作曲家:デリウス(1862-1934)
2003.3
ドビュッシーの後に続く近代音楽〔表現主義〕やまた、更に続く現代音楽では、音階そのものが崩れて無調性となっていたり、不確実性や偶然性が導入されてみたり、はたまた図形楽譜というようなものまで登場したりと、多種多様な表現をみせるようになります。セリー音楽だとか電子音楽に至るまで多彩に発展し、そのあたりからは難し過ぎて私には理解できない部分がほとんどです。「これからは数学に強くないと音楽ができない!」というような言葉まで聞きました。(実は大学で音楽概論の講義も取ってみたんです〜♪ マニアっぽい講師の先生に教えてもらったことを、この音楽館の各所にちょこっとずつ散りばめています(*'-'))
現代音楽はもうマニアック過ぎて、逆に今では一般音楽〔ポピュラーミュージック〕の方が主流ですよね・・・。例えばケージの曲(?)「4分33秒」は、4分33秒の間何も弾きません。ピアノだったら演奏前にピアノのふたを開け、演奏後ピアノのふたを閉める、これだけです。オーケストラバージョンだと指揮はするそうです。その間に聞こえる音(ざわめきとか咳払いとか!?)がその場限りの音楽なのだそうです。うーーーん、芸術って難しい。。。
でも、表現の限りを尽くして発展していく最先端の音楽と、癒しであったりノリであったり人々が求めるものに答える形の音楽と二種類あって、二種類とも芸術なんだと私は思います。それから、私がこうやって趣味でやっている音楽もまた、自己表現という意味で芸術の一つの形と分類されてもいいんじゃないかなぁ・・・と(恐れ多くも)思っています。
私は音楽概論の講義の学期末のレポートをなんと提出日当日の提出目前に書き忘れていたことに気付き、最後の授業後の休み時間に慌ててそういう風に書いて提出しておきました。たった数分の中でしたが、ベートーベンのソナタやラベルの「ボレロ」や現代音楽にあるテクノは同類!、モーツアルトの音楽やインドネシアの「ケチャ」は同類!と思ったので、そうまとめました。前者は表現を追求したもので後者は自然発生的なものと感じたのです。どちらに価値があるとかないとか、そういう枠組みで組んだつもりはありません。それから最後に誰もがみんなやっていることの中にも芸術は眠っていると付け加えました。どれも人間が何かのために作りだしたものだと思っています。違いがあるとしたら、それが芸術そのもののため(表現の向上)に練って練って練り尽くしたものであるか、誰かのためみんなのため(楽しませたり慰めたり)に作ったら自然とそうなっていたものであるか、自分のため(自己実現!?)にやっているものであるかという違いくらいかなー?と感じます。全部できたらとっても理想的☆
そして、みっこいはそれを目指していまーーーす!
まさに今という今の現代音楽はなかなか理解に苦しむところですが、少し昔の近代に近い現代音楽なら楽譜があったので、ちょっと練習してみました。著作権の関係でドビュッシーの時代とあまり変わらない作曲家のものしか載せられないですが、この曲も無調性なんじゃないかな?と思ってデリウスという作曲家のプレリュードにしてみました。変則イ長調の雰囲気がありますが、臨時記号のシャープやフラットばっかりで明らかに半小節ごとに音階が変わっているので、きっと現代音楽のはず・・・。
ここまで音階が変わると、ついていけなくなります・・・。音を忘れる以前の問題で、音を覚え切れません!もっと弾きこまないとだめっこいですよね・・・たどたどしくてすみません。こんな曲があるよーという紹介にもなりません。
まだ3ページあった内の1ページしか弾いていなくて、この後更に発展していい感じになります。でも、ますます難しくて覚えられません。他にも練習しないといけない曲がいっぱいあって、更に新しく挑戦してみたい曲もいっぱいあるので、どれもこれもなかなか曲として完成しません。
すっとこどっこい街道まっしぐらです〜
|