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「……アンタ、誰だ…?」
男の声に慌てて振り返った私は、上半身を起こしてこちらを見下ろしていた男と目がバチッと合ってしまう格好となった。
「あ、いや、その…っていうか、あなたこそ誰よ!?」
何故だか追い詰められた気がして、逆ギレしてしまった。鳩が豆鉄砲を食らったみたいに、男は目をまあるくしている。
「そ、そうだな、すまない…人に尋ねる前にまず、自分から名乗るのが礼儀だよな。」
物腰やわらかな受け答えで落ち着いている。どうやら悪い人ではなさそうだ。私の取り越し苦労でよかった。
「俺は……え…だ、誰だ……わ、わからない…自分の名前が!ダ、ダメだ…思い出せない!!ど、どういうことなんだ……」
男は傷口のある右のこめかみを押さえ、苦しそうに取り乱し始めた。自己の忘却ーーそれはまさに記憶喪失の典型的な症例…やっぱりアンジーのイヤな予感が当たってしまった。この人は記憶に障害をきたしている。
「お、落ち着いて…わからないなら、無理に思い出そうとしなくてもいいから…ねっ?」
「はぁはぁ……し、しかし、自分が誰かも判らないのに落ち着いてなどいられない…俺は…俺は一体誰なんだ!?」
頭を抱え、今にも暴れ出してしまいそうなほどに混乱している。どうしよう…どうすれば、なだめられるのだろう。でも、はっきりと言葉が話せている点を見れば、それほど記憶障害は重症ではないみたいだけど…酷い患者だったら言葉すら忘れてしまっていて、「うー!」とか「あー!」とか、まるで原始人のような言動しかできなくなって暴れる場合もある。そう思えば、まだ軽症なのが幸いだ。
「私があなたを介抱した時には手ぶらだったけど…財布とか、身分証みたいなのは持ってないの…?」
「……身分証?…ああ、持ってないみたいだ。」
財布も身分証もない…やっぱり行きずりの強盗にでも遭ったのかな。こうも手がかりがないのじゃ、知り合いを探すのも骨が折れそう。
「何も覚えてない?ちょっとしたことでもいいから。」
ちなみに私は精神科じゃなく、形成外科担当だから、記憶障害の人に対するリハビリとかそういったのは全くの専門外。でも、とりあえず何か情報を得ないと、どうしようもない気がしたから…。
「……俺は……そう…日本、日本人だ。生まれは…京都って街で生まれた。どんなところだったかは思い出せないが。」
「日本人…キョウト生まれ…かぁ。キョウトって有名な街だから私も知ってるわよ。そうだ!とりあえず、名前がわからないと何かと不便だから、アラシヤマって名前はどう?」
「……断る。」
「ちょ、どうしてよ?!」
「いや、なんとなく…ダサイ。」
なんなの、この怪我人は。記憶がないクセに変なこだわり意識だけは強いんだから。せっかく私が考えた名前を即答でダサいって、失礼だし!あーもう、めんどくさい。
「“京極”でいい。今、なんとなくこの言葉が頭に浮かんだんだ…。」
「キョウゴク…?なんか、呼びにくい…。」
「……悪かったな。もう、好きに呼んでくれ。」
なんか、くだらないやり取り……おかしいの。本当にくだらないのに、こんなやり取りでも、こういうのが日常の小さな幸せなのかなって思ってしまう…。
……前はよく…いや、今、思い出しても仕方がない。もう昨日、思いっきり泣いたんだから、スッキリしてるんだから……。
「……どうしたんだ?何か気に障ることを言ったなら謝るが…?」
「え…な、なんでもないよ。どうして…?」
──私、また険しい顔でもしてたのかな…
「……涙が出てる」
京極のその一言に私は愕然とした。
昨夜、アンジーの前で渇れるほど涙を流したはずなのに…もうどうでもいいはずなのに…私の瞳が、頬が、濡れていた。
「ご、ごめん!これは何ていうか、アクビを我慢してたら涙だけが出ちゃったみたいな……ハ、ハハ…」
「……フッ、そうか。だが、泣きたい時は素直に泣けばいい。」
そう言って、京極は自分の胸元へと私の頭を引き寄せてくれた。緩やかに、それでいて正確な旋律を奏でる京極の鼓動が私の荒んだ気持ちを徐々にほぐしてくれるような気がした。
──ダメだ。涙が止まらない……
──おかしい。昨晩の事件が新聞にもニュースにも出ていない。現役の軍人が頭部を撃たれて死亡したんだぞ…アイツ……フッ、まさかな。
どれくらいの時間、こうしていたのだろう。
いろんな想いと思い出が込み上げてきて、頭の中がぐちゃぐちゃになった…ぐちゃぐちゃになって、最終的には真っ白になった。その白さは私から時間という感覚を奪い去っていた。ほんの数分のことだったのか、または数十分なのか…もしくは数時間こうしていたのかもしれない。
泣くのに人の胸を借りたのは、いつぶりだろう。人前では涙を見せないつもりでいてたのに、昨日からこうも簡単に涙を見せて、こんなに惨めな姿を曝すなんて…アンジーならまだしも、素性も知らない赤の他人の京極に。
気が済むまで泣いた後、私はなんとなく二人きりでいるのが照れくさくて、それでいてどこか気マズくて買い出しに出ると言って、京極を自宅に残し、そそくさと出てきてしまった。
──私、何やってんだろ。見ず知らずの男の人の胸に抱かれて泣くなんて…恥ずかしい。
京極はきっと、あんな状態だし、何の下心もなく単なる優しさで、ああ言ってくれたんだろうけど、こんな傷だらけの状態で優しくされたら、変に意識しちゃうじゃない。どんな顔して帰ったらいいんだろ…。
…っていうか、外に出てきたものの…よく考えたら私、どスッピンだ。泣きすぎたせいで瞼はきっとパンパンに腫れてるだろうし、化粧落とさずに寝たから肌も荒れまくっている……なんか“惨めなオンナ”丸出しなんですけど。
それに……さっき聴いた京極の鼓動がまだ頭から離れない。悔しいけれど、ちょっとドキッとした。
しばらく、セントラルパークの芝生に座ってコンサバトリー・ウォーターでも眺めてから買い物に行こう…。
『リサ、すまない。君とはもう……』
『ちょっと待ってよ…どういうこと?それだけじゃわからない。ちゃんと話してよ…。』
『他に…女が出来たんだ。心療内科のクレアだ。わかるだろ?だから、もう君とは終わりにしたい。』
たそがれるんじゃなかった。
昨夜の出来事が目の前で今起きているかのように、まだ鮮明に思い出せる…いや、瞼の裏に焼き付いて離れない。せっかく気持ちを落ち着けようとここに来たのに、これじゃ意味がない。
やっぱり一人でボーっとするのはまだ危険みたい。気持ちを切り替えてさっさと買い物を済ませに行こう。必要なのは食材や京極用の鎮痛剤ぐらいかな…こんなみすぼらしい姿を職場の同僚に見られたりする前に、 早いところ帰ろう…。
まずはイースト75丁目を東に向かって、食材を買いにCitarellaへ。
ディナーは気合いをいれてパエリアでも作ろうかと、ムール貝、海老、イカなどの新鮮なシーフードを買い集める。その後は近くのDUANE readeで鎮痛剤と包帯を購入して買い物終了……のはずだったんだけど、買い物魂に火がついてしまって、少しを足を延ばして3rd Avenueを南下していく。
ウインドウショッピングだけをして帰るつもりが、立ち寄ったBarneys New Yorkで、さらに気持ちが昂ってしまって色々と無駄なショッピングをしてしまった。
コスメアイテムを色々と物色して、とりあえずスッピン顔とはお別れできた。顔が整ったところで、次はフレグランスを買い換えることにした。明日からは新しい私に生まれ変わるんだ…という意気込みも込めて。それから、BALENCIAGAで前から気になっていたツイードのコート(京極の血でDiorのコートが使い物にならなくなったから…と自分に言い訳をして)をセール価格で購入。バーニーズを出た時にはめいっぱいの荷物が両手にぶら下がっていた。
──ちょっと買いすぎた…。
けっこう重い…昨日から京極を担いだり、何かと力仕事ばっかり。明日あたり筋肉痛になったりしないか心配だ。
──京極が完治したら、一緒に買い物に行ってくれたりするのかな…。
淡い妄想が頭を過る…ダメだダメだ。何を考えているんだ、私は…危ない危ない。失恋で弱ってる心に、叶いもしない甘い妄想なんて麻薬みたいなものだ。そんな虚しいことはやめよう。完治したら、京極はきっと家を出て行くに決まってる。だって彼は所詮、赤の他人なんだから。
まだ18時半だというのに、すっかり陽も落ち、綺麗な形のクレシェントムーンが濃紺の空で何かにもたれ掛かるように佇んでいた。そんな月を時折、眺めながら5番街を歩いていると、さっきからずっと京極のことで一喜一憂している自分に気が付いた。
──私って、こんなに恋愛体質だったっけ……ん?
昨晩、京極と出逢ったあたりの場所に、警官と鑑識らしき人、合わせて3名ほどが物々しい空気を漂わせながら現場検証を行っている。
──もしかして、京極のことを探してるのかな。
警官に京極のことを相談すれば、もしかするとすぐに身内や知り合いがわかって、京極が記憶を戻すキッカケになるかもしれない。
でも……でも、そしたら、京極はすぐに家を出て行くことになってしまうかもしれない…。
どうしよう……京極…帰ってほしくない。できれば、ずっとこのまま…でも、それは私のワガママであって、京極にとっては迷惑な話かもしれない。
今、ここで警官に打ち明けるべきかどうか、ジレンマが襲いかかってくる。
──ごめん、京極…もう少しだけ、私に時間を頂戴……。
警官には声を掛けず、そのまま5番街を突っ切って、自宅のアパートのエントランスまで歩いてきた。
鍵が開いている…そうだっだ、居たたまれなくて飛び出してきたものだから鍵を掛けるのを忘れてたんだ。京極は大丈夫かな。
「ただい…ま……京極?」
玄関を抜けて部屋に入るも、人の…京極の気配がしない。浴室やベランダ、部屋中を探しても見つからない。
──そんな。まさか、外に…?
イヤな予感が胸を締め付ける。私はまた、見捨てられてしまったのだろうか。どうして…どうして。
いや、まだだ。まだ諦めてはいけない…あの体だ。そう遠くへは行っていないはず。出て行くなら出て行くで、せめてちゃんとお別れしてからにしてほしい。まだ助けたお礼すら言ってもらっていないのだから。
いてもたってもいられず、荷物を置いて再び部屋を出た──今度はちゃんと鍵を掛けて。
額に包帯を巻いた人間なんて、そうはいないはず…誰かに訊いてみよう。
「あの…すみません。」
タイミングよくエントランス前を掃除していた大家のジリアンさんに声を掛ける。
「この建物から、額に包帯を巻いたアジア系の男性が出てくるのを見ませんでしたか?」
「あら、リサ。額に包帯の男の人?それなら、たしか…つい5分ほど前に見たわね…セントラルパークの方へ歩いて行ったと思うわ。リサのお連れさんだったのね。」
ジリアンさんは隠しきれない興味を、瞳を爛々とさせることだけに押し留め、喉まで出かかっている京極との関係にまつわる質問は堪えて教えてくれた。
「セントラルパークですね…ありがとうございます!あ、彼はそういうのじゃないですから…ご期待には添えないと思います…失礼します!」
そう言って踵の向きを変え、立ち去ろうとする時に、ジリアンさんの残念そうな表情が目に入った。
でも、今はそんなこと気にしてられない。とにかく京極を引き止めなきゃ…絶対に後悔しそうだったから。
この時間のセントラルパークは昼間に比べ人通りが激減し、いくら慣れ親しんだ公園とはいえ、あまり夜に一人で歩きたくはない場所だった。
足早に周辺の道を歩いてみたものの、見つけることはできなかった。なにしろ、広すぎる。
木々が視界を遮っているせいで、遠くを見渡すこともあまりできない。それでも北へ西へと歩き回った。日中ここでウォーキングをしている人たちよりも、きっと今の私の方がカロリーを消費しているに違いない。これはこれで、いいダイエットになるかもしれないけど。
焦りと早足で駆け回ったせいで、額にうっすらと汗が滲む。もう諦めて帰ろうか…所詮、京極と私は怪我人と介抱人だけの繋がり。私が馬鹿みたいに一人で盛り上がって、京極に何かを期待しすぎていただけなのかもしれない。惨めだ…失恋直後で傷付いていたとはいえ、自分が情けなくなった。
肩を落として、自宅の方角へと足を運ぶ。
気持ちが先走って何も考えずにけっこう西側のほうまで来てしまったけれど、改めて冷静に辺りを見回すと、鬱蒼とした木々と街灯…街の灯かりでさえも届かない道に入ってしまっていて方向感覚が麻痺する。今、自分がどの位置にいるのか全くわからない。いくら人工的に作られた森とはいえ、昼間は優しい木漏れ日に包まれた平和なこの公園も、夜は暗闇が支配する孤独な漆黒の世界だった。急に表しようのない不安に襲われる。
──大丈夫、ここは山じゃない…少し歩けばすぐにメインストリートに出られるんだから……。
自分を励ましながら、整備された道を踏みしめパークの外を目指して突き進む。きっとまだ19時くらいだろう…鬼も蛇(じゃ)も出る訳がない。京極のことは気にかかるけど、また明日探そう…きっと近くにいるはず…。
「ねぇねぇお姉さん、美人だね。一人?」
……鬼でもなく蛇でもない…最悪なのが出てしまった…。こんなところでナンパ…な訳がない。
薄明かりに照らされたその顔は黒く、ハッキリと判ったのは目と歯の位置だけ…黒人の若者だった。
不安は一瞬にして恐怖へと変わる。
「あ、いや、あの…これから人と待ち合わせで…い、急いでるので…」
横を抜けて歩き始めるも、木の陰から現れた別の男に行く手を遮られる。
今度は白人にブロンドの長髪をした小奇麗な顔をした男の子…。
「えーそうなのぉ?そんな感じはしないけどなぁ〜。ちょっとだけだからさ…“遊ぼう”よ。」
低いトーンで返事したかと思ったら、急に男に左手首をめいっぱいのチカラで掴まれる。
「痛いっ!は、放してください!」
振り払おうと腕を全力で振るものの、男の手はタコの吸盤が吸い付いてるかのように、一向に離れることはなく、思いきって右手で叩こうとしたが、その前にもう一人の男に右の腕も掴まれ、完全に動きを封じられてしまった。
──どうして…どうして神様はこんな残酷な目にばかり遭わせるの…もうダメ……お願い!京極…助けて……!!
黒人の男の手が私の胸元に迫り、悔しさと恐怖で目を閉じた時だった。
二人にガッシリと捕まれていた両腕が、刹那の時間差でほぼ同時にパッと解放された。
──えっ?
何が起こったのか解らず、一気に目を開くと、そこには一人の男が背を向けて立っていた。
「大丈夫か…?」
──その声は……
この世の音では表すことができない、心地よい低さと一瞬にして安心感で包んでくれるような包容力のある声。こんな状況だというのに、その声は何の迷いもなく純粋で澄みきっており、それでいてセクシーな色香も漂わせていた。
そう…それは私が一番聴きたかった声。
「京極……なの?」
「ああ。こんなところで何をしているんだ?」
身の安全を確信した私の脳は安堵感で、ガチガチに固まっていた緊張状態から解放され、しばらく体への神経伝達を忘れて、呆然としていた。
京極に近寄ろうと歩き出すと、腰が砕け、膝から地面へと崩れ落ちそうになる。
「っと。おぶって行こうか?」
地面に着く前に京極の肩に救われる。ん…おぶって行…ええぇっ?!
「そ、そんな恥ずかしいこと!いい!だ、だだだ、大丈夫だから!」
京極の優しさは時に、無邪気に襲いかかってくる。きっと今の私は顔から火を噴きそうなほど、真っ赤っかなのだろう…暗闇で幸いだ。
「オイ!お前!こんなことしてタダで済むと思ってんじゃねぇだろうな!」
振り返ると、私の腕を掴んでいた二人は地に伏せていて、口が訊けそうな様子ではなかった。
「こっちだよ!」
鈍い音がした方を見ると、京極が私の前で右腕を立てて襲いかかってきた脚を防いでくれている。
まだ別の男がいたんだ…。
「オイオイ、ボブの蹴りを防ぐなんて、コイツ結構やるじゃねぇか。」
木の陰や茂みから一人、また一人と、次々に影が増えていく…視界に入るだけでも7人はいる。そんな……どうしてパークにこんな輩が何人もいるのよ…。
「…少しだけ離れているんだ。すぐに済む。」
「は…ハハハッ!オイ、今の聞いたかよ?すぐに済むってよ!すぐにボコられてダウンするってか?やっちまおうぜ!」
暗闇の森に現れた影は、まるで吸い寄せられるかのように一斉に京極に向かってくる…ダメだ、怖くて見てられない。私のせいで京極が…まだ意識を取り戻して間もない体なのに…。
そんなの耐えられない…堪らずグッと瞳を閉じる。
絶え間なく響く鈍い音とともに、悲鳴が森にこだまする。骨が折れたような音もした…京極は無事なのだろうか…まだ私に絡んで来ないということは、京極が守ってくれているってことだと思いたいけど…。
やがて、地獄でしか聞けないような絶望に満ちた悲鳴のコンサートが終わった…私は恐る恐る目を開ける。
「…おまたせ。」
そこには、予想を裏切る光景が広がっていた。
襲い掛かってきたと思われる若い男たちは……みな倒れている。
「だ、大丈夫なの……?!」
「ああ、問題ない。俺は無傷だ。」
無傷…その言葉が逆に、わずかながら私を戦慄させた。あの人数を一人で相手して無傷でいられる…しかも、万全ではない状態で。それがどういうことなのかは、喧嘩を知らない私でも分かる。京極は恐ろしく強い…まるで喧嘩の専門家だ。
「これだけの人数…どうやって……」
「……わからない。君を守りたい一心で立ち向かったら、体が自然に動いたんだ。」
体が自然に…そこでアンジーの言葉を思い出した。
“たぶん軍人か何かね…しかも凄腕だと思う”
やっぱり、アンジーの予想は間違いではなかった。いくらそれなりに腕に覚えのある大人でも、ギャング7人以上を相手に無傷でいられるなんて、あり得ない…そう、凄腕の軍人か何かでもない限り。
となると、頭部の銃痕も、咄嗟に避けて出来た傷である可能性が高いのかもしれない。ただ、考えても京極はその真実を覚えている訳もなく、今は結局、ただの憶測でしかなかった……。
とりあえず、ギャングの仲間たちが来る前に、私たちはこの森を出ることにした…というより、京極に連れて出てもらった、という表現のほうが正しいかもしれない。京極が来た道を覚えていて、すんなりと自宅周辺まで出てこれたからだ。
「あの……助けてくれて…その…ありがとう。でも、そんな体なんだから、本当は外に出てたりしちゃダメなんだからね…。しかも、あんな連中と喧嘩までして……本当に…部屋にいなくて心配したんだから…。」
私、どうして、こんな赤の他人のことを本気で心配してるんだろう。職業病?いや、そうじゃない。京極が傷付くと思ったら、京極がいなくなると思ったら…とにかく胸が苦しくなった。
「心配をかけてすまない…ただ、少し外の空気が吸いたくなってな。アテもなく歩いていたら、何かに引き寄せられたみたいに、気付いたら、この公園に来ていた…。そしたら、たまたま君の姿を見かけて、驚かせてやろうと後ろを歩いていたら、こうなった…って訳さ。そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったな。教えてくれないか?」
「そういえば……そうね。エリザベス…桂エリザベスよ。日本とイギリスのハーフなの。リサって呼んで。」
「リサか…改めてよろしくな。」
「え…う、うん…。さぁ、もう夕飯の支度しなきゃ。早く帰ろ?」
京極の何気ない “よろしく” って言葉に動揺しつつも、少し顔がニヤけそうになる。でも、まだ知り合ったばかりの京極に、そんな表情を見せるのも恥ずかしくて、結局は素直になれず、照れ隠しでやり過ごしてしまった…。
「そうだな…夕飯の準備、力になれるか分からないが手伝うよ。」
そう言って、京極は私に優しく微笑みかけてくれた。 京極は…いつまで私のそばにいてくれるのだろう…。
この時の私は、このまま、京極の記憶が戻らなければいいのに……とさえ思っていた。