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イスラム原理主義とは何か?


2001年9月11日、ニューヨークで発生した同時多発テロによって世界貿易センタービル2棟が吹き飛んだ。
民間航空機を乗っ取り、乗客もろとも自爆するテロの状況を世界中の人達がリアルタイムでテレビ放映を通じて見るといった、かつてない経験をした。事件発生から1か月を経過した現在でも行方不明者の探索と瓦礫の整理が続けられているが、何故こんな事件が発生したのか、その根源を探るためにはイスラム原理主義者の実態を理解しなければならないだろう。また、イスラム原理主義者のオサマ・ビンラーデンはエジプトの過激原理主義組織「ジハード団」と「世界イスラム戦線」を結成し「アメリカとその同盟者は軍人、民間人を問わず殺害するのがイスラム教徒の宗教義務」とする旨のイスラム法判断を発しているだけに我々日本人も無関心ではおれない。
これらの超過激なテロ集団が、何故このようになったのかを理解するために、イスラム教徒とキリスト教徒の確執の経緯と状況、即ちアラブ諸民族と西欧諸民族との今日に至る経緯等を検証しなければ理解できないだろう。
これらをひもとくために、まず世界を支配する3大宗教の基本理念とその違いを検証し、確執の原因を理解するための作業を、すすめてみたい。

世界を分断する三大宗教の源流は何か?

ユダヤ教 〔神の呼称 ヤハウェ・普段は「わが主、アドナイ」と呼ぶ〕

紀元前1260年頃、飢饉のためエジプトに移住したイスラム人がエジプトのラムセス2世に重労働などで迫害を受けたため、イスラム人を率いてエジプトを脱したモーゼは、途中、神から啓示を受け十戒を授けられた。この頃に中東の一地域(現在のイラク、シリア、ヨルダン、イスラエル)においてユダヤ教が誕生したとされている。
旧約聖書はユダヤ教の聖典であり(筆者は一説にはモーゼといわれている)。
後にモーゼの5書(後世の神学者の作)等が律法となり厳しい戒律を中心とした宗教として発足した。
旧約聖書における神とは『唯一絶対神』であり、偶像崇拝を認めない。
神は『万物の創造主』で厳重な戒律を持ち、全ては神との契約に発する。
旧約聖書で神は『ヤハウェ』と呼ばれるが、姿は現していない。ユダヤ教ではヤハウェと呼ぶことに畏れをいだき一般的には『わが主・アドナイ』と呼ぶ。
※バチカンには、キリスト教徒のミケランジェロが描いたヤハウェの像が展示されているが、ユダヤの神は姿を現していないのだからユダヤ教はこれを認めない。
旧約聖書には、ユダヤ教で後に信仰の父となるアブラハムに「カナン」の土地即ち、パレスチナ〔現在のイスラエル〕の土地を永久の所有として与えると書かれている。
西暦70年のローマ軍の攻撃によってエルサルム神殿の崩壊を最後に国を追われ世界中をさまよう民となった。ところが、諸外国の干渉もあり(後述)、もともとパレスチナは神によってユダヤ民族に与えられたものであるとする教えから、ユダヤ人が強引に入植しパレスチナ人が難民となり領土紛争がはじまった。〔ユダヤ教の聖地はエルサレムの嘆きの壁〕
戒律の主なもの
ユダヤ人の母から生まれた者しか入信出来ない−選民思想・排他的・割礼・断食・安息日の対応・偶像崇拝厳禁等
※全世界に1,800万人の信者を擁している。

キリスト教〔神の呼称・ゴッド〕

イエスキリストはユダヤ人でユダヤ教徒であった。ところが唯一絶対神の一神教徒であるべきところを、自分は 『神の子』 であると名乗ったことから、ユダヤ教徒からは異端児、反逆者として処刑された。 
キリストが刑死して40年程後に12使徒〔聖人〕等によってキリスト教がユダヤ教の新興宗教として発足した。 
キリスト教は入信者に制限を設けず開放的であり、戒律を無視し「愛と救済」を唱えた新興宗教であった。ユダヤ教との関係で最大の問題点は、自分が神の子と名乗ったため、神の親であるヤハウェを無視できず、
その予盾を解決するために「父と子と聖霊」を三位一体としたこと等がある。
新約聖書はユダヤ教からの独立のために創られたキリスト教独自の教典である。 
その後、約4百年間キリスト教は白眼視され、ユダヤ教徒だけでなく時のローマ皇帝は自らも神であるとする多神教徒であったことなどから迫害をうけ続けた。 ローマに残る「カタコンベ」は迫害から逃れて地下に潜っていた時代の遺跡として有名である。
キリストの死後クリスチャンとなったパウロは布教活動に励んだが、西暦61年に捕らえられ刑死した。彼の布教努力が礎となり、その死後350年を経てローマ皇帝コンスタンチヌスがキリスト教に改宗したのをきっかけに、悲願の「世界のキリスト教」と発展していった。〔宗教改革などのキリスト教内部での抗争は後述〕
磔刑(たっけい)されたキリスト像は崇拝の対象となり聖母マリア、12聖人等も崇拝の対象で偶像崇拝を認める。

イスラム教〔神の呼称・アラー〕

元々の教典は旧約聖書であり、ユダヤ教、キリスト教と根源は同一である。
旧約聖書の神「ヤハウェ」をアラビヤ語で『アラー』と呼び、怒れる神から慈悲深い神に変身させている。
神アラーが、新たな予言者ムハンマド(マホメッド)に啓示を与え、『コーラン』を聖典とするアラブの民を中心とした宗教として誕生。キリスト教から遅れて誕生しただけにキリストの布教活動の良いところを取り入れていることが窺える。
イスラム教ではキリストを神の子とは絶対に認めず、マホメット自身も自分は神の子ではなく、「人間の子」と明言している。またマホメッドは自分を最後の予言者と規定しているが、ユダヤ教の救世主は世界の終末時に現れるとすることから、キリストやマホメッドを認めない。ユダヤ教も自らを神の子とするキリストは絶対に認めない。
イスラム教は入信に関しては門戸を開いているが、キリスト教と違い断食、割礼等に加え安息日(金曜日)の厳守や、更に女子の外出、学問規制、酒、ギャンブルの禁止、偶像崇拝の厳禁は教会内部に止まらず他の宗教の偶像まで破壊する激しさを持っている。一夫多妻の容認は寡婦の救済に端を発したものとされている。  
※全世界に16億人と言っているが定かでない。実数は半数強では?

イスラム教各派のあらまし

  • スンニー派』  
    アラーの使徒ムハンマドの後継者を『カリフ』と呼ぶ。後継には4人の『カリフ』がいるが、正統4カリフを全て正統として認めるのが『スンニー派』である。
    信者全体の9割を擁し一般的には、穏健、現実主義的である。
  • シーア派』  
    4カリフのうち第4代目のムハンマドの従兄弟で、唯一の娘婿「アリー」だけしか正統と認めず、そのアリーと彼の子孫を指導者「イマーム」として仰ぐ。
    アリーの子孫が12名おり、アリーを唯一の「カリフ」とし、その下に12名のイマームと仰ぐ各派の総称が「シーア派」である。
    信者数の1割で、理想主義的、過激でイランやアラブ諸国で影響力を持っている。
    イスラム教は世界制覇を目指しているが、キリスト教のような異教弾圧・抹殺的布教はしていない。

イスラム原理主義とは何か、何が、そうさせるのか? 

20世紀末から21世紀にかけて、爆弾テロやバーミヤンの大仏破壊などの蛮行で知られる過激な活動を展開しているのは、もとは第2次大戦の前の1930年代にスンニー派によって唱えられたイスラム法を厳格に実践し、イスラム社会を正していこうとする「イスラム復興主義」が母体である。
現在はスンニー派、シーア派の区別なく構成されているが、もとは必ずしも過激テロ集団ではなかったが、1980年代の中東情勢の混迷などで次第に変質し復興主義が『原理主義』『過激主義』的集団となっていった。 

・ハマス    ─────

アラビア語でイスラム抵抗運動の頭文字をとったものでパレスチナ人の反イスラエル同盟団。

イスラム救国戦線(FIS)─ アルジエリアで民族開放戦線に対抗して結成された組織
タリバーン  ─────  アフガニスタンの原理主義勢力。イスラム神学校の学生グループが組織されたもの。アフガニスタンの9割を支配する勢力で国内では主としてシーア派と対峙。大仏破壊で世界中から非難を浴びた。
黒幕はサウジアラビアの大富豪オサマ・ビンラーデン。
・ヒズボラ   ───── 神の党を名乗るレバノンの原理主義組織。イランの援助で結成、イランとシリアの支援のもとにイスラエル支援のレバノン軍と対峙している。

※オサマ・ビンラーデン
 
1957年、サウジアラビア最大のゼネコンオーナーの子として生まれた大富豪。
湾岸戦争時にアメリカ軍がサウジに進駐すると「イスラム教の聖地アラビア半島への侵略である」と怒り、サウジ王室とアメリカへの批判運動を展開。
98年ナイロビとタンザニアのアメリカ大使館爆弾襲撃テロの首謀者で、イスラム原理主義者。   
エジプトの過激原理主義組織「ジハード団」と「世界イスラム戦線」を結成し「アメリカとその同盟者は軍人、民間人を問わず殺害するのがイスラム教徒の宗教義務」とする旨のイスラム法判断を発した超過激テロリスト。

※イラクの「バース党」とは     
チグリス、ユーフラテス両大河により形成されたメソポタミヤ古代文明発祥の地でバビロニア、アッシリアもこの地に栄えた古代国家である。後にペルシャに支配されたがアラブの侵入でイスラム化。首都バクダッドはイスラム文明の中心地として繁栄したが13世紀にモンゴルに、16世紀にオスマン・トルコに滅ぼされた。
第1次大戦後、名門ハーシム家のフセインがアラビアのローレンスと共闘してトルコを撃退し独立。1958年にクーデターで共和制となり、さらに63年にクーデターでカセム政権が覆り、サダムフセイン大統領が実権を握る。
サダムは「バース党」であるが正式名称は「アラブ復興社会党」でアラブ統一が旗印であり、イラクの国力増強とを目指してイラン侵攻へとつながっていくのである。

    ※イラン・イラク戦争 

    もとは国境と油田、ペルシャ湾の占有権を巡る領土争いであったが、イランはシーア派の牙城であり、イラクはサダム・フセインのスンニー派が権力をにぎる国であることから、シーア派とスンニー派の戦いともいわれた。
    8年間もの泥沼の戦いを展開し両国とも疲弊し、フセインのイラクは国力回復を狙ってクエートへ侵略をし「湾岸戦争」となったのである。

    ※イラン・イスラム革命     

    イランはかつてはペルシャ王朝であったが7世紀にアラブの侵入によりイスラム化された。19世紀に入りイギリスとロシアにより国が2分割植民地化され、第1次大戦後イギリスの後押しでパーレビ王朝が興り国名も『イラン』となった。     
    第2次大戦後アメリカの支援のもとで大躍進を遂げたが、パーレビ王朝下の腐敗、堕落、富の偏在を糾弾しイスラム教の原点に立ち返り政教一致の国体を実現したのが1979年、ホメイニ師による革命であり、宗教運動であった。

    ※パレスチナ問題の基礎知識

    パレスチナは旧約聖書の時代に「カナン」と呼ばれ、古い歴史を持つ土地だが、南ユダヤ王国が滅びて以来200年近く国家らしいものはなかった。
    今日のパレスチナ問題の発端は、イギリスのこの地域をめぐり極めて狡く、いい加減な対応をしたのが問題を複雑にしている。

    この問題に関して近世の歴史をひもとくと

     
    イギリスは第1次世界大戦中に

    • 対トルコ戦の報奨としてアラブに「フセイン・マクマホン協定」でアラブに自治権を与えると約束。     
    • ユダヤ民族に対しては「バルフォア宣言」でパレスチナ帰還を保証。   
    • フランスとの間では「サイクス・ピコ協定」で英仏統治領の線引きをした。   
      これらの結果イギリスはトルコに勝利したため、アラブの領土であり、ユダヤ民族の帰還先であり、イギリスの統治領となった。
      一方ユダヤ民族はナチスの迫害が公然化したためイギリスの約束を信じ多くの民が帰還し20万人近くのユダヤ人が住み
      ついた。      
      ナチの敗北で第2次世界大戦は終結しユダヤ人の人口が急増した。旧約聖書で神から与えられた土地であるとの思いと、イギリスとの約束から、増えつづけるユダヤ民
      族とパレスチナ人との間で争いが起きた。
    • この問題の収拾に窮したイギリスは問題を国連に丸投げした。
    • 1948年「パレスチナ分割案」は先住のパレスチナ人の1/3にも満たないユダヤ人に約半分を譲り渡す不公平分割であった。
    • 1948年5月14日・イスラエル建国───米ソは承認

      〔第1次中東戦争〕
    • アラブは激怒し建国の翌日の5月15日にエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラクの連合軍はイスラエルと戦闘状態に突入した。
      〔第2次中東戦争〕
    • 1956年にエジプトのスエズ運河国有化に対して、英仏はイスラエルを巻き込んでスエズ戦争勃発
      〔第3次中東戦争〕
    • 1967年にエジプトとシリア、ヨルダンと共に開戦したが6日間で終結。
      〔第4次中東戦争〕
    • 1973年ナセルの死後、サダトがシリアと組んで戦いを起こすが、いずれもイスラエルの圧勝に終わる。


    ※イスラエルの建国によってパレスチナ難民は100万人を越え、その難民キャンプから生まれたのが反イスラエル武装集団の「パレスチナ・ゲリラ」であり、その最大の組織がアラファトが率いるパレスチナ民族解放運動「フアタハ」である。

    ※PLO〔パレスチナ開放機構〕

    アラブ首脳会議で設立が決められたパレスチナ人の政治組織である。第2代目の議長がアラファトである。

     資  料 】

    キリスト教変遷のあらまし

    キリスト教カトリックは最も戦闘的かつ弾圧的で、プロテスタントに対しても同様であった。当然、他教には厳しく11世紀初頭からの「十字軍」の遠征はその最たるものである。
    イベリア半島のスペインは8世紀、北アフリカからジブラルタル海峡を渡って北上してきたムーア人のイ
    スラム勢力に侵略されていたが、1492年「レコンキスタ」と呼ばれるキリスト教による国土回復運動によってキリスト教国になった。  
    これを指揮したのがフランシスコ・ザビエルで知られる「イエズス会」であり、最も戦闘的な教団であった。
    スペイン・ポルトガルを制したキリスト教は大航海時代の波に乗って中南米に進出し、その進出先はことごとくカトリック化されていった。  
    キリスト教をローマ帝国の国教としたコンスタンチヌス大帝が西暦330年、帝都をローマから現在のトルコに移した。
    これがビザンチンで、大帝の名をとりコンスタンチノーブルと呼んだ。

    ローマ教会(カトリック)と東方正教会の分裂
    その後、395年にテオドシウス大帝が死後,、ローマ帝国が分裂し長男がコンスタンチノーブルを継承し「東ローマ帝国(ビザンチン教会−ギリシャ正教→東方正教会)」、次男がローマを継承し「西ローマ帝国(ローマ教会)」皇帝になり最大の勢力を誇っていたローマが分裂した。
    その後650年位後に諸外国に対する対応や教義解釈の違い等を理由に東西教会は決定的な分裂をする。
    15世紀に東ローマ帝国がイスラム教のトルコに滅ぼされ、ビザンチンを撤退、ロシアへ脱出しロシア正教となる。

    プロテスタントの誕生  
    1517年、聖職者の腐敗、堕落、権威主義に反抗したマルチン・ルーテルらによる宗教改革が起きる。
    直接の引き金となったのは「免罪符」であった。
    献金さえすれば免罪符を与え罪を許す教会に対する反発等が原因。  
    十字軍の遠征、親ナチ等々はすべてカトリックであり、激しい対応をする傾向がある。それに対し東方正教会、プロテスタントは穏やかな対応といえるであろう。
    1099年エルサレムにおけるキリスト教徒の安全のためを大義にローマ教会がイスラム教とユダヤ教を殲滅させるために行った軍事行動が十字軍の遠征であった。
    この遠征は7次にわたり200年も続いたが結局1291年イスラム勝利で幕を閉じた。

    カトリック
    カトリックとは普遍、公の意味で、キリストの教えを継ぐ唯一の正しい教会であると主張する。ローマ司教は法王と呼ばれてバチカンは一種の宗教国家をなし、中央集権的支配でカトリック教徒を統治している。

    東方正教会
    ギリシャ正教、ロシア正教ともよばれる経過があるが、日本にはロシアのニコライ皇帝の時代から交流があり、日本では「ハリスト正教会」と呼び、上野のニコライ堂で知られている。

    プロテスタント   
    16世紀にマルチン・ルーテルらによる宗教改革でローマ教会に反抗して成立した教会。カトリック教会の教義中心主義に対して個人の信仰を中心におき儀礼を簡素化した。アメリカに渡り多くの教派に分かれた。  

    • ルーテル派
    • カルビン派
    • 英国国教会派
    • 再洗礼派
    • メソジスト派
    • ユニテリアニズム
    • エキュメニズム−教会教派の違いを超越し全キリスト教徒が一致結束を図ろうとする世界教会主義。YMCA・YWCA等の活動もその一つである  
    • その他無数の派がある。

    ※世界キリスト教統一神霊教会〔統一教会
    文 鮮明が創始した、全宗教を統一しようと主張。原理運動と呼ばれ問題になった。

    ※エホバの証人
    正式名称は「ものみの塔聖書冊子協会」。新・旧どちらにも属さないキリスト教の一派。1870年頃アメリカで成立。大正時代に日本に入り兵役拒否、輸血拒否など独特の教義を持つ。


      この資料は毎月1回行っている定例講演のレジメとして作成したものです

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