続けている。頭の切れと発想の突飛さは群を抜いているが、筆力が足りないと常に愚痴をこぼしている。
「……と、ところで…なんで……みんな………こんなところに………?」
息も絶え絶えに僕が告げた。そう、なぜか全員部室内に入らず、廊下でたむろしていたのだ。それを聞いて、雅輝が無言でドアを指さした。そこには、ルーズリーフに油性マジックでこう書かれていた。
『一回生は、全メンバーが揃うまで中に入らないこと。 先輩一同』
「……どういうことだ?」
「さあな。とにかく最後の一人が来たんだ、入ってみよう」
もっちゃんがポケットから革製のキーケースを取り出した。
窓が締め切ってあるせいで、ブラインドを降ろしているにも関わらず、部屋の中にはむせ返るような熱気が渦巻いていた。ドアを開けた瞬間、思わず後ずさりをするほどだ。僕達はたまらず換気扇を回し、グラウンドを見渡せる窓を全開にした。小さな扇風機も気休め程度にスイッチを入れる。
我が大学は、一般的に山奥≠ニ称される場所に建てられている。つい数年前にここに移転してきたのだ。お陰で不便なことこの上ないが、空気と校舎は綺麗だ。山林特有のひやりとした風が、サウナのようなこの部屋を涼やかな色に塗り替えていく。ようやく人が過ごせる温度になった頃、僕達は改めて避難していた廊下から中に入った。
入り口の右手の壁、背の低い本棚の上に大きなホワイトボードが掛かっている。様々な連絡事項やメッセージ、クラブ宛の手紙などがいつもは一面を埋め尽くしているのだが、それらは綺麗に消されて、あるいは整理されており、代わりに一枚のワープロ用紙が張り付けてあった。みんなで顔を突き合わせて覗き込む。そこにはこう記されていた。
《親愛なる後輩諸君へ
二回生がいないというこの状況下で、諸君は精力的な活動を行い、当部を大変盛り立ててくれている。これは大変に喜ばしいことであり、不甲斐ない我々一同も感謝の意に絶えない。
思えば、我々は諸君に対して、当部の先輩として何一つ先輩らしいことをしていないような気がする。これは以前、我々だけの部会を開いたときに全会一致を見た見解である。
そこで、我々の引退に際し、諸君に当部らしい贈り物を、ささやかながら捧げたいと思う。我々が考え出した暗号を、諸君の力で解読して戴きたい。暗号文は次の通り。
『我は騎士達≠ニ共にあり。されど夜≠フ訪れと共に消えゆく者なり。我を求めよ』
この文章は、我々三回生の中のある一人の女性を指し示している。解答事項は人物名とその理由、及び暗号の解読法である。
さて、ここで諸君に条件を提示する。
一…暗号解読に際し、部員間での相談は厳禁とする。ただし部員以外の人物ならその限りではない。
二…解答は早い者勝ち。男子三人のうちから一人、女子二人のうちから一人、それぞれ正解が出た時点で終了とする。
三…解答権は一人につき一度だけとする。各自、しっかり推理し、吟味して答えを求めて戴きたい。
以上である。なお、正解者には我々からのプレゼントが用意されている。
私は昼休み以降、この部室にいる。解答は私に教えるように。また、一つだけヒントを用意してある。教わるもよし、自らの力を信じるもよし。
それでは、諸君の健闘を祈る。
K大学推理小説研究会三回生一同 代表 細川吾郎(ほそかわ・ごろう)》
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