平成21年10 戻る
松室 猛


 いよいよ9月府議会も終盤に入りましたが、連日のご奮闘に敬意を表します。

 WTC問題が今議会の最大の課題のようですが、複数の関係者から審議の状況や議会内部の状態が伝わって参ります。それらの限られた情報をもとに、傍目八目で感じることを申し上げたいと思います。
 常々、橋下知事の政治手法には、強引過ぎる点があり危惧の念を抱いていますが、最近の彼の手法には危機感を感じるようになりました。何よりも、その彼に引きずられて、議会内部までがフラフラになっていることが気になります。
 WTC]の問題を危機管理対策に加え、大阪の復権のための施策と考えているでしょうが、危機管理を主眼とすれば耐震構造上問題があるとされている学校の校舎の耐震対策こそ急ぐべきではないでしょうか。やはりこの施策は橋下知事らしい、見た目には派手で、形を変えた箱物行政としか言いようがありません。
以前にも、私の思いを発信しましたが、彼が自分の主張を絶対化してやみ雲に突っ走る姿勢は議会が押し止めねばならないと考えています。
そこで外から見ていて、感じたことを書いてみることにしました。情報不足のために的外れがあれば笑い飛ばしていただきたいと思います。

平松市長の招聘について
WTCの問題をめぐり21日に平松市長を府議会に呼んで話を聞くそうですが、何を聞くのでしょうか。周辺開発に関する市側の取り組みなどを聞くのでしょうが、聞いたところで彼に質問をすることに妥当性があるのでしょうか。
そもそも平松市長のこの問題に対する取り組み姿勢に問題を感じます。2月議会の時点でも、市の三セク破綻をめぐる大きな問題でありましたのに、彼の対応振りは「他人事」のようでした。破綻が確定し、管財人に渡ってしまってから民間企業に買い手がないから値段を下げて処理しようとしているようです。本来は市が抱える負の遺産に対して市長として責任を感じるのなら、この前の時点でもっと積極的な対応をすべきであった筈です。こんな人を府議会に呼んで、何を聞き、何を探ろうというのでしょうか。府市連携をいうのなら、議会同士(各派の議員団)で連携をして、市会でそれぞれの会派が糾すべきが筋ではないでしょうか。仮に平松市長が府議会と約束をしたとしても、法的にはどんな拘束力があるというのでしょうか。どうも、トボケた話のような気がしてなりません。
この問題をめぐり各派で足並みの揃わない点があるようですが、なぜ自民党議員団はこんな訳の分らぬことをしようとするのでしょうか。他派の対応は見送りだそうですが、当然のことではないでしょうか。

物件だけを買い取る案について
 何故か、WTCを先に買っておいて、庁舎移転は別途考える案が取り沙汰されているようです。これも分らんことです。安いから買っておいて蛸足庁舎を統合するのも一案だというのでしょうが、これでは知事がいままで主張してきた基本路線との整合性が保てない筈です。現実にWTCには既存の入居者があり、立ち退き問題に難問があるようですが、だから府が買い取って同居して賃貸料を取るとでもいうのでしょうか。この動きを外から眺めていますと、知事の駄々っ子ぶりを納めるために議会側がご機嫌取りをしているように思えて仕方ありません。なぜそこまで気を遣うのでしょうか。

不動産賃貸の常として、賃貸は売買に優先しますから所有権移転は賃貸物件に影響を与えないのが通例です。もしこの案を実行するとすれば、買ったものの、既入居者は出て行かないし、移転を了解させるためには多額の移転補償を要求されるなどの問題は当然出てくるでしょう。もし買うのなら、管財人が完全に整理をした上で買うべきです。だから、価額が下がっているのだとすれば、下がった金額以上に大きな問題を背負い込む危険性があります。この話しは直ちに庁舎移転をすることを前提とした場合でも同じです。知事は弁護士ですから、ある意味では専門家でしょうが、価額が下がった以上に大変な金が付きまとうことがないかを精査しなければなりません。
この程度の問題は既に確たる目途を立てているでしょうが、このように考えますと、ますます急いでWTCを買い取ることが妥当だとは思えませんし、折衷案としても正しくないでしょう。何よりも、それ程知事の意向を気遣う必要性があるとは思えません。

議会内の動きに関して
2月府議会から引きずっていることですが、議会の議決に関してどうも理解できない動きがあります。
自民党議員団だけのことかも知れませんが、議員団でこの問題に関する賛否を問い、その結果を持って本会議場での採決に臨むにあたり手続き上の瑕疵があったようです。即ち、議員団での採決と本会議場での採決に乖離があったようでした。その事が原因で自民党会派が分裂しました。
その後、採決は議員の対応を明確化するために、原則として記名投票にすることが決められたようです。このことが直ちにおかしいとは思いませんが、ここに至る手続きに理解できないことがありました。議員団での採決の結果について、明確にのその数を公にせず結論だけを団会議に報告をしたそうですが、なぜそんな意味不明な手段を執ったのか理解できません。隠したところで採決の結果がどうであったかを知らない者などいないではありませんか。このことは済んだことですから今更言ったところで意味がないでしょう。しかし、本会議場での採決に際し無記名投票であったので団で決めたことと違う結果が出たことが、その後の争いの原因になったようです。
そこで、今後は記名投票で責任を明確にする方法が一応承認されたようです。ここで一応と書いたのは、すべての採決が記名式でないことを意味します。

多数決論理と党議拘束について
ここで問題になるのは、団の決定の拘束性の問題です。一般には党議拘束といわれるものですが、団として決めたことを所属議員が踏襲するのは一般的には常識ではあります。問題は賛否が拮抗する場合の決定と、議員各自の意思との整合性をどう調整するかが最大の問題だと思います。

民主主義の基本ルールである多数決論理の最大の問題点は、50%+1をもって決定とすることの妥当性についてであります。
価値観の多様化が進み、利害関係が複雑に絡み合う現代社会において、仮に賛否が拮抗する場合でも政策決定のためには何らかの方法がなければ行政のみならず、あらゆる分野で事が円滑に進まないのは事実です。このための方策として多数決の論理が近代民主主義実現の手法として容認されているのです。
しかし、最大の問題は少数意見をいかに有効化させるかなのです。特に民意を代表する議員の価値観の最大公約数を如何に求めるかが問題なのです。このように考えてきますと50%+1は多数決であっても最大公約数ではないという点が問題となるのです。

少し理屈っぽくなりますが、価値観、言い換えればモノの価値は何によって決められるのかを考えてみる必要があります。経済原論の分野では「価値は主観によって決まる」と言うのが定理となっています。換言すれば、モノの価値はそれぞれの主観、即ち、それぞれの思いや好みで決まるということなのです。従って万人に共通する普遍的な価値など存在しないというのが近代民主主義論の草分け的存在であるシュンぺーターをはじめ多くの社会学者、経済学者の共通認識なのです。この普遍的な価値が存在しないという前提が政治学の出発点でもあるのです。ここに政治の難しさがあるのです。さすれば普遍的な価値が存在しないと仮定し、価値観が輻輳する時にどうするかでが問題となります。こんな場合は多数決で決めるのです。しかし、単純過半数ではすべてがうまく機能するかといえば、そうではない場合が多いのです。そこで多数決だけではなく、最大公約数を求める必要性があるのです。具体的には不信任決議や懲罰の場合や、今回のような庁舎移転などの案件については議決要件として3分の2条項が設けられているのがそれです。

話しを戻しますが、普遍的な価値観など存在しないとすれば、最大公約数が得られない場合、具体的に言い換えれば、団会議において3分の2に至らないような案件については党議拘束など掛けるべきではないということです。
政党や会派の現況を考え合わせてみると、尚のこと多数決論理を振り回し、単純多数決で党議拘束を云々うすることは短絡のそしりを免れ得ないのです。
従って今回の場合、団としての結論がどうなるかは不明ですが、地方自治法の規定と同様に、団において3分の2以上の賛成がないとすれば党議拘束を掛けず、本会議場で堂々と記名式で賛否を表明すべきが筋だと考えます。仮に辛うじて3分の2の賛成があったとしても党議拘束に関しては充分な議論が必要であると考えます。
採決の無記名方式を云々することは、最近の団の流れてとしては不可能でしょうから、党議拘束を掛けずに堂々と記名式で採決に臨むべきです。免責特権がない地方議員といえどもそれ位の見識は持つべきだと思います。
それを敢えて党議拘束をかける愚を犯せば、団を分裂させる危険があること覚悟しなければなりません。こんな時こそ、議員団内部において、忌憚なくこのことを議論し、団をその方向に導くべきだと考えます。

事なかれ主義的で、かつ円満さだけを求めるのではなく、また、反対をすれば知事から報復されるのではないか、とのふざけた危惧から迎合する態度を執るとすれば議会などその存在価値を失うことになるでしょう。
今回のように賛否が拮抗し議員同士が疑心暗鬼な状態にあるときは、その事を議員団内部で真摯に議論し、過ちなき対応をされんことを強く望むものであります。


    平成21年10月15日                         松 室  猛

以 上



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