平成14年5    戻る

パレスチナ問題を考える

大阪府議会議員 松室 猛

パレスチナ問題は2000年に及ぶアラブとユダヤの宗教的、民族的対立がその根幹にあるのは事実であるが、単にそれだけではなく特にイギリスの対応がひどいが、西欧諸国の植民地支配のご都合主義とアメリカが加わった石油をめぐる利権争いが問題を複雑にしていると見るべきである。中東の火薬庫といわれているパレスチナ問題を理解するためには、宗教に対する感覚がとことん希薄な日本人には容易に理解し難い点がありテロなどの行為も自らの命を惜しまない、死ぬことが神とともに生きることだとする感覚は到底理解できない点である。 まず初めに民族の属性とそれぞれの宗教のあらましから検証してみる必要がある。



中東とはどの地域を指すのか

中東という国は存在しない。かつてイギリスが植民地支配していた東の端がインドで、近い方の東のバルカン半島より西にあるから中東と呼んだのが始まりである。
現在でもそうだが、この地域には言語も民族も宗教も異なる多数の国があり、紛争が絶えないが、古代までさかのぼればピラミッドを持つエジプト文明や、くさび形の文字を持つメソポタミア文明が共存する古代先進国家がひしめいていた地域である。
現在の中東は、地中海を隔ててキリスト教的ヨーロッパと明確に対峙する固有の世界観、文明が自己主張を続けている地域である。

アラブとは何か

アラブ民族といっても単一民族ではなく、言語もアラビア語だけではない。共通する点はイスラム教徒であることである。(現在ではモスリム(イスラム教徒)でアラビア語を話す民を総称している場合が多い)
紀元前8世紀頃にはイエメンに南アラビア王国をつくっていたが、王国の栄枯盛衰とともにアラブ人は定住生活者と遊牧生活者(べドウィン)に分かれていった。その後イスラム教が誕生し、布教とともに領土を広げ、エジプトやイランまで取り込む勢力となった。14世紀に西アジアから北アフリカまでを包含する地域にオスマントルコ帝国が誕生したが、19世紀にはオスマン帝国支配からの独立を目指すアラブ統一の意識が高まり1916年には対オスマン帝国反乱が起きている。

イスラム教の概略

教典は旧約聖書である。
したがってユダヤ教、キリスト教と根源は同一である。イスラム教はユダヤ教から遅れること2000年、キリスト教から700年遅れて西暦7世紀に誕生した。旧約聖書の神「ヤハウェ」をアラビア語で『アラー』とし、怒れる神から慈悲深い神に変身させている。
アラーの神が予言者マホメッドに啓示を与えコーランを聖典とするアラブの民を中心とした宗教として誕生。マホメッドは自分を最後の予言者とし規定しているが、自分は神の子ではなく人間であると宣言しており、キリストを神の子とは認めない。またユダヤ教では救世主は世界の終末に現れるとするからマホメッドを認めない。しかし、イスラムは他宗を排斥しない寛容な宗教であるが戒律には厳しいものがある。
イスラム教はユダヤ教やキリスト教より遅れて誕生したので両宗派の布教活動の良いところを取り入れている点が多く、入信に関しては門戸を開いている。

イスラムの戒律は厳しく、五行六信がそれである ===

五行
1.信仰告白
2.1日5回の礼拝
3.喜捨 貧者への施し
4.断食 ラマダーンを1ヶ月設けて貧者の苦しみを体験する
5.巡礼 聖地メッカへの参詣(一生に一回)

六信は日常の習慣を規定している。

その他の戒律 
偶像崇拝の禁止、一夫多妻制の容認、割礼、安息日(金曜)、酒・ギャンブルの禁止、女子の学問・外出規制 
(最近では原理主義を唱える一部の派以外では女子の学問、外出規制については緩和されている)
イスラム法に基づく刑罰は厳しい ―― 目には目を

イスラム教の「メッカ」
サウジアラビアの西端、紅海側にある。メッカはイスラム発生の地でマホメッドの生誕の地といわれており、カーバ神殿がある。偶像崇拝を拒否する宗派だけに中は空洞だが、アダムが楽園から持ち帰ったと言われる「聖なる黒石」がある。

ユダヤ人とは何か

アラブ人と同様にユダヤ人は現在では単一民族とは言い難くなっている。
ユダヤ人の起源はモーゼの時代に、イスラエルの人々の全会衆をすべて調査せよという主の言葉(聖書)によってそれぞれの氏族が一人一人登録した時から続いている、とされているが離散で散らばったり、改宗したりしたので、1970年になって帰還法によって『ユダヤ人の母から生まれた者、あるいはユダヤ教に改宗した者で、他の宗教に帰依していない人』をユダヤ人とすることになっている。
戒律(ハラハー)と慣習(ミンハグ)をしっかりと守ることによって家族を基本単位とするユダヤ人共同体が維持されてきた。現在イスラエルのユダヤ人はヘブライ語とアラビア語を公用語としている。

ユダヤ人が辿った歴史

メソポタミヤ文明のころ(紀元前1020年頃)ソロモン王が統治するヘブライ王国がユダヤ人の国として現在のイスラエルの地で栄えていた。ヘブライ王の死後内紛でイスラエルとユダヤ王国に分断された。
ユダヤはBC586年にバビロニアに、イスラエルはアッシリアにそれぞれ滅ぼされる。
ユダヤはエルサレムを再建するが、BC135年にローマ軍によって再び都市を破壊され、この時から離散(ディアスポラ)が始まる。現在のイスラエルにあるユダヤ教の聖地である「嘆きの壁」はソロモン王が築いた城壁の一部であると言われている。
バビロニアの捕囚から解き放たれたユダヤ人はイスラエルの地で反乱をおこし、ハスモン朝を建国し、ギリシアから独立。その後ギリシアに代わってローマ帝国が支配するが、ユダヤはマカビの蜂起(BC166年)、マッタティアの反乱(BC40年)、皇帝ネロの時代(AC66年)大規模なローマ蜂起、バルコフバの反乱(AC132年)では徹底抗戦したが、その抵抗の凄まじさは諸国の恐れを喚起し、この戦いを最後にユダヤの民は奴隷にされたり追放され、その痕跡を絶とうとする反ユダヤの機運が生じるにいたった。

ユダヤ教の概略

紀元前1260年頃飢餓のためにエジプトに移住したイスラム人がエジプトのラムセス2世に重労働などで迫害を受けたためイスラム人を率いてエジプトを脱したモーゼが道中で神から啓示を受け十戒を授けられたことでユダヤ教が誕生したとされている。旧約聖書はユダヤ教の聖典である。後にモーゼの5書が律法となり厳しい戒律を中心とした宗教として発足。
旧約聖書における神は「唯一絶対神」であり偶像崇拝を認めない。教徒の行いのすべては神との契約に発するとする宗教。神の呼称は「ヤハウェ」と呼ばれるが、教徒はヤハウェと呼ぶことに畏れを抱き一般的には「わが主・アドナイ」と呼ぶ。
旧約聖書にはユダヤ教の信仰の父となるアブラハムに「カナン」の土地を与えると書かれている。カナンの土地とはパレスチナの嘆きの壁がある地域である。戒律の主なもの ―― 以前はユダヤ人の母から生まれた者でなければ入信できなかったが、現在は緩和されている。
選民思想、排他的、割礼、断食、安息日(土曜日)、偶像崇拝の禁止など。

ユダヤ人社会のコミュニティの核は「シナゴーグ」と呼ばれる教会に相当する建物がある。祈りの場であるが偶像がないので中は極めてシンプルである。ラビと呼ばれる導師がシナゴーグで祭儀を司祭し、律法などを教える。

「シオニズム運動」

19世紀後半以降、ヨーロッパのユダヤ人の間に広まったユダヤ人国家建国運動。
エルサレムの別称「シオンの丘」に帰還しようと言う意味から生まれた言葉。
エルサレム問題
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地。
ユダヤ教最大の聖地とされる神殿跡の壁「嘆きの壁」
キリストが十字架に掛けられたとするゴルゴタの丘の教会「聖墳墓教会」
マホメッドが昇天したといわれるモスク「岩のドーム」がある。

PLO(パレスチナ解放機構)

パレスチナの地をイスラエル・シオニストから開放することを目的に1964年に結成された組織。
暫定自治合意(オスロ合意)
1993年に合意。ヨルダン川西岸とガザ地区でのパレスチナ人による暫定的な自治実施に関する合意。

第一次世界大戦以降のパレスチナの動き

第一次世界大戦勝利のためにイギリスはユダヤとアラブに対して、そして同盟国フランスに対しても相矛盾した密約を乱発した。ドイツについて参戦したオスマントルコの封じ込めのためにユダヤ人の反乱を画策したり、メッカにいたフセインとも密約をしていた。その結果、旧約聖書の時代に「カナン」と呼ばれ古い歴史を持つ土地だが、南ユダヤ王国が滅びて以来200年近く国家らしいものはなかったパレスチナの帰属が今日の中東問題の発端であり、イギリスのこの地域をめぐる極めて狡く、いい加減な対応が問題を複雑にしているのである。

イギリスの狡さの検証

『バルフォア宣言』1917年
 イギリスの外相バルフォアが、ユダヤの銀行家で欧州各地に拠点を構えていた大富豪ロスチャイルド卿に出した書簡で「ユダヤ人のための国家をパレスチナに創設することを約束」した。これはイギリスの戦時国債の募集を狙ったものであった。

『フセイン・マクマホン協定』
 アラブに対してオスマントルコとの戦いの報酬としてアラブに自治権を与えると約束をした。

『サイコス・ピコ協定』
 フランスに対してはアラブの分割案として英仏統治領の線引きを約束した。
これらはいずれも第1次大戦の最中に行われたのである。

第一次世界大戦が勝利に終わった後、旧オスマントルコ帝国の広大なアラブ地域は、レバノンはフランスに、パレスチナはイギリスなど英仏の統治下に置かれた。
これらの結果イギリスはトルコを含む戦いに勝利したため、アラブの領土であり、ユダヤ民族の帰還先であり、イギリスの統治領となった。一方ユダヤ民族はナチスの迫害が公然化したためイギリスの約束を信じ多くの民が帰還し20万人近くのユダヤ人が移住し住みついた。

第二次世界大戦後の動き

ナチの敗北で第2次大戦は終結しユダヤ人の人口が急増した。旧約聖書で神から与えられた土地であるとの思いと、イギリスとの約束から増えつづけるユダヤ民族とパレスチナ人との間で戦いが起きた。
・ この問題の収拾に窮したイギリスは委任統治を捨て問題を国連に丸投げした。
・ これを受けて国連は1948年「パレスチナ分割案」を提示。先住のパレスチナ人の3分の1にも満たないユダヤ人に約半分を譲り渡す不公平分割が行われた。

イスラエル建国 (?948年5月14日:米ソは直ちに承認)

〔第1次中東戦争〕 独立戦争
1948年5月14日の建国の翌日、アラブは激怒しの5月15日にエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラクの 連合軍はイスラエルと戦闘状態に突入した。

〔第2次中東戦争〕 
1956年にエジプトのスエズ運河国有化に対して、英仏はイスラエルを巻き込んでスエズ戦争勃発

〔第3次中東戦争〕6月戦争
1967年にエジプトトシリアヨルダンと共に開戦したが6日間で終結。

〔第4次中東戦争〕
1973年ナセルの死後、サダトがシリアと組んで戦いを起こすが、いずれもイスラエルの圧勝に終わる。

アラブの大義とは

英仏によるアラブ分断に抗してアラブ民族主義対シオニズムは1948年のパレスチナ戦争で敗北し、やがて1952年のエジプト革命へとつながりナセルによる社会主義志向のアラブ民族主義復興、「ナセル主義」へとつながっていった。(PLOの始まり)
ナセルの死後サダト大統領による門戸開放政策、オイルマネーの流入による近代化はイスラム原理主義の台頭となりサダト大統領は暗殺された。
1975年レバノン内戦、82年イスラエル軍レバノン侵攻
※ イスラエルの建国によってパレスチナ難民は100万人を越え、その難民キャンプから生まれたのが対イスラエル武装集団の「パレスチナ・ゲリラ」であり、その最大の組織がアラファトが率いるパレスチナ民族解放運動「フアタハ」である。
※ PLO〔パレスチナ解放機構〕はアラブ首脳会議で設立が決められれたパレスチナ人の政治組織である。

パレスチナとは

パレスチナの名前は世界地図を広げても見つけることは出来ない。現在のイスラエルがある土地にユダヤ人が住んでいたがローマ帝国に滅ぼされて祖国を捨てたのが約2000年前のことであり、その後にアラブ系のペリシテ人が住みついた。そこがパレスチナと呼ばれるようになり彼らはパレスチナ人として20世紀まで独自の自治区を築いてきた。

パレスチナは独立した国家として認められたことは一度もなく古くはピザンチン、オスマントルコ、そして近年はイギリスなど常に大国の統治下にあり、一度も自立を認められなかった地域である。

  • 現在でも国家ではなく自治を認められた地域である。
  • 自治区の代表はパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長。
  • 人口―840万人とされてるが、西岸とガザ地区の居住者は西岸が190万人、ガザが約100万人の計290万人と言われている。(残りは難民として近隣諸国に散らばっている)
  • 国土面積 6,165平方キロで三重県をやや上回る規模

    イスラエルとは

ダビデの星
ダビデとはC1000年頃のイスラエル王でイスラエルの歴史上の英雄



カゴメのマークは幾何学的にはヘキサグラムと呼ばれ、時空の象徴、次元周期の象徴でもあり、仏教のマンダラや占星術、神道、家紋にも見られる。必ずしもユダヤとの関連を意味するものではない

  • 政体は共和制であり元首は大統領である。その任期は1期7年である。
  • 議 会  1院制 120議席 任期 四年
  • 首 相  シャロン、リクード、(少数政党が林立する中9政党連立で120議席中78議席の政権)
  • 国 土  22,145平方キロで四国よりやや広い。
  • 人 口  620万人

2000年7月、前バラク政権時代、クリントン米大統領(当時)、バラク首相、アラファト議長が出席するサミットが開かれたが、合意せず9月に衝突が起き500名以上の死者が出た。12月に再開されたが合意に至らず、2001年1月直接交渉の結果もやはり合意に至らなかった。2001年3月に現シャロン政権が誕生し、パレスチナによる暴力が継続している状況下ではパレスチナ側と交渉を行わないと宣言するに至った。

イスラエル軍の状況

兵 役   男子は18歳から29歳までの間に36ヶ月。未婚女子は18歳から21歳までの間に21ヶ月の兵役の
       義務がある。
予備軍   義務兵役期間終了後42歳までの男子と、未婚女子は24歳まで予備役として毎年1ヶ月程度の
       予備勤務の義務がある。
兵 力 ― 63万1千人
陸 軍 ― 14万1千人
海 軍 ― 9千人

空 軍 ― 3万6千人

主要装備 ― 戦車3、900両 ・ 装甲車8、000両 ・ 潜水艦 4艘 ・ 戦艦 3艘
ミサイル艦 21嫂 ・ 哨戒艇35艘
戦闘機 ―― 620機 ・ 攻撃用ヘリコプター  77機

参 考

※イラン・イラク戦争
1980年9月、もとは国境と油田、ペルシャ湾の占有権を巡る領土争いであったが、イランはシーア派の牙城であり、イラクは、サダム・フセインのスンニー派が権力をにぎる国であることから、シーア派とスンニー派の争いといわれた。

8年間もの泥沼の戦いを展開し両国とも疲弊し、フセインのイラクは国力回復を狙ってクエートへ侵略をし『湾岸戦争』となったである。

※イラン・イスラム革命
イランはかつてペルシャ王朝であったが、7世紀にアラブの侵略によりイスラム化された。19世紀に入りイギリスとロシアにより国が2分割植民地化され、第1次大戦後イギリスの後押しでパーレビ王朝が興り国名も『イラン』となった。

第2次大戦後アメリカの支援のもとで大飛躍を遂げたが、パーレビ王朝下の腐敗、堕落、富の偏在を糾弾しイスラム教の原点に立ち返り政教一体の国体を実現したのが1979年ホメイニ師による革命であった。

14年5月度定例講演
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